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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第一章

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逃げ惑う意思


「な、なんだ……?」

 うっすらと目を開けた田中太郎は激しく上下する視界に呻いた。自分を背負う誰かの広い肩。夕暮れの影。太ももに走る痛み。

「し、新九郎か……?」

「田中くん! ああ良かった、目覚めたんだね」

「あ、ああ……」

 まだ薄ぼんやりとした思考。太ももの鈍い痛みが気に障った太郎は右手を下ろした。

「ぐあっ!」

 太ももに刺さったままの鉛筆に触れた太郎は、下半身から脳天を貫くような激痛に身を捩った。背中で暴れ出した男と共にバランスを崩した新九郎が倒れる。廊下を転がった太郎は、激痛により定まらない思考の中で焦ったように鉛筆を引き抜いた。荒い呼吸が夕刻の廊下を震わせる。

「大丈夫ですか!?」

 気を失った松本一郎の左肩を支えていた小田信長が声を上げた。一郎の右肩に腕を回していた八田弘は不安げに後ろを振り返る。

「な、なぁ、早く行こう」

 生徒会室の破壊された扉は曲がり角の向こうである。見えなくなった惨状。だが、女の叫び声は止まらない。

 両目が潰れた宮田風花を肩に抱いていた睦月花子は、浅い呼吸を繰り返したままに立ち止まった。額に浮かんだ汗が頬を伝って落ちる。自分の体力が限界に近いことを花子は悟っていた。だが、そんな気配はおくびにも出さないようにと、唇を横に広げたままに首を傾げて見せる。

「アンタ……誰だっけ?」

「三年の八田弘だと言った筈だ。君こそ……いや、そんな事はどうだっていい、早く逃げよう」

「八田弘ね、アンタ、何をそんなに焦ってんのよ?」

「焦ってるだって? き、君こそ、そんなに傷だらけで、何をそんなに落ち着いているんだ?」

 引き千切ったシャツの袖を太郎の太ももに縛り付けた新九郎は、赤く染まっていく白い布を見て心配そうに口を結んだ。新九郎の肩を借りてゆっくりと片膝を立てた太郎は何事も無いかのように微笑んで見せる。ほっと安堵の息を吐いた信長の背後。紅い陽に染まった廊下の突き当たりに首の折れ曲がった女の顔がスッと現れた。

「うわっ! き、来たぞ!」

 背後を流し見ていた矢田弘は、肩に支えた一郎を引き摺るようにして足を前に踏み出した。一郎の左肩を支えていた信長の体がつんのめる。ふぅと深く息を吐いた花子はギロリと目を細めると矢田弘の前に立ちはだかった。

「アンタねぇ、あの女の事はどうでもいいわけ?」

「はぁ? あの女とは英子さんのことか?」

「名前なんて知らないっつの。今、アンタの後ろにいる女の話よ」

 ゾッと頬を青ざめさせた矢田弘はチラリと後ろに視線を送る。首の折れた女の血に塗れた口元。鈴木英子のペタペタという足音がすぐ側まで迫っていた。

 絶叫。一郎の体を放り捨てた矢田弘は駆け出した。悲鳴を上げた信長は廊下に蹲る。肩を支えられた太郎が空いた手で木剣を構えると、新九郎は亀のように体を丸める超研の新入部員に腕を伸ばした。

「八田弘ぃ」

 宮田風花の体を廊下に落とした花子の左手が矢田弘の制服の襟を捉えた。「離せ!」と絶叫する丸メガネの男。その体を引き寄せた花子は、迫り来る鈴木英子と向かい合わせるようにして、八田弘を赤い廊下に立たせた。

「八田弘ぃ」

「うわっ、うわあああああっ」

「アンタねぇ、仲間に対して、ちょっと冷た過ぎんじゃないの?」

 八田弘の眼前に迫る首の折れた女の瞳。英子が腕を伸ばすよりも先に、矢田弘の背後から伸ばされた花子の前突き蹴りが英子の腹部を強打した。後ろに吹っ飛ぶ女。八田弘の絶叫が赤く染まった壁を木霊する。

「は、つ、冷たい? 冷たいだって? 暴力を振るう君にそんな事を言う資格は無い!」

「そうよ、だからアンタの友達もブチギレてたじゃないの。あ、もしかして、あの女とアンタの友達って付き合ってたの? ははん、なるほどね、ハブられてたアンタはあの女を恨んでたってわけだ」

「なっ……ち、違う! 馬鹿なことを言うな!」

「じゃあ、なーんでアンタはそんなに冷たいのよ。そういう性格なの?」

「冷たいんじゃない! こ、怖いんだよ!」

「怖い?」

「怖いんだよ、あ、あの女が……英子さんの事が! あの女は何処か狂っているんだ! だから僕は昔から英子さんの事が怖かったんだ!」

「……はん」

 ふっと息を吐いた花子は唇を震わせる矢田弘を後ろに放り投げた。新九郎と太郎に視線を送った花子は「先に行きな」と顎をしゃくる。頷いた新九郎は、左肩で太郎を支えたまま右肩に宮田風花を抱き抱えると、矢田弘と信長に向かって意識の無い一郎を運ぶように指示した。

 浮かび上がるようにして立ち上がる首の折れた女。英子は「王子ぃ」と声を絞り出す。コキコキと首の骨を鳴らした花子は、真横の教室の出入り口に手を伸ばすと、引き剥がした扉を英子に向かって振り下ろした。



 三原麗奈の体を包み込む黒い腕。千代子は飛び掛かってきた親友の頭を優しく撫でた。

「──」

 千代子に声は無かった。声帯が焼かれてしまっているからだ。それでも、麗奈の頭の中に千代子の優しげな声が伝わった。

「……そんな、無理だよ」

 怒りの感情は風に吹かれた線香の煙のように霧散して消える。黒い腕に抱かれた麗奈は、夢見心地に親友の言葉を聞いた。

「──」

「……私が? でも、私、ヘタクソだし」

「──」

「ええ、そうかな? ふふ、じゃあなっちゃんがお姫様だね」

「──」

「うん、えへへ」

「──」

 麗奈の声だけが暗い廊下を静かに流れる。乱れた麗奈の茶髪を千代子は愛おしそうに撫でた。黒い皮膚。柔らかな頬。懐かしい表情。

 捻られた自分の両腕に吊られたまま、だらりと頭を落としていた姫宮玲華の意識が徐々に戻ってくる。目線を上げた玲華は抱き合う二人の女生徒を力無く見つめた。遠くに響く足音。暗闇の中を走る男の影が近づく。

 カチリという音と共に懐中電灯のライトが抱き合う女生徒たちを照らした。暗闇の中で突然現れた光に黒い女生徒は目を覆う。ドンッと黒い女生徒を突き飛ばした徳山吾郎は立ち上がろうとする千代子に向かって消火器の白い粉末を噴射した。巻き上がる白い炎。玲華の体が廊下に崩れ落ちる。

 消化器を投げ捨てた吾郎は、呆然とした表情の麗奈と、目を開けたまま廊下に横たわる玲華の体を両腕に抱き締めると、暗い廊下に力強く足を踏み出した。ズルズルと引き摺られていく二人の女生徒。吾郎は懸命に前に進んだ。

「……行って」

「な、何か言ったか?」

「……二人で、逃げて」

 か細い声。無視して前に進んだ吾郎は暗い階段を見上げた。

 上がれるだろうか……。

 階段前で立ち止まった吾郎の体にドッと疲労感が襲い掛かる。深く深呼吸をした吾郎は痺れた両腕に二人の女生徒を抱え直すと、一段目に足を伸ばした。だが、体が進まない。後ろに倒れそうになった吾郎は二階に上がるのを諦めると、またズルズルと女生徒たちを引き摺りながら暗い廊下を歩き出した。

 全身に掛かる重み。疲労に震え始めた手足。職員室のプレートを目にした吾郎はその中に倒れ込むと、玲華と麗奈の体を引き摺り入れてから扉の鍵を閉めた。職員室の壁に寄りかかった吾郎は荒い呼吸を繰り返す。仰向けに横たわる玲華が暗闇の中で視線だけを動かすと、吾郎はふっと息を漏らした。

「傷害罪で逮捕だな、僕は」

「……大丈夫だよ」

「ふっふ、そうか。……君は、大丈夫ではなさそうだね」

「……大丈夫だよ」

「無理をするな。その腕はもう……」

「……大丈夫だよ」

 玲華の瞳は焦点が定まっていない。吾郎は職員室から外へと繋がる扉に視線を送った。

「……出よう。これ以上は待ってられん」

「……うん」

「よし、麗奈さん、逃げるぞ」

 立ち上がった吾郎は横たわる麗奈の肩を揺すった。だが、麗奈は返事をしない。いつの間にか、麗奈はまた気を失っていた。首だけを横に向けた玲華は唇を噛むと、意識のない麗奈の体を抱き上げようとする吾郎に向かって声を絞り出した。

「だめ」

「……は?」

「その子と外に出てはだめ」

「何故だ? 先ほどまでは逃げろと言ってたじゃないか?」

「事情が変わったの。こうなる事も想定しておけばよかった」

「また君は訳の分からん事を!」

「その子、もう、王子じゃない……」

 ドンッと壁を殴るような鈍い音が静寂を突き破る。慌てて身を屈めた吾郎は、恐る恐る職員室の扉の窓を見上げた。






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