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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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怒りの矛先


 一限目の終わり。教室の空気は何処か浮ついていた。窓の向こうには青空が広がっている。夏休みが近いからだろうか、2年A組では生徒たちの笑顔が絶えない。

 いや、陰鬱な瞳の女生徒が一人、窓の外を睨んでいる。艶やかなアッシュブラウンの髪。瑞々しいローズピンクの唇。タレ目から覗く栗色の瞳に光は無い。机に頬を乗せた三原麗奈のため息が明るい教室の空気を蝕んでいった。

「王子、激おこだよ……」

「またオカ研と揉めたんだって……」

「本殿の奴らとも揉めたって噂だよ……」

「ええ、それって大丈夫なの……?」

「大丈夫だよ、だって麗奈は王子だもん……」

 ゆっくりと白い雲が流れていく。穏やかな夏空である。心を無にした麗奈は澄み切った青い海に浮かぶ白い船の移り変わりを楽しんだ。

 魚になりたいなぁ……。

 麗奈の唇から一雫の涎が垂れる。その時、廊下から現れた少女の叫びが教室の平穏を乱した。

「お姉ちゃん、逃げて!」

 三原千夏の長い髪が揺れる。騒めく生徒たち。大野木紗夜の手が麗奈の肩に触れると、軽い悲鳴を上げた麗奈の体が床を転がった。

「ひぃ」

「麗奈! 逃げるよ!」

 床に尻餅を付いた麗奈の腕に紗夜の細い指が絡まる。ボッと頬を赤らめた麗奈はその手を振り払うと、人形のように整った顔の女生徒から逃げるようにして床を這った。

「お姉ちゃん!」

 千夏の吐息が目の前に迫る。その首元から覗く白い肌に、昨夜の出来事を思い出した麗奈の全身の産毛が逆立った。一人で大丈夫だから、という麗奈の全身全霊の懇願などお構いなしに、千夏と紗夜が脱衣所に飛び込んで来たのだ。脱ぎ捨てられた下着。柔らかな肌。甘い花の匂い。風呂場に響き渡る笑い声。そこからの麗奈の記憶は曖昧である。

「麗奈!」

「お姉ちゃん!」

 迫り来る女生徒たちの肌。教室の角に追い詰められた麗奈は両手を前に出したまま蹲った。固唾を飲んで見守るクラスメイトたち。彼らの警戒は廊下から来るであろう「敵」の存在にあった。

「オカ研の奴らか……?」

「本殿の奴らかもしれない……」

「ヤバいよ、今の王子、お姫様モードだよ……!」

「くっ、ここは俺に任せてお前らは……!」

「それ、死亡フラグ……」

 蹲っていた麗奈の肌に女生徒たちの熱が絡み付く。柔らかな感触が二の腕に伝わると、あわわ、と転がるようにして立ち上がった麗奈は教室の外を目指して走った。麗奈のアッシュブラウンに集まる視線。既に「敵」は麗奈のすぐそばにまで迫っていた。

「麗奈ちゃーん!」

 甲高い声が響いた。まだ声変わりを迎えていないような少年の声である。廊下を振り返った生徒たちの目に一人の男子生徒が映る。ワックスで固められた猫っ毛の天パ。ボタンの開いた制服。少し背の低い男子生徒の満面の笑み。

「麗奈ちゃーん! アイラブユー! 王子様が迎えに来たよー!」

 吉田障子の甲高い声に教室の喧騒が大きくなる。

「オカ研なの……?」

「本殿の奴らでは無さそうだね……」

「つか、一年じゃん……」

「王子様、を、迎えに来たでしょ……」

 困惑の表情をした大野木紗夜の視線が廊下に向けられる。唖然とするクラスメイトたち。麗奈の瞳に怒りの炎が燃え上がると、わあっと千夏は声を上げた。

「お姉ちゃん、逃げるよ!」

「な……な……」

「アイツ、朝からお姉ちゃんの話ばっかしてんの! マジでヤバいストーカーだよ!」

「そりゃないぜ、千夏ちゃーん……」

 とほほ、と吉田障子は扉の前で肩を落とす仕草をした。喧騒の収まらない教室。クラスメイトたちは三原麗奈の動向を見守った。

「お姉ちゃんってば!」

「麗奈ちゃーん! 今日もめっちゃ可愛いね!」

「な……な……」

 ひた、ひた、と麗奈の足が吉田障子の元へと向かっていく。必死に姉を止めようとする妹。困惑した表情はそのままに大野木紗夜はフラフラと麗奈の後を追った。

「麗奈ちゃん、さぁ、飛び込んでおいで! 王子の胸に!」

「お姉ちゃん、だめぇ!」

 両腕を広げた吉田障子が薄い胸を張る。千夏の悲痛な叫び。陰鬱な瞳を憤怒の炎で燃えたぎらせた麗奈の白い腕が振り上げられる。

「麗奈ちゃ……」

「ばかぁ!」

 激しい怒りの籠った麗奈のビンタが吉田障子の頬を貫くと、2年A組の騒めきが頂点に達した。



 夏本番の陽射しに負けじと大地が水を空に運ぶ。大地と空の境目はぶつかり合う視線に揺らぎ、もつれ、互いの様相をぐにゃりと歪ませていた。

 三階の校舎でもまた向かい合う視線が交差していた。強い後ろ盾を背景に学校の代表を自称する心霊現象研究部の鋭い視線と、長い伝統を背景に学校の頂点を自称する演劇部の熱い視線が廊下の空気を歪ませている。

「そこを、どけ」

 心霊現象研究部副部長、亀田正人の野太い声が三階の廊下を走った。

「貴方が、退きなさい」

 演劇部副部長、笹原三波はキリッと整えられた眉を寄せると、メゾソプラノの力強い声を前方に飛ばす。亀田正人の坊主頭に青筋が走る。笹原三波はミディアムボブの黒い髪を指でサッと肩の後ろに払った。

 睨み合う二人。二人の背後ではそれぞれの部活動の精鋭たちが腕を組んで目を細めている。張り詰めた空気が真昼間の校舎に奇妙な静寂をもたらしていた。

 タンッ、と弾んだ音が静寂を破った。タンッ、タンッ、と軽快な足音が心霊現象研究部の精鋭たちの背後に迫る。

「部長!」

 先程よりも一オクターブ高い笹原三波の声に、亀田正人は後ろを振り返った。ショートのアッシュブラウン。栗色の瞳。三原麗奈の長い足が校舎を跳ねる。

「三原麗奈!」

 亀田正人の低い声が廊下を揺らした。その重苦しい響きに演劇部の部員たちはビクリと肩を震わせる。スッと体を反転させた亀田正人は肩の筋肉を盛り上げると麗奈の前に立ち塞がった。

「部長! 逃げてください!」

 演劇部員たちの悲痛な叫び。亀田正人の尊大な笑い声。だが、麗奈の耳には誰の声も届かない。

「……なに?」

 冷たい声だった。三階の廊下に再び静寂が訪れる。立ち止まった麗奈の栗色の瞳が目の前で肩を広げる大男の坊主頭を見据えた。冷え切った瞳の色。その白い肌は怒りの炎に赤く染め上げられている。

「退いて」

 何処までも冷え切った声だった。表情を固めた亀田正人はゴクリと唾を飲み込む。心霊現象研究部の部員たちは麗奈の冷たい視線から逃れようと肩を丸めて身を引いた。

「み、三原麗奈……。貴様、あまり調子に……」

「退いてってば!」

 演劇部の部長である麗奈の声は良く通った。白銀の剣先のような声色である。その鋭い声が静寂を切ると、後ろに下がった亀田正人の横を麗奈の足が跳ね抜けた。怒りに震えるローズピンクの唇。麗奈の目指す先は1年B組である。心霊現象研究部の部員たちは呆然と立ち竦んだまま、走り去る女生徒のアッシュブラウンを見送った。



 頬を赤く染めた女生徒たちの足が1年B組を目指して駆けた。激しい怒りの炎を瞳に宿した者は何も三原麗奈だけではない。宮田風花の青い炎。睦月花子の大炎が校舎に陽炎を作る。

「姫宮さん!」

「姫宮玲華ぁ!」

「玲華様!」

 熱風が夏の教室の平穏を吹き飛ばした。1年B組の生徒たちは唖然として固まる。姫宮玲華の姿は無い。

「あ、王子」

 廊下からの声である。振り返った三人の瞳に艶やかな長い黒髪が映る。青いジャージ姿の姫宮玲華は首を傾げて微笑んだ。

「どうしたの?」

 玲華の白い肌に汗が煌めく。右手には何故かバトミントンのラケットが握られていた。

「もう限界だよ! 全部姫宮さんのせいだからね!」

「姫宮玲華! 今すぐ私をまたあの空間に送りなさい!」

「もう一度だけ、あの史上最低最悪の変態に掛け合ってみましょうよ!」

 女生徒たちの絶叫が重なり合う。ラケット握ったまま額の汗を拭った玲華は、彼女たちの後ろで静かに腕を組む背の高い男子生徒に首を傾げた。

「憂炎くん、何かあったの?」

「大変なことになってんだよ」

「何が?」

「怪物を生み出しちまったんだ」

「怪物?」

 怒りに震える女生徒たちの指が玲華の青いジャージに伸ばされた。麗奈と風花の細い指。猛獣の腕が玲華の体を宙に持ち上げる。

「姫宮玲華ぁ! 今すぐ私をあそこに送りなさい!」

「どうして?」

「八田弘を殺すのよ! 手足もいで首を引き千切ってやるわ!」

「どうして殺すの?」

「あのドクズが異常だからよ!」

「八田くんが異常?」

「友達を見殺しにするような男よ! 金と女に溺れたドクズなのよ! つーかアンタ、八田くんって何よ!」

「友達を見殺しって?」

「一郎っつうダチを見殺しにしやがったのよ、あのクズは!」

「八田くんが、王子を?」

「一郎っつってんでしょーが!」

 玲華の体が宙で揺れる。持ち上げられた青いジャージから白い腹が覗くと、飛び上がった麗奈と風花は慌てて玲華のジャージを下に引っ張った。

「ねぇ姫宮さん! 早く僕を元に戻してよ!」

「玲華様! あの下賎の変態は卑しくも玲華様に下心を抱いております! それを上手く利用してやりましょう!」

「つーかただ殺すってだけじゃ気が済まないわ! 一度こっちのアイツを八つ裂きにしてから過去のアイツの首を捻り千切るわよ!」

「よく分かんないよ……」

 青いラケットがゆらゆらと揺れる。花子に持ち上げられたまま、玲華はだらんと肩を落とした。

「姫宮さん!」

「姫宮玲華ぁ!」

「玲華様!」

「うーん、これは会議が必要だね」

 玲華の赤い唇が窓の向こうの青空に煌めく。騒ぎ続ける女生徒たちの声は止まらない。

「よし、放課後に緊急会議を開こう!」

 玲華の声が夏の校舎を弾む。勢いよく横に振られたラケットのガットが麗奈の頭を叩いた。



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