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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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山姥の微笑み


 赤い本革ソファのひび割れた表面は剥がされた瘡蓋のようだった。皮膚病の大型動物を連想した三原麗奈は、太ももに伝わる不快な感触に耐えきれずに立ち上がる。人の疎らな職員室。学校は午後の授業中である。廊下に出てみる気にもならず、手持ち無沙汰に辺りを見渡した麗奈は、不安と不快に込み上げてくる涙を懸命に堪えながら下唇を噛んだ。

「麗奈!」

 甲高い声が職員室の平穏を乱す。教員達は扉の前で瞳を光らす女生徒を睨んだ。「麗奈!」とまたその女生徒が声を上げると、自分の名を呼んでいるのだという事にやっと気が付いた麗奈は慌てて職員室を飛び出した。

「麗奈……ああ、良かった……本当に良かったよぉ」

「う、うん……」

 大野木紗夜の泣き笑いに若干引いた麗奈の足が一歩後ろに下がる。鼻水を啜った紗夜が一歩前に出ると、苦笑いした麗奈は三歩後ろに下がった。

「あ、お姉ちゃん、職員室に居たんだ」

 夏の夜空のように澄んだ少女の声。振り返った麗奈の瞳に長い黒髪の女生徒が映る。タレ目に瞬く栗色の瞳。三原千夏の笑顔が眩しい。

「み、みは……ち、千夏……ちゃん」

「心配したんだからね。全くもう、お姉ちゃん、祓え給えだよ、祓え給え!」

「千夏ちゃん、二度と、二度とその言葉を口にしないで」

 紗夜の瞳が異様に冷たい光を放つと、ゾッと体を震わせた麗奈は壁に背中を寄せた。キョトンとした表情の千夏は手を胸の前で合わせたままである。

「ねぇ、何があったの?」

 千夏の合わせられた両手を何とか引き剥がした紗夜の暗い瞳が麗奈を見据えると、壁沿いに後ずさっていた麗奈は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。

「あ……」

「麗奈、顔色悪いよ?」

「え、あ……」

「まさか、何かされたんじゃ……」

「べ、別に……」

「あ、あいつら……絶対に、絶対に許さない……」

「さ、されてないよ! 福山先生が来てくれたから大丈夫だったの!」

 白目を剥いた紗夜の老婆のような掠れ声に、恐怖の涙を滲ませた麗奈は必死に首を横に振った。また千夏が両手を合わせようとすると、飛び上がった麗奈がそれを止める。

「そっか、福山先生が来てくれたんだ」

「う、うん! 大丈夫だった!」

「それって、福山先生が来てくれなかったら大丈夫じゃなかったってこと?」

「ううん、ううん、福山先生が来てくれなくても大丈夫だったよ! ……千夏ちゃん、お願いだからそれ止めて、この人を刺激しないで」

 千夏の腕にしがみ付きながら麗奈は必死に笑顔を作り続けた。ふぅ、と安心したように息を吐いた紗夜の唇がまた大きく横に広がる。暗い瞳。薄い唇。山姥かもしれないと歯を鳴らした麗奈は、千夏の身だけは何としても守らなければいけないと、彼女の腕を掴んだままゆっくりと後ずさっていった。

「お、お姉ちゃん、痛いよ」

「千夏ちゃん、我慢して」

 授業中の廊下に人けはない。泣き笑いする山姥の薄い唇。山姥がスッと前に移動すると、眼前に迫ってくる不気味な笑顔にひっと目を瞑った麗奈は、ギュッと千夏の体を抱き締めた。

「ねぇ麗奈」

「ひぃ……」

「今夜はうちに泊まりなよ?」

「え?」

「麗奈の家はあいつらに見張られてるからさ、今夜はうちに泊まった方がいいって、ね、いいでしょ?」

「も、も、もしかして、ぼ、僕を食べる気……?」

 麗奈の歯がカチカチと音を立てると、ポカンと目を丸めた紗夜は徐々に瞳を細めていった。イソギンチャクの触手が如く滑らかな指の動き。両腕を広げた紗夜はニヤリと笑う。

「イッヒッヒ、麗奈の体なら何杯でもいけちゃうかも」

「ひぃぃ」

「ぷっ、あっはっは、冗談だって」

「じょ……冗談?」

「私、そっちの趣味ないからさ」

「そっち?」

「イヒヒ、今の麗奈にはちょっと早かったかな?」

「……はぁ?」

 麗奈の細い首が横に倒れる。また、イヒヒ、と笑った紗夜はポケットからアイフォンを取り出すとラインを開いた。

「麗奈のお母さん、良いってさ」

「ええっ? な、なんで……」

「何でって、何が?」

「いや、その、お母さんのラインって……」

「あたしも泊まりたい!」

 飛び上がるようにして両手を広げた千夏の瞳が陽に照らされた朝露のように輝く。「いいよ」と紗夜が笑うと「やったあああ」という千夏の絶叫が五限目の終わりのチャイムと重なった。

「着替えはあるからさ、そのままうちに行こうよ」

「な、なんで……?」

「……よくうちに泊まるじゃん。麗奈、大丈夫、すぐに良くなるからね。部活も休んでて良いよ」

 優しげに微笑んだ紗夜の指が麗奈のアッシュブラウンの髪に触れた。首を横に倒すことしか出来ないでいた麗奈こと吉田障子は、このまま三原家に帰るパターンと、山姥らしき女生徒の家に泊まるパターンの両方を想像してみる。授業を終えた生徒達の声が廊下に響き始めると職員室を出た教員の一人が麗奈を見つめた。

 やがて、何も知らぬままに三原家の両親に娘として迎えられるという惨めで気まず過ぎる状況よりは多少なりとも山姥の家の方がマシだろう、と判断を下した麗奈は、紗夜の瞳を見つめ返してぎこちない笑みを浮かべた。

「じゃ、じゃあお言葉に甘えて、今日は泊まらせて貰おうかな」

「よし! じゃあ千夏ちゃんも、掃除を終えたらすぐ迎えにいくからさ、待っててね」

「待ってます!」

 ピン、と千夏の背筋が伸びる。肩を落とした麗奈は窓の外を見上げると深く息を吐いた。



 剣呑とした空気がミーティングを終えた生徒会室を流れた。姫宮玲華の悲しげな表情。そんな玲華の様子にあたふたと瞳を泳がせる足田太志に向けられた宮田風花の極寒の視線。睦月花子の野獣のような吐息がトロフィーの並んだ棚を震わせる。

「どーゆうことよ、アンタ!」

 花子の犬歯がギラリと光る。絨毯の上で胡座をかく鴨川新九郎の隣で「The・ライト・グリーンキューピッド」のベースを務める長谷部幸平は正座をしたまま背筋を伸ばした。

「だから、練習あっから部活出れねぇんすって」

 不貞腐れたように新九郎がそっぽを向くと、鬼の表情をした花子の腕がスッと動いた。

「おい!」

 田中太郎が止める間も無く、花子の左ジャブが新九郎の顎を射貫く。フッと意識を飛ばした新九郎が床に倒れると、バンドメンバー達はまた合唱のポーズを取った。

「たく、この極細眉、マジで何なのよ。本当に新九郎?」

「いや、確かに顔の造形とガタイは新九郎なんだが……」

「てか、アンタら誰よ?」

「そりゃないぜ、花子さん」

 ギターの大野蓮也が大袈裟に肩を落とす。その孔雀のような紫色の髪を睨んだ花子は強く舌を打ち鳴らした。

「つーかアンタら、何処で新九郎と知り合ったの?」

「は?」

「何でコイツとバンドなんてやってんのかって聞いてんのよ!」

「……いや、つか、どういう意味?」

 後ろを振り返った山中愛人の「愛」のマスクが膨らむ。愛人の眉毛の無い額に視線を送った大野蓮也は肩をすくめた。

「花子さんだぜ、意味なんて考えても意味ねって」

「ああん?」

「落ち着けって、部長」

 新九郎の安否を確認した太郎が顔を上げる。花子はギロリと「愛」のマスクを睨みつけた。

「こら、眉無し! アンタは何処で新九郎と知り合ったのよ!」

「何処って、西小だべ?」

「西小って、アンタらまさか幼馴染?」

「おうよ、皆んな西小だ」

「ふーん、コイツに幼馴染の友達が居たなんてね。てか、アンタら元暴走族だっけ、なーんでバイク止めてバンドなんてやってんのよ?」

「そりゃ、世界平和の為っしょ」

「歌で愛と平和を世界に届けんべ」

「せ、世界平和……」

 あんぐりと口を開けた花子の額から血管が薄れていく。スキンヘッドの古城静雄が、ふん、と息を吐くと、長谷部幸平の口元のピアスが、ははっ、という笑い声と共にカチャリと音を立てた。

「……はん、アンタら、中々やるじゃないの」

「花子さん」

「新九郎、アンタ、良い友達を持ったわね」

「花子さぁん」

「さて、何となく事情も分かったことだし、そろそろ伝説の師範の元にでも向かいましょーか」

 フッと微笑んだ花子が意識の無い新九郎を肩に抱くと、長谷部幸平は微笑みを浮かべたまま慌てて絨毯に片膝をついた。

「すいません、花子さん、僕たち練習あるんで、しんくんは置いていってくれませんか?」

「……何言ってんの、アンタ?」

「その、しんくんは僕らのリーダーでボーカルなんで」

「はあん? 今から私たち超自然現象研究部を立ち上げた伝説の男に会いに行くのよ? 副部長が居ないでどーすんのよ、この曲線眉毛が!」

「い、いや、その、僕らコンサートが近くって、あまり時間が……」

「だったら寝ずに練習すりゃいいじゃないの! 伝説の男から活力貰った新九郎ならね、一週間くらい不眠不休で歌い続けられるわよ」

「いや、でも……」

「しつこいっつの、曲線眉! こんな極細眉になってもね、新九郎は超研の立派な副部長なのよ。たく、あんましつこいとアンタら誘拐罪で訴えるわよ!」

 花子の腕に再び血管が浮かび上がると、ゴクリと唾を飲み込んだ幸平の顎がコクコクと縦に動いた。

「あとアンタら、眉無し以外皆んな眉毛が似たり寄ったりじゃない。分かりづらいから眉毛の形を不揃いにしてきなさい」

「ま、眉で顔の判別しないでくださいよ……」

 幸平の形の良い眉が顰められると、チッと舌打ちした花子は意識の無い新九郎を肩に抱いたまま、スタスタと廊下に出ていった。やれやれと肩をすくめた太郎もその後に続いて生徒会室を後にする。

「……誘拐罪で訴えんべ?」

「……だな」

 愛人の「愛」のマスクが膨らむと「The・ライト・グリーンキューピッド」達のため息が赤茶色の絨毯を微かに揺らした。



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