暗い教室での再会
血に溢れた二階の廊下はまるで溝川のようだった。止まることのない赤い水が夜の校舎の奥へと流れていく。
生暖かい液体に足が取られる。何とか階段を這い上がった睦月花子は、血の海に溺れ掛けている田中太郎と他二人を引っ張り上げると、赤い血に目を凝らした。血の雫がまるで小さな生き物のように四人の体から溢れ落ちる。意識を失ったままの鴨川新九郎を肩に担ぎ上げた花子は、血のシミ一つ残っていない白い制服に首を傾げると、浅い血の川を踏み締めた。
「で、どうすんのよ憂炎、三階まで上がっとく?」
一階は既に血の海の底である。赤く渦巻く階下を覗いた李憂炎こと田中太郎は背中の毛を逆立てた。その腕に抱かれるようにして血の川に立った三原麗奈は、目覚めたばかりでまだ状況が掴めていないのか、キョロキョロと辺りを見渡したり、視線を下げて身に付けている白い衣装をぼーっと眺めたり、と落ち着きがない。
「そ、そうだな、三階まで上がっておこう」
花子を見返した太郎は頷いた。不安げな表情に変わった麗奈に微笑んだ太郎は、腰を落として麗奈の膝裏に腕を回すと、お姫様抱っこの形で麗奈を持ち上げる。
「わっ」
「麗奈ちゃん、大丈夫だから落ち着いてね?」
「レ、レナって? あ、あの僕、じ、自分で歩けます」
「僕? 麗奈ちゃん、どうしたの?」
「あの、その、こ、これって夢ですよね? って何言ってんだ、僕」
「麗奈ちゃん?」
太郎の腕の中で麗奈は何処か恥ずかしそうに手足を動かした。不審そうに眉を顰めた太郎は、麗奈の栗色の瞳を覗き込もうと目を細める。そんな太郎の頭に花子はチョップを食らわせた。
「なーにをイチャついてんのよ、アンタら。とっとと三階に行くわよ」
ドンッという爆発音が夜の校舎に響き渡った。血の流れが徐々に速くなっていく。マグマのように吹き上がる泡。渦巻く赤い液体。踊り場から血の海を見下ろした太郎はゴクリと唾を飲み込むと、麗奈を抱いたまま花子の後に続いて三階に上がった。
三階の校舎は乾いていた。
微かに埃くさい廊下。延々と続く暗闇。爆発音も血の轟音も、一切の喧騒が消えた無音の世界である。
「相変わらず、おかしな所ね」
見覚えのある廊下の壁をまじまじと見つめた花子は腕を組んだ。麗奈を抱く太郎は廊下に並ぶ白い教室プレートを見上げてあっと声を上げる。
「じ、時代が近いんだ……。そうか、そうだよ、ここからなら戻れるかもしれない!」
「はぁ?」
花子は怪訝そうに眉を捻ると、何やら騒がしくなった太郎を振り返った。
「一階は昔の校舎だったんだ。だからそもそも理科室なんて無かった」
「何を訳わかんない事言ってんのよ、アンタ」
「ここからなら理科室に戻れるんすよ、部長! 早く行きましょう!」
「行くったってアンタ、下は血の海じゃないの」
「いや、別の階段から下りれば大丈夫かもしれない。あの血が何だったのかはよく分かんないけど、沈んだのは戦前の校舎だったんで」
「何よそれ、戦前の校舎って津波にでもあったの?」
「いや、知らないっすけど……」
「まぁ、いいわ。早く戻って調べたい事もあるし、秀吉の身も心配だし、とっとと理科室に向かうとしましょーか」
新九郎を担ぎ直した花子が歩き始める。麗奈を廊下に下ろした太郎は、怯えたように体を震わす彼女の髪を撫でると、手を繋いで花子の後に続いた。
「ねぇ、麗奈ちゃん」
「……あ、あの」
「自分の名前、分かる?」
「えっと……その、僕」
「麗奈ちゃん、ちょっと俺の目を見てくれないか?」
暗い廊下に立ち止まる二人。万が一に備えて右手に竹定規の木剣を握った彼は、不安げに肩を丸める麗奈に顔を近づけると、その栗色の瞳をじっと覗き込んだ。
「なんだ、これは……?」
椅子が倒れるような音が廊下を走ると、太郎はビクリと体を強張らせた。ドアを叩き破った花子が教室に飛び込む。慌てて麗奈の手を引いた太郎は、花子の後を追って教室に足を踏み入れた。
「なんだ、徳山吾郎じゃないの」
「む、睦月くんか?」
暗い教室の隅で人影が動く。星の少ない窓からの向こうから、うっすらとした月の白光が教室の机を照らしている。
窓辺に蹲っていた生徒会書記の徳山吾郎は、ドアを突き破って教室に入り込んできた相手が花子だと分かると、ほっと息を吐いて立ち上がった。ズレたメガネの位置が彼の焦りを窺わせている。
「徳山吾郎、アンタ、今まで何やってたのよ?」
「それはこちらのセリフだと言いたいが、まぁいい。それより、他の人たちは一緒なのか?」
花子の肩に担がれた新九郎の後ろに吾郎は視線を送る。扉から顔を出した太郎と麗奈に、吾郎は安堵の表情を浮かべた。
「麗奈さん……。良かった、生きていたのか」
「たく、やっぱりアンタら付き合ってんでしょ?」
「つ、付き合うなどと、そんな事があるわけ無いだろうっ。いい加減にしたまえっ、睦月くん」
「どーでもいいのよ、んなことは。それより、秀吉は何処よ?」
「秀吉? 小田くんの事か……君たち、一緒では無いのか?」
花子はチッと舌打ちをした。
「不味いわね、もしかしてあの子、まだ一階にいるんじゃ……」
「一階? いや、小田くんは二階にいると思うが」
「何でアンタにそんなことが分かんのよ?」
「先ほどまで一緒に行動していたからだ。不運にもバラけてしまったが、彼は、宮田さんと姫宮という一年生の女と行動を共にしているはずだよ」
メガネの黒い縁に指を当てる吾郎。花子はポカンと口を開ける。
「姫宮って、あの姫宮? 吉田何某の恋人で、私たちを隠れ蓑にしたあの不届き者の?」
「そこまでは知らんよ。まぁ、美人な一年生だったがね。いや、確かに不届き者ではあったかも知れんが……」
そう言った吾郎はふうっと息を吐いた。何かを考え込むように目を細めた花子は腰に手を当てる。
なんであの姫宮がここにいるのかは知らないけど、吉田何某の恋人って事は、何か知ってそうね。面白そうじゃないのよ。
暗がりに不敵な笑みを浮かべる女。その顔を見た吾郎はゾッとして後ずさった。
「徳山吾郎」
「な、何かね? ぼ、暴力はいけないよ?」
「暴力ですって? はん、そんな稚拙な行動を私が取るとでも思ってんの、アンタは?」
「いや、よく取っていると思うが……」
「とにかく、秀吉の行方を探すとするわよ。そこに姫宮とやらが居るってんなら、上等じゃないの!」
「おい! 早くしろ!」
教室を覗いていた太郎は、花子と五郎に怒鳴り声を上げた。
ああっ、という大声が暗闇に木霊する。同時に、パタパタと走る何かの音が太郎の鼓膜を震わせた。
驚いた太郎は、何かを言いたげな麗奈を守るように腕で包むと、教室の中に飛び込んだ。新九郎を床に投げた花子は大きく跳躍すると、ドアをひき剥がして廊下に飛び出た。四角いドアを上に構えた花子が闇の向こうを睨む。近づく足音。小柄な影が薄明かりに姿を表すと、悲鳴のような声を上げて花子に飛び付いた。
「部長っ!」
「なんだ、秀吉じゃないの」
「信長です! えーん、部長ぉ」
花子は片手で秀吉の突進を受け止めた。涙と鼻水で顔を歪めた超研の新入部員。小田信長は大声を上げて泣き始める。
「良かったね、秀吉くん」
ゆっくりと近づく影。泣き喚く信長を扉の無い教室に放り投げた花子は、髪の長い女生徒にニヤリと微笑んだ。
「アンタ、姫宮……。ふ、ふ、ふははっ、此処で会ったが百年目よ! アンタ色々とねぇ、覚悟は出来てるんでしょうねぇ、ええ?」
扉を頭上で振り回して高笑いする花子。ニコリと微笑み返した姫宮玲華は、ペコリと頭を下げると、スタスタと教室の中に入っていった。




