赤い校舎
赤い水が火を呑み込む。赤い光に血が掛かる。
夜の校舎は静かだった。天井から滴り落ちる赤い液体が、暗い廊下を照らす火の仄明かりを消していく。
「まさに、これぞ、夜の学校よね……」
睦月花子は恍惚とした表情で血みどろの校舎を見渡した。花子の右肩に担がれた鴨川新九郎の太い手足に血が降りかかる。
理科室からずっと三原麗奈は気を失ったままだ。麗奈を背中に抱いた田中太郎は、血に濡れた廊下を一歩進む毎に荒い息を吐いた。右腕に握られた竹定規の木剣を落としそうになった太郎は、膝に手をついて立ち止まると花子を振り返る。
「はぁ、はぁ、ぶ、部長……! 余裕あんなら、この子もお願いしますっ……!」
「はあん? あるわけないでしょーが! アンタよりもデカブツ背負ってんのよ、私は!」
新九郎の巨体を右肩でグイッと持ち上げた花子は左手作った握り拳を太郎に向けた。疲れ切った太郎には言い返す気力すらも湧かない。木剣をしっかりと握り直した太郎は、理科室を目指して足を動かした。
爆発音と共に激しい震動が血の表面に波紋を立てる。ガラスの悲鳴。夜の喧騒。
盛る炎の勢いに合わせて滴り落ちる血の量が増えていった。徐々に廊下を流れ始める赤い液体。太郎は血で汚れた職員室の看板を見上げた。すると、突如として燃え上がった看板は焦げて折れ曲り、血の流れる廊下に落ちて炭と化してしまった。
「クソ、マジでヤベェって……」
「相変わらずヤバいばっかね、アンタ」
「そ、それ以外で表現出来ねーんだよ! はぁ、と、とにかく、理科室に、行かねーと……」
「行って、どーすんのよ?」
「もうすぐ、ここは崩壊する。そん時に、初めにいた教室に居れば、元の世界に戻れるはず、なんだ」
正門の扉は木の板に閉ざされていた。螺旋階段の上からは滝のように血が流れ落ちてきており、廊下に溜まった赤い液体が太郎と花子のくるぶしを呑み込んでしまう。
生暖かい血がヌメヌメと重たい。ズルリと足を滑らした太郎は「あっ」と声を上げると、背中の麗奈を守るようにして、血の海に顔面から倒れ込んだ。震える腕を床についた太郎は何とか顔を上げる。既に身体は鉛のようである。
限界だ……。
荒い息を繰り返した太郎は、込み上げてくる吐き気と懸命に戦った。
ふっと、体が軽くなる。驚いた太郎は視線を持ち上げた。そうして、左肩に軽々と麗奈を抱き上げた花子を見上げた太郎は思わず苦笑してしまう。
「あざっす」
繰り返される爆発音に血の水位が増していく。
花子は、肩で息をしながら立ち上がった太郎に細い目を向けた。
「憂炎、アンタってここに来たことあんでしょ?」
「ああ、去年の夏に、一度だけ」
花子の右肩に担がれた新九郎の長い足の先が血に浸かる。
「ふーん、何でよ?」
血の川を再び歩き始める二人。太郎は目元に垂れた血を払うと、長い髪をガシガシと掻き乱した。
「ただの興味本位っすよ。旧校舎の女、ヤナギの霊の存在は入学した頃から知ってたんです。あの女、長くそこに居たせいか、他の有象無象を寄せ付けない縄張りみたいなのを形成してて」
「縄張り?」
「縄張りって言い方が正しいかは分かんないんすけど、ヤバい奴だって事は分かってました。だからなるべく近づかないように気を付けてたんっす。つーか、関わっても金にならなねーしさ。でも部長にボコられて、無理やり変な部活に入れられて……」
「変な部活ですって? アンタが暇そうだったから、素晴らしい活動の一環にわざわざ参加させてやったんじゃないの! 感謝されたとて、文句言われる筋合いなんてないわ。そもそも、私達の研究を邪魔したアンタが悪いんじゃない」
「研究って、アンタら、ただ廃墟を荒らしまわってただけじゃないか。俺はちゃんと仕事としてあそこに出向いてたんだぜ?」
ムッと太郎は唇を結んだ。すると、花子の眉がピクリとした動きをみせる。
「仕事って、まさかアンタ、一丁前に心霊探偵気取りなの? 若造がナマ言ってんじゃないわよ! たく、仕事ってアンタね……。ふーん、そういえばアンタって、道教とかいう寺に通ってたわよね? てことは、何よ、心霊現象の相談事が全国からアンタの寺に集まって来るって事なのかしら? はん、面白そうじゃないの! 今度仕事の依頼が入ったら真っ先に私に相談なさい!」
何を想像したのか、興奮した花子の腕に青い血管が浮かび上がる。腰を締められた新九郎は意識のないまま呻き声をあげた。
「いや、何言ってんだよアンタ……。てか、そんな話今はどうでもいいでしょ。とにかく部長のせいで嫌でもヤナギの霊を観察するハメになって、妙なことに気が付いちまったんすよ」
「何よ、妙な事って?」
「誰も寄せ付けない筈のヤナギの霊に会いに来る奴がいたんです」
「会いに来る?」
「そうっす」
「それって、吉田何某のことかしら?」
「違います、アレが実在する存在だって事は今年の春まで知らなかったんすよ。つーか、知ってたらこんな高校、入学するかっての」
延々と続く赤い校舎。腰に達した血の流れ。見えてこない理科室に、太郎は絶望感に似た心の圧迫を感じ始めた。ちっと舌打ちした花子はギロリと太郎の顔を睨みつける。
「相変わらず要領を得ない奴ね、じゃあ誰が会いに来たってのよ?」
「女です」
「女?」
「長い髪の女でした。顔立ちは幼かったから、同い年か、もしかしたら年下かもしれないかと思ったんすけど、結構好みで……」
「はん、で、興味本位と?」
「そーです」
「ドアホ」
血の海が太郎の腰に到達する。背の低い花子は胸の辺りまで血に沈んでしまっており、気を失ったまま目を瞑る麗奈と新九郎は、流れる血に立たせるように浮かばせて運んでいた。
「ちくしょう、もう二度とここには来たくなかったってのによ……」
「ふん、謎を解くいい機会じゃないの。それで憂炎、前来たときはどうだったのよ?」
「前は、色んな奴らがここを彷徨ってました。外に出れないって、暗い校舎の中で出口を探して……」
「どういうこと? アンタの他にも生きてる人間がここにいたってこと?」
「いや、よく分かんねーけど、アイツらは死にながら生きていたというか……。とにかく、ヤナギの霊のせいでここに迷い込んだ奴らが、大勢いるんすよ」
「へぇ、興味深いわね。アンタはその時どうやってここを出たの?」
「あの時は……」
ドッ、と勢いを増す血の川に太郎はバランスを崩した。胸元まで血に浸かった花子は、浮かばせた麗奈と新九郎を一まとめに左腕で抱くと、右手で廊下の壁を掴む。
遠くに響く爆発音が連続する。小刻みに振動する流れ。血の川を泳ぐように腕をバタつかせた太郎は窓枠を長い指で掴むと、沈みそうになっている新九郎の体をグッと持ち上げた。止まっていた砂時計が動き出したかのように、急激に狭くなっていく空間。天井付近に浮かび上がった花子は血の滴る壁に指を食い込ませると足で窓ガラスを破壊する。だが、水位は下がらない。
「はぁ、はぁ、クソがッ!」
「憂炎、上にいくわよ」
「あ、ああ」
新九郎を支えた太郎は必死に足を動かし続ける。左腕に抱く麗奈を無理やり太郎に手渡した花子は、血の川に沈みそうになって慌てる太郎の胸ぐらを掴んで壁を蹴ると、血の流れに逆らって階段を目指した。素早く前の壁に手を伸ばすと、木に指を食い込ませてグッと体を引く動作を繰り返す女。花子の怪力に引っ張られる三人。
ゴホッ、ゴホッという咳が血の海を振動させる。スッと目を開けた麗奈に、太郎は息を呑んだ。
「れ、麗奈さん、おはよう」
どうか暴れないでくれよ、と太郎は祈るような微笑みをみせる。すると、気が抜けたように太郎を見つめ返した麗奈の口元に何処か曖昧な笑みが浮かび上がった。




