亡霊の正体
「……意味が分かんないよ」
三原麗奈は疲れたように頭を振った。撫で付けられていた髪は乱れ、所々が持ち上がっている。
「だから、王子は書記さんとここで隠れててねって話だよ」
姫宮玲華の唇が妖しく光る。暗い空き教室は先程までの喧騒が嘘のように静かだった。乱雑な机が妙に寒々しい。生徒会書記の徳山吾郎は歯軋りを抑えようと深く息を吐いた。
「僕にも意味が分からない。いや、この現状が既に理解の範疇を超えてしまっているわけだが、それでも意味が分からない。何故、君は、いや我々はここに残っているんだ? 花子クン達と行動を共にした方が良かっただろうに。その、なんだ、君が言うには、皆が同じ場所に集まった状態でなければここからは出られないのだろう? バラバラになった意味が分からない。君は説明が不足し過ぎている」
「副会長さんの迷い込んだ時代が悪いんだよ。今の王子とアレが鉢合わせると面倒なことになっちゃうかもしれないんだ」
「……君に説明を求めた僕が馬鹿だった。まぁいいさ、もう何でもいい、とにかく僕は早くここから出たいんだ」
「だからさ、書記さんは王子とここに隠れてててよ。万が一の場合は王子と二人で逃げてね。二人で外に出るの、分かった?」
「二人でだって? いや、そもそも何から逃げろというんだ」
「私から」
「君から?」
「そう、私から」
玲華は何処か寂しそうに目を細める。暗闇に光る赤い唇。吾郎はイライラと腰に手を当てた。
「何故、君から逃げねばならないんだね」
「私が君たちを殺そうとするから」
「なら殺そうとしないでくれたまえ。まったくアホらしい、僕も暇じゃないんだよ。ほら、麗奈さん立てるかい? 取り敢えず、花子クン達と合流しよう」
「えっ……と」
麗奈は小さな口を窄める。どうしたら良いのか分からなかった彼女は、吾郎と玲華の顔を交互に見つめた。
僕の夢なのに……。
自分の名前と体への違和感は消えない。だが、それよりも自分の夢に出てきた玲華の現実と変わらない意味不明な言動に対して、麗奈は困惑すると共に激しい苛立ちを感じていた。
「合流は駄目だよ。あっちにも私がいるから」
「いい加減にしたまえ! 君が二人いるとでも言うのか!」
「三人だよ。四人目が出てこないとも限らないけど」
「……さぁ、麗奈さん、行こうか」
怒りを通り越して呆れてしまった吾郎は、椅子に座り込んだまま口を紡ぐ麗奈の細い腕を掴んだ。困惑した表情の麗奈はされるがままに立ち上がる。すると、麗奈の空いた方の腕を玲華が掴んだ。
「ねぇ書記さん、まだ状況を理解してないの?」
「……この状況を理解出来る人がいるとは思えんが」
「四階には四階で別のというか、過去の私と王子がいるの。正確に言うと業の導き手である王子は一人しかいないのだけれど、もう、過去の器とは鉢合わせたくないの」
「悪い事は言わん、ここを出たら病院に行きたまえ」
「はぁ、あの子たち大丈夫かしら。まぁ、あの子がいるから大丈夫だとは思うのだけれど……」
「痛い、痛いって!」
綱引きの紐のように腕を引っ張られていた麗奈が悲鳴をあげると、吾郎は慌てて手を離した。自由になった麗奈の体を玲華はギュッと抱き締る。目を見開いた麗奈の顔が真っ赤に染まった。
「うわっ! 何してんだよ!」
「王子、ごめんね。もうすぐ私がここに来るから、書記さんと隠れててね」
「分かったよ! 分かったから離れてってば!」
「ちょっと待て、何が来るって?」
吾郎は恐々と廊下に視線を送った。ドアの向こうは底の見えない暗闇にあった。
「私だよ、私が来るの、ヤナギの幽霊である私が」
睦月花子の左腕に血管が浮かび上がる。
「やってくれんじゃないの……」
両目の潰れた女。宮田風花の血塗れの首に掴んだ花子は、その細い骨がへし折れるギリギリまで締め上げた。すると、風花の口が開く。喉の奥の闇。血に染まった歯が赤黒い。
パチリと照明に明かりが灯る。花子の側に駆け寄った田中太郎は天井を見上げた。夕刻の生徒会室で点滅を繰り返す照明。何だ、と口を開きかけた太郎の肩に衝撃が走る。うっと体を捻った太郎は床に落ちる文鎮を見た。文鎮は照明の点滅に合わせるかのように絨毯の上を這っては止まった。
「ぐっ」
花子は息を呑んだ。脇腹に刺さっていたカッターナイフが横に動いたのだ。握り潰さぬよう加減していた手の力が痛みで弱まっていく。ズズッと腹から抜け落ちる刃。何かに引っ張られるようにして宙を舞ったカッターナイフが風花の制服にピタリと張り付く。同時に、壁際のロッカーが倒れた。絨毯に蹲っていた小田信長が悲鳴をあげると、両袖デスクの上のブックエンドが花子の後頭部にぶつかる。
「何なのよ、いったい!」
風花の体を生徒会室の外に投げ捨てた花子は、右腕が無いもどかしさに苛立ちながら怒鳴り声を上げた。我に返って視線を上げた太郎の額がサッと青ざめる。花子の右の脇腹周辺が真っ赤に染まっていたのだ。
「おい! 大丈夫か!」
「大丈夫よ」
花子は左手で脇腹を押さえた。呼吸が浅い。
「いや、大丈夫じゃねーって! ヤベェぞ、早く、早く……。クソッ、おい、新九郎、出て来い!」
太郎の叫び声を聞いた新九郎が簡素な扉の中から顔を出した。点滅を繰り返す照明の下で顔を歪める背の高い男。その隣で浅い呼吸を繰り返す花子の制服に染み渡った赤い血に飛び上がった新九郎は、転がるようにして二人の元に駆け寄った。
「何があったんですか!?」
「刺されたんだよ! 早く止血しねぇと、死んじまうぞ」
「大袈裟ね、死にゃしないわよ、私が、このくらいで」
脇腹から手を離した花子は絨毯の端に手を伸ばした。左足で押さえた絨毯を引き千切っていった花子はそれを新九郎に手渡す。
「これで脇腹を縛りなさい、早く」
花子の額には玉のような汗が浮かんでいた。クッと奥歯を噛んだ新九郎は絨毯の切れ端を受け取る。
「痛いかもしれないですけど、我慢してくださいね」
「……はん」
制服の上から絨毯の切れ端を巻き付けた新九郎は力一杯それを縛り付けた。花子の表情は変わらない。ただ、浅い呼吸が一瞬止まった。
点滅を繰り返していた照明が消える。竹定規の木剣を廊下に向けた太郎は、花子たちを守るように長い腕を広げた。廊下から此方を見つめる両目の潰れた女。風花の右手には血に濡れたカッターナイフが握られている。
「下がってろ」
太郎の低い声に花子の肩を掴んだ新九郎が頷いた。花子の額に光る汗。恐怖に震えていた信長の心に小さな火が灯る。いつも助けられてばかりだった自分。今こそ僕が部長を救わねば、と信長は足を震わせながら立ち上がった。
「ああ、王子……」
声がした。金色のトロフィーの並ぶ棚。
簡素な扉から短い髪の女生徒が顔を出した。扉の中から「英子、待て!」という叫び声が響いてくる。
カッターナイフを持つ女と向かい合っていた超研部員たちの動きが止まる。フラフラと足を前に出す女生徒。鈴木英子は涙を流していた。
「王子……」
太郎の隣に並び立つ女生徒。はっと目を見開いた太郎は木剣を振り上げる。だが、英子の方が速かった。尖った鉛筆を太郎の太ももに刺した英子は腕を横に振る。弾かれたように吹っ飛んだ太郎の体が生徒会室の壁にぶつかった。訪れる静寂。気を失った太郎が絨毯の上に倒れると、新九郎と信長は口を開いたまま呼吸を止めた。
「ああ、王子……」
ヒタ、ヒタと英子は廊下に向かって足を踏み出す。風花はカッターナイフを持ったまま首を傾げた。
コキリと骨の鳴る音が静寂を走る。ダンッと絨毯を踏み鳴らす女。鋭い悲鳴を上げた新九郎は慌てて信長の背中に覆い被さった。
花子の額に浮かぶ血管。放り投げられた両袖デスクが弧を描いて天井の照明を破壊すると、廊下で見つめ合う二人の女に向かって宙を走った。




