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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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254/255

悪い夢


 いつもと変わりない朝だった。

 戦争末期のどんよりとした曇り空は、それでも切れ間から青い光を覗かせていた。

 もんぺ姿の女生徒たちが徒然と正門を抜ける。そんな彼女たちに向かって教員が竹箒を振る。

 まだ若いシダレヤナギが細い枝を靡かせた。

 草履の足音。荷車の軋む音。

 芋を蒸したような雑炊の匂いがする。正門前を歩く国民服のサラリーマンが顔を上げる。

 皆、何処か不安げだった。でも何処か他人事だった。自分のことで背一杯、しかし周囲の様子が気になる。まだ眠たげな人がいれば、お腹を空かせている人もいる。絶望の淵で俯く人がいれば、広がっていく青空を見上げる人もいる。

 シダレヤナギのすぐ側に丸メガネの男が立っていた。

 国語教諭の三島恒雄である。

 彼は異様に強張った顔をしていた。

 何故、こんな事に──。

 三島恒雄は足を震わせていた。ヤナギの幹で体を支え、今にも気を失いそうな表情で、それでも背筋だけは伸ばし、訪れる生徒の一人一人をジッと睨んでいった。首は一切動かさない。視線のみギョロギョロと忙しない。唇を硬く結び、ゆえに挨拶はなく、時おり白目が出るほど強烈に瞳を右方──校舎の西側に向けて、その際は息が止まったかと心配になるほどに、顔を真っ赤に染め上げていた。

 悪臭が漂ってきた。

 校舎の西側から。

 女生徒たちは恐々と正門を通り過ぎた。異様な雰囲気だった。気味が悪い。だが、戦争の末期である。それほど珍しい光景でもない。駅前では飢えた子供が蠅にたかられていた。市場では目を赤くした大人が大人を殴っていた。高等女学校では教員の一人が朝っぱらから目をギョロつかせている。その程度の事である。あえて取り沙汰にしようとする者は皆無だった。

「三島くん」

 藤野智史教諭が正門前に現れた。三島の異様な雰囲気には気付いていないようだ。藤野は横に広い体で女生徒たちを押し退けながら、「なぁ三島くん」と年上の三島に対してもやたら横柄な態度で、しかし泣き崩れる淑女のような調子で、鼻の頭をグッと大袈裟に押さえていた。

「何だね、何なんだね、朝からこの臭いは。今日ばかりはおかしいぞ。三島くん、君はふざけているのか」

 三島は答えなかった。

 ただ彼はギョロギョロと視線を動かすばかりである。

「おい三島くん!」

 藤野は多少苛立ったように三島の肩を掴んだ。

 すると三島は「チィイイッ」と奇声を上げる。驚いた者があげる高い悲鳴ではない。怒りを必死に抑え込む低い声だった。そのまま藤野の腕を払った三島はヨロめきながら丸メガネを支え、手の甲でヤナギの木を横振りに殴り、イィイィと妙な呼吸を続けながら藤野を睨み上げた。流石に気味の悪さを覚えた藤野は「あ、あれだ。まぁ、何とかしなさい」と何とも歯切れの悪い言葉を残し、職員扉から学校の中へと逃げていった。

「三島先生、あの、血が……」

 女生徒の一人が恐る恐る三島に歩み寄った。三島の手の甲からは血が滲み、それが彼のカーキ色のシャツを黒くしていた。だが、三島は痛みを感じていないようで、近付いてくる女生徒をギョロと睨むと、フラフラとその場を離れた。校舎の中には入らず、千鳥足で講堂の方へと向かっていく。女生徒たちは唖然としてその後ろ姿を見送った。もしや赤紙が届いたのでは──そんな心配を本気でした。三島恒雄という教諭は背の低い、視線はキョロキョロと忙しない、いつもおでこに皺を寄せた、如何にも小心そうな男であった。が、それでも普段から小綺麗で、背中を曲げるようなダラシ無い姿勢は見せたことのない、プライドの高い人だった。

 校舎から講堂に繋がる渡り廊下は薄い屋根があるだけの簡素な造りである。一度講堂の中に入った三島は思い直したように立ち止まると、その場でううっと頭を抱えた。そうして身を翻すと、簀の子を踏み締めるようにして、校舎の中に駆けていった。

 一体、今朝、何をしていた──。

 三島は、慌てて廊下を譲る生徒たちに一瞥もくれることなく、何度も転びそうになりながら、呼び掛けてくる教員たちも無視して、先ほどの講堂とは真逆の、校舎の西側へと向かった。二階建ての学校である。東端の講堂から駆けてみると彼が思うよりずっと長く感じる。校舎の西端の理科室に辿り着く頃にはすでに汗まみれだった。

 三島は息を切らしながら理科室に足を踏み入れた。戦時下の女学校では国防婦人としての教育が主として行なわれる中で、それでもまだ国語や算術などの科目は備えてあった。だが、実験を伴うような化学の授業はとうに廃止されており、理科室はしんみりとして時間が止まっているようだった。

 窓辺に寄った三島はカーテンを乱暴に揺らすと、ガラスを額で押すようにして外を覗いた。しかしそこからではゴミの山や、ましてや防空壕の入り口などは確認できない。三島は窓を開けようと取っ手に手を掛けた。そうしてすぐに腕を下ろしてしまう。閉じられた窓からでも腐臭が漂ってきた。大量のゴミの所在は明らかだった。

 一体、何故──。

 三島はううっと両手で頭を押さえ、理科室の長机に突っ伏した。ホルマリン漬けのカエルが焦げ色の棚に放置されている。視線の低い人体模型が壁際に立ちすくんでいる。

 しばらく項垂れていた三島はハッと顔を上げた。ヨロヨロと焦げ色の棚に向かうと、這いつくばるようにして戸の中を探る。防空壕にゴミが捨てられるようになってから理科室は掃除すらされなくなった。窓から悪臭が入り込んでくるからだ。いいや、そのずっと前から、ソレはそこに放置されたままだった。

 三島は震える手でサイフォンを取り出した。そして埃被ったアルコールランプを手に取る。戦局悪化による断水の影響か、長机の蛇口からはチョロチョロとしか水が出てこない。三島はフラスコに水が溜まるのを辛抱強く待った。隠してあったコーヒー豆などはとっくに酸化していた。だから三島は春先から集めていたタンポポの根を代用とした。マッチは誰かに盗られている。三島は凸レンズを取り出すと、クシャクシャとなった黒画用紙を引っ張り、カーテンを開けた。曇り空の過ぎ去った青空が理科室を照らす──。

 三島はゆっくりとその時を待った。

 アルコールランプに火が灯る。コポコポと水泡が生まれる。真っ白な水がロートに押し上げられる。ゆっくりと真っ黒な粉が混ざり合う──。

「先生?」

 三島は不快げに顔を上げた。彼はまさに彼の隠れた趣味であるコーヒーが出来上がるのを待ち望んでいた。もうこれ以上、誰にも、人生の邪魔をされたくなかった。

「なんだね」

「あの、血、大丈夫ですか」

 それは先ほど三島の手の傷を心配した女生徒だった。絣模様のモンペ姿をした手足の長い少女である。顔立ちは人形のように整っていたが、どうにも影が薄い。

 鈴木夏子はまごまごと理科室に足を踏み入れると、おやっとして、キラキラと光る黒い瞳を上げた。

「なんに……この良い香り」

「君、コーヒーを知らんのかね?」

 三島は驚いたように丸メガネの縁に指を当てた。

「こーひー?」

「おい、その言葉は駄目だ。それは敵性語だぞ。以後気を付けるように」

 夏子は流石にムッとした。だが何も言い返さない。じっとロートで撹拌する黒い粉を眺めている。

「これは和蘭から伝わった文化だ」

 そんな彼女の態度に反省を感じたのか、三島は自分の敵性語には構わず、フンと厳格な調子で背筋を伸ばした。

「だが、紛い物だ」

「偽物なん?」

「本物のコーヒーにはカフェインという覚醒作用がある」

「それは何です?」

「そうだな、説明するのは難しいが、まぁ魔法のようなものだ」

 三島はランプの火を消した。するとロートの撹拌が止まり、澄んだ黒い水がフラスコに落ちる。その様は不可思議で美しい。確かに魔法のようだった。

「ほんと魔法みたい。不思議な香り」

「これさえ味わえたなら、私はそれで十分なんだ」

 三島はビーカーにタンポポのコーヒーを注いだ。さらに夏子の前にもビーカーを用意した。その匂いは何とも形容し難い、彼女にとっては初めての、とても芳醇な香りだった。しかし一度味わった夏子はムッと顔を顰めた。

「苦い」

 三島はさも楽しげにコーヒーを味わった。だが、次第に、また額に玉の汗を浮かべた彼は両手でビーカーを握りしめた。

「ああ、ああ、何故だ……。これは悪い夢だ……。ああ、夢なら早く覚めてくれ……」

「悪い夢も覚めるん?」

「覚めるさ──本物なら。悪い夢はコーヒーを嫌うんだ」

 三島はタンポポの根で淹れたコーヒーを飲み干した。そうして、ううっと頭を抱える。

 そんな彼の背中を撫でながら夏子はそっとコーヒーの匂いを味わった。



「おい、大丈夫かよ」

「……え」

「お前ら、また入れ替わったのか?」

「……え」

 最初はわけが分からず呆然とした。

 それは突然教室が夜に変わったからでも、自分の体が女になったからでも、目の前に友達の早瀬竜司が現れたからでもない。

 今まさに山本千代子という少女と話していて、そうして彼女に大切なことを伝えようとしていて、それを突然邪魔された。なんの前触れもなく、また体を奪われた。

 三原麗奈はしかし既に慣れ親しんだ体には違和感を持たず、無意識に触れた右頬の火傷跡が消えていたことに安堵し、だがすぐに胸の内から燃え広がる真っ赤な感情に喘いだ。

「つまり君は、今は吉田障子くん、という認識で間違いないんだな」

「なぁ吉田くん、どうなんだね。君たちは本当に入れ替わったのか」

 野洲孝之助と徳山吾郎が、呆然と床にへたり込んだ麗奈に問いかける。だが、麗奈は返事はおろか体を動かそうとすらしない。

 入れ替わりにより精神がやられたか。それとも単に状況を理解していないのか。

 いったい魂を入れ替えるという巫女の力にどれほどの代償が伴うのか分からなかった二人は困ったように顔を見合わせ、それでも状況が状況であると、少し乱暴な口調で麗奈に詰め寄った。

「君は吉田くんなのか。それともモチヅキのままなのか。早く答えてくれ」

「なぁ吉田くん、いきなりの事で呆然とするのも分かるが、状況をよく考えて欲しい。我々は本当に危機的な状態にあるんだよ」

「どうして」

 麗奈の瞳は夕陽を浴びた麦畑のような栗色に揺らいでいた。その顔は蒼白しており、桃色の唇をワナワナと震わせている。てっきり恐怖に怯えているのかと勘違いした吾郎は少し表情を和らげると、うほんと一咳、努めて優しげな口調で麗奈に状況を説明しようとした。

「あのだね吉田くん、まぁ言わずとも分かるとは思うが、今現在君の体と麗奈さんの体は入れ替わって……」

「どうして!」

 よく通る声が教室を突き抜ける。夜の校舎を震わせる。そこに込められていたのは恐怖などではない。凄まじい怒りだった。

「どうして勝手にこんな事するの! いつもいつも僕の体なのに! ねぇ早く体返してよ!」

 麗奈は立ち上がると、栗色の瞳に涙を浮かべながら、グッと両手を握った。その勢いに吾郎の方が恐れを成してしまい、黒縁メガネをカクカクと揺らしながら後退した。

「は、はは……ま、まぁまぁまぁ、落ち、落ち着きたまえ」

「早く返して! 僕の体を返して!」

「れ、麗奈さんにも、色々と考えがあってだね……いや、その一割も理解してない無能な僕なわけだが……」

「返せ!」

「なぁ吉田、キレるだけじゃ何も始まんねーって」

 竜司はポンッと麗奈の肩に手を置いた。さらに怒り狂う彼女の頭をガシガシと撫でてやる。

「すぐに探し出すぞ。そんで一発殴ってやれ」

「待て竜司!」

 竜司が麗奈の手を引いて教室を出ようとするので、孝之助は慌てて仁王立ちとなり、二人の前に立ち塞がった。

「お前は作戦を聞いてなかったのか? この学校が再び空襲に燃やされるその時まで、俺たちはここで待機だ」

「馬鹿かよ、そんなの待ってられるか」

「今は未明だ、そして空襲は今日の朝に起こるらしい、ほんの数時間の辛抱だ」

「そもそもあの女は信用ならねぇ、俺たちを殺すつもりだったらどうする」

「確かに麗奈さんは非情だが、意味のないことは決してやらない人だ。それに彼女の肉体はこちらにある。流石に自分を危険に晒すような真似はしないと思うがね」

 吾郎も孝之助の隣に立った。

 竜司はチッと舌打ちすると、彼らを殴ってでも出てやろうと右の拳を固めた。だが、竜司が暴れ出す前に、麗奈の透き通るガラスのような声が夜を切り裂いた。

「いいから退いて!」

「なぁ吉田くん、君が怒る気持ちもよく分かる。だが少しだけいい、俺たちを手伝ってくれないか」

「嫌です。麗奈先輩のことは絶対に許さない」

「彼女に作戦を持ちかけたのは俺だ。怒るなら俺を怒れ」

「違うもん、悪いのは全部絶対あの人だから! だって麗奈先輩はいっつも自分勝手で、皆んなに迷惑かけて、心配かけて、いっつも自分のことしか考えてない! だからもう絶対に許さない!」

 麗奈は孝之助が差し出そうとした手を叩き払う一方で、「おいおい」と驚く竜司の腕を逆に強く引っ張りながら、廊下を駆け出した。

「せっかく千代子ちゃんと話してたのに! 誤解を解こうと思ってたのに!」

「おい待て、竜司!」

「テメェらだけで待ってろ!」

 竜司と麗奈はすぐに夜の闇に消えてしまった。

 訪れた静寂には足音の面影すらない。

 孝之助と吾郎は途方に暮れた。正直のところ彼らは、また強制的に体を入れ替えられてしまった吉田障子に、深く同情していた。彼の怒りはよく分かるし、されど麗奈の作戦も理解できる。ならばこのまま空襲を待ち、そうしてこの学校の唯一の生き残りであるという三島恒雄を二人で捕らえてしまおうかと、取り敢えず席に着いた。ほぼ初対面に近い二人である。中々会話は生まれない。孝之助の方は何やら考え事に忙しそうで、次第に気まずさに耐えれなくなった吾郎は独り言のように不安を口にした。

「本当に僕たち二人で大丈夫なのだろうか」

「大丈夫だろう。俺は体力にも自信がある」

「いえ、そういう事ではなく……麗奈さんが側にいない状態で、果たして僕たちは無事でいられるのだろうか」

「どういう意味だ」

 空が白んでいく。

 空襲の時が迫ってくる。

「その、ほら……五人目のヤナギの霊だったという大野木さんは貴方たちをも凍らそうとしたのでしょう?」

「ああ、確かに俺と竜司は殺されかけた」

「つ、つまり……現在我々は、空襲を抜きにして、非常に危険な状態にあるのでは……」

 ダッと誰かが廊下を駆け抜けた。

 驚いた二人は慌てて廊下に顔を出した。

 誰かの影が東側の校舎に消えていく。

 二人は顔を見合わせると、消えた影を追おうと、廊下に飛び出した。

「そっちじゃない」

 突然、真後ろから男の声がした。随分と気怠げな声色である。振り返った吾郎は、まさにその声を体現するような、腫れぼったい目をした陰気な男を目にする。

「キザキさんじゃないか」

 孝之助の知り合いのようである。そして吾郎も廃工場での出来事は覚えていた。取り敢えずホッとした吾郎は犬のお手のように構えた拳を下ろした。

「いったい何処で何をしてたんです?」

 木崎隆明はポリポリと顎を掻いた。前髪に隠れた目は僅かに上を向いている。

「俺に付いてこい」

「キザキさん!」

 やはり気怠げな調子だった。

 木崎は徐々に明るくなっていく曇り空を見上げながら、校舎の西側に向かって歩き出した。



「ああああああああああああああっ──」

 夜の校舎に絶叫が響き渡る。

 だが、その悲鳴を止められるものはいない。

「美しい」

 ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーはうっとりと赫い唇を丸めると、大野木紗夜の両眼から長い指を引き抜き、そのコバルトブルーの巨大な瞳で、ポッカリと開いた二つの穴を見下ろした。

「貴方と一つになりたい」

「ゴホッ……ロキ……サーヌ……」

 大量の血が月明かりに照らされていた。

 木造の廊下には、その質素な様相に似合わぬ、銀の蔓の絡み合った二つの十字架がかけられていた。

「マ……リア……」

 十字架に吊るされていたのは始まりの魔女である姫宮玲華。そして魔女狩りである園田宗則──イタリア王国時代の名をカリアス・ルーヴァス──。彼は遥か昔、シモンと呼ばれていた。

 玲華の首には銀の蔓が巻き付いていた。あと一息、蔓が引かれれば、そのまま呼吸が止まってしまうだろう。玲華はそれでも魔女の声を伸ばそうと呻いた。

 宗則の状態はさらに悲惨だった。腕ほどの太さの銀の棘がいくつも彼の痩せた体を貫き、致死量を超えた血が足元に広がっている。それでも宗則は意識を失うことなく、赫い唇を携えたロキサーヌと、そして玲華の横顔を交互に見つめた。

 ばんっ──。

 舌足らずな声が響き渡る。今やこの場においてロキサーヌに対抗でき得る存在は、三人目のヤナギの霊である村田みどりと、銀のナイフを構えたサラ・イェンセンだけだった。だが、それも赤子の小指に等しい。ロキサーヌは一瞥すらなく、村田みどりの四肢を切断し、サラ・イェンセンの首を銀の蔓で吊し上げた。

「あらぁ文久さん」

 肉塊となったみどりに代わって彼女の兵隊が近付いてくる。その中でも一際背が高く、肩の広い、傲慢な表情をした男に、ロキサーヌは一礼した。

「ご機嫌麗しゅう」

「文……久……サマ」

 サラは首を吊られながら、必死になって、両目の潰れた主人に声を伸ばした。彼女は小野寺文久の命令で、この夜に迷い込んだ者たちの手助けしつつ、三島恒雄を捕えるよう動いていた。その際に、小野寺文久はもう死んだ者であり、ゆえに彼を決して意識するなという指示も受けていた。だが、実際にもう死んでいるらしい主人を目の前にすると、彼女は動揺を隠せなくなった。

「“逃……ゲ……テ”」

「感動の再会。でも、もういいわ。さようなら」

 ロキサーヌは薄青いドレスの裾を広げた。そうして少し悲しげに微笑むと、スッと右手に横に振り、顔を血まみれにした文久の首を落とした──同時にロキサーヌの豊満な胸から銀の刃が飛び出る。強大な影が太古の魔女の背後に現れる──。

「クック」

 さらに無色透明の液体が彼女の全身を包み込んだ。

 これは水の棺──。

 ロキサーヌは溺れた。

 いいや、純水の檻──。

 太古の魔女は透き通る水の中から背後にいる影を振り返ろうとした。

 だが、もう動くことすらも叶わない。

 彼女の胸を貫いた銀の刃は急速に形を変えた。無数の針となり、蠢く髪のように広がり、肉の内側からロキサーヌの体を完全に拘束した。

「魔女って奴はどいつもこいつも哀れだぜ」

 強大な影が徐々に形となる。

 傲慢な影が夜を揺るがせる。

「テメェも同様だ、なぁロキサーヌ」

 蛇のように抜け目ない。虎のように獰猛。猿のように明敏な王。

 彼は天性にして人の上に立つ資質を備えた男だった。

「この化け物が」

 小野寺文久はそう悪態をつくと、それでも何処か感慨深げに、口元に皺を寄せた。


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