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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第一章

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赤い糸


 睦月花子が教室の扉を振り下ろす刹那、鈴木英子は左腕を横に振った。ぐわんと空間が歪む。振動する波が迫り来る青のベニヤの縁を砕く。

 だが、扉の勢いは止まらない。空気の振動などものともせず、空間を切り裂くようにして振り下ろされた扉の先が鈴木英子の右肩から肋骨を砕き潰した。そのままの勢いで廊下に叩き付けられた扉は粉砕されて宙に弾ける。はらはらと舞い散るベニヤの破片。扉の後を追うようにして廊下に倒れた鈴木英子の体が青い木屑に埋もれていく。

「亡霊も大した事ないわね」

 はん、と花子の口元に不敵な笑みが浮かび上がる。廊下に倒れた鈴木英子を一瞥する事もなく、扉の破片を投げ捨てた花子は背中を向けた。

 夕暮れ時の校舎に黒い影が伸びていく。先を行った仲間たちの鋭い悲鳴に花子は首の骨を鳴らした。

「たく、忙しい奴らね」

 ハッと息を吐いた花子はダンッと一歩廊下を踏み締めた。頬を流れる汗が赤い陽に煌めく。小刻みに震える左手の小指。微かにボヤけ始めた視界に一瞬目を瞑った花子は、浅く息を吸い込むと走り出した。滴り落ちた汗が宙を舞う。脇腹から滲み出た血が足を伝う。

 上等じゃないの。

 花子は極度の興奮状態にあった。エンドルフィンの活性化。だが、その強靭的な肉体も死には抗えない。



 初めに感じたのは激しい振動だった。

 全身が揺らされる感覚。腹部にかかる圧迫感が苦しい。

 次に感じたのは痛みだった。

 鼻の奥を昆虫が這いずるような痛み。奥歯をへし折られるような痛み。両眼から頭蓋骨を貫く痛み。

 吉田障子は悲鳴を上げた。彼は闇を見ていた。永遠に続く闇に向かって障子は腕を伸ばした。誰かの声は聞こえる。誰かの熱は感じる。だが、何も見えない。何の光も感じない。ただただ鋭い痛みだけが本来ならば世界と自分を繋ぐ筈の瞳を焼き続けた。

 目が見えない。その事実に気が付いた障子は絶叫した。そして、彼は助けを求めて暴れ始めた。



「痛いっ! ああああ! 痛いよぉ!」

「宮田さん!」

 宮田風花の絶叫に足を止めた新九郎は三階へと続く階段の前で片膝をついた。手足をバタつかせて暴れ始めた風花が床に落ちそうになると、慌てて風花を下ろした新九郎はその体を強く抱き締める。隣で片膝をつく田中太郎の鋭い視線。意識のない松本一郎を両脇で抱えた小田信長と八田弘は不安げに目を見合わせる。

 バリン、と突然八田弘の真後ろの窓ガラスが粉々に砕け散った。風花の絶叫は止まない。顔を振り上げた田中太郎は口を縦に開いた。

「ふせろっ!」

 バババババッ、と廊下に並ぶ窓ガラスが、まるで外から銃弾を撃ち込まれたかのように内側に破裂していった。鋭い悲鳴をあげた信長と弘は廊下に飛び込むようにして倒れ込んだ。その衝撃で松本一郎が目を覚ます。

「な、何だっ?」

 小刻みに揺れ始めた校舎。鉄骨がへし折れるかのような衝撃音と共に階段の壁に小さな亀裂が走る。それを見た太郎の顔がサッと青ざめた。

「逃げるぞっ!」

 足の痛みに呻きながら立ち上がった太郎が新九郎の腕を掴む。

「田中くん、何が起きてるんだ?」

「学校が崩壊する!」

「何だって!?」

「急げ、新九郎!」

 風花の悲鳴が地面に横たわる小鳥のような弱々しい掠れ声へと変わっていく。彼女の背中に腕を回して抱き上げた新九郎は、廊下で頭を伏せる信長に向かって声を張った。

「のぶくん、立て!」

「はい!」

 新九郎の野太い怒鳴り声に信長は飛び上がった。その隣で蹲っていた八田弘と一郎も慌てて立ち上がる。

「おい、何処に逃げるつもりなんだ! 外には出られないんだぞ!」

 八田弘が怒鳴る。新九郎の肩に腕を回した太郎はあっと口を開いた。

「そうか、しまった。お前らはこの時代の人間なんだ」

「なんだって?」

「お前らは俺たちと一緒には外に出れねぇんだよ。存在が消えちまう。俺たちはお前のいる時代よりも後の時代の人間なんだ」

「何を訳の分からんことを……」

「おい、誰に連れられてここに来た?」

「は?」

「お前をここに連れてきた奴は誰だ!」

「誰も何も、僕たちはいつも通りに登校してきただけだ。気が付いたら誰もいなくなってたんだよ」

「クソッ! 誰か分かんねーのか!」

 壁の亀裂からコンクリートの破片が落ちる。振動する廊下が波打つと、教室の窓が砕け落ち、壁から天井に向かって亀裂が伸びていった。

「なーにのんびりしてんのよ、アンタら」

「部長!」

 廊下の向こうに現れた花子の呆れたような声に、信長と新九郎はほっと安堵の息を吐いた。弾け飛ぶ窓の破片。校舎を轟かせる振動などものともせず、花子はガラスの上を悠然と駆ける。

「さっさと逃げるわよ、新九郎、憂炎、秀吉」

「待ってくれ、部長。コイツらは一緒には逃げらんねーんだ」

 その焦ったような口調に、花子の視線が八田弘に向けられる。

「何でよ?」

「時代が違うから一緒に外に出ると存在が消えちまうんだ」

「はあ? たく、ほんと面倒臭い奴らね」

「な、なんだと」

「ちょっと待て、いったい英子は何処にいるんだ?」

 花子に殴られた顎を摩りながら、一郎はキョロキョロと辺りを見渡した。未だ意識が混濁しているのか目の焦点は定まっていない。浅く息を吐いた花子はやれやれと肩をすくめた。

「あの女ならとっくに始末したわよ」

「あ?」

「アンタも早くあんな女の事なんて忘れなさい」

「何言ってんだ、オメェ!」

「ねぇ、憂炎、一緒に出れないってんなら、理科室に連れてってやればいいじゃないの」

 飛びかかってきた一郎を片手で捻った花子は首を傾げた。

「理科室だって?」

「学校が崩壊すると思ったから、私らは理科室を目指してたんでしょ?」

「そ、そうか!」

 太郎は力強く頷く。

「おい、学校がこうなる前は何処にいた?」

「何処って、天文部の部室だが」

「……天文部?」

 花子は訝しげに目を細めた。足元に落ちてきた石膏の破片に八田弘の肩がビクッと震える。

「そこだ! 天文部は何処にある?」

「ど、何処って、すぐそこだよ」

「いいか、もうすぐここは崩壊する。巻き込まれればお前らは死ぬ。生き残りたきゃ、元いた場所に戻るんだ! その天文部の部室に今すぐ戻れ!」

「い、いや……」

「早く行け!」

 太郎の絶叫と共に波打つ廊下の一部が隆起して破裂した。飛び上がった八田弘は転がるように前傾姿勢になりながら部室に向かって走り出す。弘の走り去る方向に一郎を投げ捨てた花子は、片足で立つ太郎の体をグッと左肩に持ち上げた。

「お、おい!」

「行くわよ、アンタら」

 太郎を担いだ花子が階下に向かって走り出すと、新九郎と信長も慌てて階段を飛び降りた。崩壊していく校舎。崩れ落ちたコンクリートの破片に階段が白く染まっている。

 三階は夜の中にあった。突然訪れた暗闇を意に介さない超研部員たち。下の階から響いてくる「おーい、おーい」という微かな声に導かれるようにして、彼らは二段飛ばしに階段を駆け降りていった。

「ああっ!」

 新九郎の絶叫が辺りに響き渡る。刹那の速度で振り返った花子は、亀裂の入った階段でバランスを崩した新九郎の姿を見た。彼の太い腕に抱かれるようにして意識のない宮田風花が力なく目を瞑っている。そんな彼らの頭上に崩れた天井の一部が降りかかろうとしている。

 花子は咄嗟に体を反転させた。同時に、何処からか現れた白い布が新九郎と風花の体に巻き付いた。そうして今まさに階段を落ちようとしていた二人の体が凄まじい力で踊り場まで引き戻されると、左腕に青黒い血管を浮かばせた花子は怒鳴り声を上げた。

「秀吉! 憂炎を任せたわよ!」

 花子は階段を飛び上がった。踊り場に着地すると、白い布の端に左手を伸ばす。それを力付くで自分の腕に巻き付けた彼女は新九郎の尻を蹴った。

「行きなさい」

「部長!」

「早く」

「は、はい!」

 新九郎は風花を抱き抱えたまま二階へと駆け降りていった。太郎と信長もまた、布を掴んで顎をしゃくる花子に向かって敬礼のポーズをとると、一階を目指して走り出す。

 四人が下に降りるのを見届けた花子は、左腕に絡まった布を見上げた。薄汚れた白い布だ。色の薄れた赤い糸が幾重にも縫われている。

 小さな足音が花子の耳に届く。三階を見上げた花子の瞳に小さな影が映る。ヒタ、ヒタ、と湿ったような足音だ。黒い女生徒は唇のみを大きく横に広げ、不気味に微笑んでいた。

「はん」

 キリキリと白い布が捻れていく。左肩に走った激痛に花子は浅く息を吐いた。

 黒い女生徒の足がゆっくりと階段を踏み締めていく。短い髪。黒い頰。

 山本千代子は口を横に開いたまま、花子に向かってそっと黒い眼を細めた。


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