夢の外へ
「おーい! おーい!」
見えない二階に向かって徳山吾郎は必死に声を張り上げた。地震のような校舎の揺れが激しくなると、バランスを崩した吾郎は壁に寄り掛かる。廊下に横たわった姫宮玲華の浅い呼吸。意識のない三原麗奈の乱れた茶髪が小刻みに震える。
二人を視界に入れた吾郎は体勢を立て直すと、腹の底から声を絞り出した。階段の壁に走る亀裂。天井の板が崩れ落ち、廊下の壁が倒れようとも吾郎は気にせず声を張った。
「おーい! おーい!」
うねり、隆起した廊下にひっくり返った吾郎は背中を強く打ち付けた。一瞬呼吸が止まる。それでも吾郎は叫び続けた。
「おーい! おーい!」
歪み崩れていく夜の学校。暗闇の向こうに伸ばされる声。
吾郎の叫びに導かれるようにして、校舎を彷徨っていた者たちが姿を現した。
「逃げろっ!」
田中太郎の叫び声が一階の廊下に届いた。踊り場を見上げていた吾郎の瞳に二人の男の姿が映る。大柄な太郎を肩に支えて階段を駆け降りる小田信長の荒い呼吸。宮田風花らしき女生徒を太い腕で抱き締めた鴨川新九郎が姿を現すと、吾郎は緩めた口からほっと息を吐いた。
「逃げろっ!」
太郎の怒鳴り声に呼応するかのように、凄まじい轟音が暗い校舎を上下に揺らした。大岩が雪崩れ落ちるかのような振動。崩れた壁の破片が暗闇を舞う。
うわっ、とバランスを崩した吾郎は倒れ込むようにして廊下に両手を付いた。そのまま壁際に横たわる姫宮玲華の元へと這った吾郎は、浅い呼吸を繰り返す玲華の耳元に口を寄せる。
「おい、皆んなが戻ったぞ! これで外に出られるのか?」
玲華の細い顎が微かに縦に動いた。ほんの僅かに口を横に開く女。グッと唇を結んだ吾郎は、玲華の瞳を見つめたまま頷き返すと、その背中に右腕を回した。
「もう少しの辛抱だ」
姫宮玲華を右腕に三原麗奈を左腕に抱いた吾郎は、ズルズルと二人を引き摺りながら、上履きの散乱する昇降口に向かって歩き出した。足を負傷した太郎と共に吾郎の背中に追い付いた小田信長が鋭い悲鳴を上げる。玲華の赤黒く捻じ曲がった両腕に強いショックを受けたのだ。白目を向いて卒倒しそうになるおかっぱ頭の一年生。片足で立った太郎がその小さな背中を支えた。
「待ってよ! 部長がまだ上に!」
一階に降り立った新九郎の怒鳴り声が昇降口を駆け抜ける。振り返った吾郎は暗闇に向かって怒鳴り返した。
「花子くんは何をしてるんだ!」
「部長は酷い怪我を負ってるんだ! そんな体で僕たちを逃がす為に一人残ったんだよ!」
立ち止まった新九郎は暗い階段を振り返った。壁を走る亀裂が広がっていく。うねり、隆起するリノリウムの廊下。崩れ落ちた天井が昇降口に並ぶ下駄箱に被さると、舞い散る砂埃に目を細めた吾郎は悲鳴に近い声を出した。
「む、無理だ! これ以上は待てない! 皆んな死んでしまうぞ!」
「もう少しだけだ、もう少しだけ待ってくれ! 部長なら必ず戻って来るから!」
二人の怒鳴り声が轟音に飲まれていく。白目を剥く信長の体を支えていた太郎は、その夜の校舎を震わせる轟音に迫り来る雪崩をイメージした。はっと目を黒くした信長が甲高い悲鳴を上げる。暗闇を押し潰していく黒い影が廊下の向こうから昇降口に迫って来ていたのだ。
「崩壊するぞ!」
そう叫んだ太郎は昇降口に向かって信長を突き飛ばした。「逃げろ!」と長い腕を振る太郎に、頷いた吾郎は背中を向ける。
「新九郎! お前も行け!」
「で、でも……」
「宮田さんを外に逃せ!」
「わ、分かったよ! すぐに戻るから待ってて!」
「ああ!」
天井の破片から風花を守るように、体を前に屈めた新九郎は外に向かって走り出した。遠ざかっていく親友の広い背中に微笑む男。
早くしろよ……。
右足に響く鈍い痛み。轟音に歪んでいく夜の校舎。
下駄箱の縁に手を付いた太郎は崩れていく暗闇の向こうに目を細めた。
ヒタ、ヒタ、と踊り場に暗い影が歩み下りる。黒い女生徒の笑顔は何処までも不気味で、また無邪気に見えた。夜闇に漆黒が黒光りするように、女生徒の黒い肌が階段に現れては消える。
暗闇にゆらゆらと白い光が浮かぶ。赤い水玉模様が揺れる。
白い布がギリギリと睦月花子の左腕を捻じ曲げていく。既に虫の息の花子には抵抗する術が無い。僅かに込められた腕の力など意にも介さず、赤い糸が無限に縫われる白い布が凄まじい力で花子の左肩の骨を外した。
激しい痛みに息を止める女。更に強く布が捻じ曲がっていくと、何かが千切れ、折れるような音と共に花子の左腕から血が噴き出した。黒い女生徒の唇から白い歯が覗く。裂けた腕の皮膚から滲み出た血が花子の上半身を赤く染めていった。
はっと花子は息を吐いた。常人ならば死を伴うような痛みである。そんな意識を削り落とすような激痛が花子の心臓を脈動させた。
「……終わりなの?」
花子の唇が横に開く。踊り場に降り立った黒い女生徒は動きを止めた。
「まだ、足が二本残ってるわよ?」
ゆっくりと振り上げられた右足が、ダンッ、と踊り場に叩き付けられた。校舎を震わす崩壊の振動とは別の激しい打撃音が階段を揺らす。
唇を閉じた女生徒が黒く焦げたような左腕を花子に向ける。白い布が風に靡かれるように暗闇から現れると、花子の両足を包み込んで縛り上げた。
「はん」
花子は笑った。躍動する心臓が残った血液を全身に巡らすと、左腕からドクンと血が溢れ出すと共に、白い布に囚われた花子の体が黒い女生徒に向かって動いた。
「どうしたの」
鬼のように顔を歪めた花子の唇が大きく開かれる。一歩、花子が前に足を踏み出すと、一歩、黒い女生徒は後ろに下がった。
「まだ、口が残ってるわよ?」
黒い女生徒は唇を震わせた。白い布が花子の両足を締め上げる。だが、ほとんど力の籠っていなかった左腕とは違い、筋繊維の収縮がなされた花子の両足の動きは止まらない。浮かび上がった血管。強靭な骨格。大きく開かれていた口がガチリと閉じられると、歯と歯が叩き合わされる衝撃音が暗闇を走った。
「口が残ってるっつってんのよ! アンタの頭蓋を噛み砕ける私の口がね!」
踊り場を下がっていった黒い女生徒の踵が階段にぶつかる。バランスを崩した女生徒が尻餅を付くと、白い布を引き千切るような勢いで前に進んでいった花子の瞳が女生徒の短い髪をギロリと見下ろした。
「あら、アンタ、よく焦げて美味そうじゃないの……。その頭から足の先まで、ムシャムシャと喰い潰してやろうかしらね……」
花子の唇が横に大きく開く。赤く染まった全身。鬼のような形相をした女の両眼が暗闇の中でギラギラとした強い光を放った。
声の無い悲鳴を上げた黒い女生徒は花子に背を向けると、慌てたように階段を這い上がった。転がるようにして三階の廊下で立ち上がった千代子の背中が崩壊する校舎の暗闇の奥底へと消えていく。
「……はん」
ふわりと白い布が消えると、花子の体が踊り場に倒れた。校舎を揺らす轟音。亀裂の広がった壁が砂上の楼閣のように脆く崩れ落ちる。
砂埃を被った花子は何とか立ち上がろうと左腕に力を込めた。だが、体が反応を示さない。痛みも無い。左腕が使い物にならなくなっていた事を思い出した花子は、腹に力を込めて体を起こした。
前方に広がる暗闇。激しい轟音が視界を上下に揺らす。ふぅ、と息を吐いた花子は、座り込んだまま疲れ切ったように視線を落とした。
部長──。
ほんの微かな音が暗闇の奥底から轟音を抜けて花子の耳に届く。顔を上げた花子は再び、部長、という虫の羽音ほどにか細い声を聞いた。
たく、しょうがない奴らね……。
のそり、と立ち上がった花子は暗闇の底に向かって一歩足を前に出した。崩壊していく校舎。コンクリートの壁が花子の真後ろにゴトリと落ちる。微かな声の導き。フラつく足を引き摺りながら、花子は一歩、一歩、階段を下りていった。
「部長!」
一階に降り立った花子の耳にはっきりとした声が届いた。視線を上げた花子は此方に向かって声を張り上げる田中太郎のパーマがかった長い髪を見る。
「部長! こっちだ!」
太郎の声に導かれるようにして、花子は一歩足を前に踏み出した。フラリと揺れる花子の体。太郎は必死に声を張り続ける。
ドンッ、と廊下が激しく横に揺れた。崩れた壁が一階の廊下を押し潰していく。校舎の一部が花子の真横に落ちると、フラつく花子の体が前方に倒れた。
「部長!」
太郎は右足を引き摺るようにして花子に腕の先を伸ばした。うつ伏せに倒れた花子に反応は無い。
ガンッと太郎の頭に衝撃が走る。廊下に倒れた太郎の体を覆っていく天井の破片。チカチカと光る視界に呻きながら、最後の力を振り絞った太郎は視線を上げた。うつ伏せに倒れた花子に向かって声を絞り出す。だが、倒れている筈の花子の姿は何処にもなかった。
「ほんと世話が焼けわね」
掬い上げるような花子の蹴りが太郎の体を宙に浮かばせた。太郎の呻き声が遠のいていく。暗い校舎が崩壊の波に飲まれていく。
花子に容赦はなかった。昇降口の土間に転がった太郎の体を力一杯蹴り上げる。回る視界。鬼の顔が暗闇に浮かんでは消える。
夜の校舎の崩壊。学校の残骸に玄関が押し潰される刹那、二人の生徒が外の世界へと飛び出していった。




