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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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253/255

念の男

 

 ひた、ひた──と女の足音が一つ、一つ──と夜の底に落ちていった。

 白い帽子を被った優雅な女性だった。

 薄青いドレスから透ける肌は星明かりを弾くほど細やかで、うっすらと広がった赫い唇は海の底を溢れるマグマのよう。そのまま一枚の絵になりそうな女のコバルトブルーの瞳のみ異様なほどに大きい。

 ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーはこの永遠の夜を抱くように両腕を広げていた。

 恍惚とした表情で、蒼い瞳を埋めるように瞼を細め、闇の底にぼおっと赫い唇を燈していた。

 そんな果てない時の末──。

 そんな永遠の夜の狭間──。

 最初に時の牢獄を脱したのは荻野新平だった。

「……魔女め」

 新平は自らの意識を飛ばすことで太古の魔女の縛りから脱した。その目と口からドス黒い血が流れ落ちる。軽く右目を閉じた新平は血を拭うこともせず、腰のホルスターから白銀のナイフを抜き去り、右手に構えたスミス&ウェッソンM29のマグナム弾を炸裂させた。

「……んだっつーのよ、たく」

 そこからコンマ数秒の後、睦月花子はピッと鼻から滴り落ちる血を弾いた。青黒い血管を細腕に浮かべた彼女は、白い帽子の魔女を睨みながら、おもむろに右足を踏み出した。

 ドンッ──と夜の校舎が振動する。

 砲弾のような足音である。

 それが二つ重なった。

 園田宗則もまた足を踏み出していた。白い羽織りからひどく痩せた腕を覗かせている。その表情は聖職者らしく優しげである。けれども魔女狩りである彼は、やや彼らしからぬ敵対的な眼差しを、太古の魔女に向けていた。

「……ここで出逢うつもりはなかったのですが」

 新平はさらに二発の銃弾を撃ち放った。

 ダンッと廊下を蹴った花子の拳が振り上げられる。

 宗則は銀の十字架を握ると、太古の魔女に向かって腕を伸ばした。

 彼らから少し遅れて、魔女である姫宮玲華とサラ・イェンセンが雪原に散った鮮血のように赤い唇を開く。

 同時に村田みどりの舌足らずな声が広がる。

 動き出すヤナギの霊の兵隊たち。

 大野木紗夜が白い目を見開くと、極寒の風が吹くと共に、また吹雪が夜を埋め尽くしていった。

 ──が。

「───“動”─────────」

 また、時が動かなくなる。

 ─────────“──”──。

 やはり人の声ではなかった。

 それは慄え──。

 太古の魔女の慄えを聞くと、誰も彼も、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなった。

 皆、等しく、両眼から血を流し、鼻から血を落とした。

 人の脳は彼女の声に耐えられない。

 その慄えが人体に及ぼす影響は計り知れない。

 その恐怖が──。

「美しい」

 ロキサーヌは夜を見渡した。

 薄青いドレスがひらりひらりと静寂を踊った。

 夜の扉をくぐるようにフワリと消え去る。ソロリと姿を現す。白い帽子に触れながら影に沈んだかと思えば、微笑みながら窓辺を歩いている。まるで影のよう──。やがてロキサーヌは大野木紗夜の前で立ち止まった。彼女の両眼から流れ落ちる血をズルリと舐める。彼女の頬にうっとりと十本の指を押し当てる。

「妖め」

 一発の銃弾がロキサーヌの細やかな手を撃ち抜いた。されどロキサーヌは気にしない。紗夜の瞳を欲するように、紗夜の涙袋に親指を押し込み、その中身をジッと覗き込んでいる。

 今度は銃剣がロキサーヌの首を貫いた。さらに腕がロキサーヌの体に回される。それは官帽を被った軍人の腕だった。ロキサーヌはごく小さな声で──“離”──と呟いた。だが、来栖泰造は離れない。瞬時のうちに魔女の声は聞くべきでないと判断し、両耳を潰していた。それでも身体に強い抵抗を感じる。太古の魔女の慄えは素肌からでも人の脳に影響を及ぼした。そんな慄えに抵抗しながら、軍人である泰造は、彼女の胸にピンの抜かれた手榴弾をグッと押し当てた。

 パアッ──と茜色の閃光が広がる。

 一瞬の出来事だった。

 轟音と共に手榴弾が炸裂した。

 その破片が魔女と軍人の肉体をグチャグチャに砕いた。

 さらに周囲にいた者たちの身体も吹き飛ばされる──が、全てなかったことのように時間が戻ってしまう。そんな不可思議な感覚に陥った。一体なぜ──泰造はすぐに冷静になった。砕けたはずの肉体を確認することはせず、ピンの外れた手榴弾を探すこともなく、魔女の首に突き刺さった銃剣を強く横に引いた。

「だりゃあ!」

 花子の鉄拳もまたロキサーヌの頬に到達した。ロキサーヌの肉体がぐにゃりと捻じ曲がる。そんな太古の魔女の額にまた新平が狙いを定め──撃ち放った。

「どうなってる」

 新平は誰よりも早く違和感に気が付いた。

「この魔女め……」

 スミス&ウェッソンM29の銃弾が太古の魔女の肉体を破壊する。

 そう、ロキサーヌの肉体は実際に壊されていた。

 相手の命を奪っているという手応えがあった。

 だが、ロキサーヌは死なない。

 それは小野寺文久と戦闘を繰り広げた際に感じた手応えのなさとは違う、既に亡霊であるヤナギの霊と向かい合った時とも違う、まるで未知の生物と対峙しているような、そんな感覚だった。

「────“静”─────────」

 ───────“───”────。

 また脳が慄わされる。

 つっと黒い血が鼻から滴り落ちる。

 その影響の深さ。一瞬、生と死の区別がつかなくなる。

 それでも新平は極限の集中から限界を超えた速度を見せた。意識を飛ばし、意識を戻し、縛りを解き、銃弾を放った。

 花子も一歩遅れて動き出した。そもそも彼女の超人的な肉体に魔女の声は響かないはずである。にもかかわらずロキサーヌの慄えは彼女の身体を蝕んだ。理由はロキサーヌという存在にあった。が、それは彼女には関係のない話である。花子は変わらず躍動する。まだ若く未熟な花子は、ゆえに新平よりも遅く駆け出し、されど新平よりも速く魔女の肉体に拳を届かせた。

「オラァ!」

 銃剣がゆらりと月明かりに煌めく。

 新平と銃弾と花子の拳──その間を縫うように、戦中の軍人──来栖泰造の剣もまた太古の魔女の首を貫いた。

 そうして──。

「───“飛”────────」

 三人の呼吸が消えた。

 銃弾も拳も銃剣も、等しく、夜の彼方に呑まれてしまった。

 後に残されたのは永遠の静寂。

 二人の魔女と二人の怨霊。

 怨霊の操られる兵隊たち。

 そして白装束の魔女狩り。

「──────“来”─────」

 彼らは一様に異様だった。

 だが、六千年の時を生きる太古の魔女を前にして、生まれたての子羊に等しかった。

「ああ、神よ」

 魔女狩りが動いた。

 白装束を身に纏った宗則もまた花子と同じ超人である。その為、魔女の声による影響はほとんど受けない。それは太古の魔女の慄えに対しても同様で、両眼から溢れる血は止めようがなかったし、縛られようとする肉体に抗えぬ苦痛を覚えたが、それでも彼はひどく重くなった鋼の拳を振り上げるのに一切の躊躇いを見せなかった。

「おお、マリア」

 その時、ゾッ──と廊下が盛り上がった。いいや、鋭く伸び上がった。

 それは一本の棘だった。腕よりも野太い銀の棘。突然、宗則の足元から銀の棘が伸び上がり、ゾッと彼の胸を貫いた。さらに二本、三本、四本──と、宗則の体に無数の穴が空いていった。

「……いやはや」

 今度は銀色の蔓が伸び上がってくる。それらは互いに絡み合い、巻き付き合い、血みどろの宗則の身体に持ち上げ、彼を十字に拘束した。その様は断罪を受ける聖者のようだった。やっと赤い唇を開いた姫宮玲華が魔女の声を響かせようとする。だが、すぐに閉じられてしまう。ロキサーヌは優しく微笑むと、宗則の隣に、彼と同じように、玲華の肉体を十字に縛り上げた。

「あらあら、いつかの時を思い出すわァ」

「ロキサーヌ!」

 サラ・イェンセンは目元の血を拭った。この化け物とでも形容すべき太古の魔女を相手に、いったい彼女は逃げ出すべきか、それとも対峙するべきか、迷ってしまった。敬愛する師である姫宮玲華と共に戦うべきか、それとも敬愛する王である小野寺文久の為に使命を遂行すべきか、サラはオロオロと立ち止まった。

 ちょきん──。

 村田みどりの微かな声が響く。見えない斬撃がロキサーヌの腕を切り裂く。

 ただ、それだけの事である。

 ロキサーヌは振り向きもしない。

 村田みどりの兵隊が再び動き出した。モンペ姿の少女たちである。

 それもまたロキサーヌの視界には入らない。

 ただ、太古の魔女は無数の影の奥に佇む、強大な影の一点を見つめていた。

 その存在のみが、この数百年の近代において、太古から生きるロキサーヌを感動させた、唯一の男であった。

「ひどいわ文久さん」

 傲慢な男の影がゆらりと現れる。

 強欲な王の肩がゆらりと広がる。

 その表情は優艶──。

 傲岸不遜。唯我独尊。不撓不屈。眉目秀麗。精明強幹。

 ただその両眼は踏み付けられた薔薇の花弁のように真っ赤に潰れていた。

「そんな姿を──私に見せ付けるなんて」

 小野寺文久の額の中心には赤黒い銃痕があった。

 さらに両眼を潰された王の顔は血みどろだった。

 されどその口元には不敵な笑みが──文久は堂々たる態度で夜の校舎を闊歩した。

 そんな傲慢の王を前に、太古の魔女は少し落胆したように、フッと目を背けてしまう。

 そうしてロキサーヌはまた微笑むと、この偶然と偶然の狭間を創り上げた女の霊を振り返り、彼女の両眼に親指を当てた。

「美しい」

 大野木紗夜は抵抗した。

 だが、ロキサーヌの指が彼女の瞳を潰し、ズルリと頭蓋骨を擦り、そうして脳に侵食していくのを、止めることは出来なかった。

「貴方の奇跡──終わらせるなんて勿体ない」



「ならば俺たちは戦うのみ!」

 そう勇ましく剣を振り上げたのは、この永遠の夜の果てに立つ男、田中太郎こと李憂炎その人である。

「今すぐそこを退け!」

 太郎は愛用のスクエアメガネがズレるのも構わず、夜に大きく剣──半分に折れた竹──をズバッと振るった。「そうだそうだっ!」とセーラー服姿の水口誠也も彼に加勢する。そんな二人の勇者に、生徒会書記の宮田風花とカボチャの仮面を被った清水狂介は、スッと道を譲ってあげた。太郎と誠也は一瞬、怪訝そうに顔を見合わせる。勇ましい態度はそのままに、彼らは軽く首を倒した。

「どうした、まさか戦いを放棄するというのか?」

「そうだよ、僕たちこのままだと外に逃げちゃうよ?」

「別に構わない」

「どうぞ。お二人だけでお帰りになってください」

 狂介は普段通り淡々としていた。

 やたら丁寧な口調の風花の瞳は凍り付いたように冷たい。

 二人はまた顔を見合わせると、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「ええ? マジで、お前らそれでいいのかよ?」

「僕たち本当に逃げちゃうよ? 本当の本当だよ?」

「どうぞ」

 風花はスッと頭を下げた。

 あまりにも冷たい視線である。

 まさか後ろから刺されるのでは──。

 二人は再度顔を見合わせると、振り上げた拳と剣を下ろしつつ、ここが正念場だと慎重に言葉を紡いだ。

「ガチで、マジでそれでいいんだな……?」

「そうだよ、男に二言はないからね……?」

「はい、お帰りください」

「おいおい、おいおいおい、俺たちマジのマジに逃げちまうぞ……なぁ?」

「僕たちの力は必要ないって、そういう判断でいいってことだよ……ね?」

「どうぞ」

「いやいや……はは、マジで言ってんのか?」

「これは嘘じゃないから、本当の話だか……」

「だからどうぞって言ってんでしょーがッ!」

 とうとう本性を現したようである。

 風花がガアッと怒りを露わにすると、青褪めた太郎と誠也はサッと教室の中に転がり込み、ゴツンと机に頭をぶつけた。

「全く、もう」

 風花はイライラと腰に手を当てた。ほんのりとした月の光が彼女の足元を照らしている。炎も雪もない。夜の校舎は静かである。現状、彼女たちは安全なエリアにいると云えた。それは五人目のヤナギの霊である大野木紗夜の思惑であり、彼女たちがいるそこは昭和初期の、まだ建てられたばかりの女学校であった。

「ちょっと新九郎くんも、いい加減しっかりしてよ!」

 鴨川新九郎は窓辺で太い腕を組みながら俯いていた。その表情は暗い。ただ、自分の足で立っている分、先ほどより幾分かマシにはなっている。それでも真面目だった昔とも、不良となった今とも違う、何処か別人のような雰囲気を醸し出していた。そんな彼の状態が心配だった風花はあえて強い口調で彼を鼓舞した。

「新九郎くんは暴走族の総長なんでしょ! だから、ほら……自分が本当は誰かなんていくら考えても分かんないことだし……てか、花子さんだって小田くんだって私だって君のこと覚えてるし、だからしっかりして! 今は皆んな大変なんだからね!」

 夜の校舎は怖かった。

 風花は元々かなりの怖がりである。

 だが、それでも慣れてくると、今度は元来の心配性の方が彼女の心を急かした。特に吉田障子と、そして大野木紗夜のことが心配で心配で堪らない。それは障子が彼女にとっての大切な後輩であり、そして紗夜とは特に深い接点はなかったが、彼女がかつて冬の川に飛び込んで自殺したという事実を知っていた為、せっかく生き返ることが出来た彼女にはどうしても幸せになって貰いたく、二人をこの夜の校舎に取り残すようなことは絶対に出来ないと風花は焦っていた。それゆえに初対面で暴走族で年上でもある清水狂介と山田春雄に対しても随分と強気な態度である。

「ねぇ君、山田さん、君って新九郎くんの友達なんでしょ、男同士の友情とかで新九郎くんを元気付けてよ」

「いや、別に友達ってわけじゃ……」

 春雄は肩をすくめた。長身で威圧的な見た目にも関わらず、どうにも頼りない。

 もうっと風花は憤慨すると、今度はブラック&グレーの髑髏のタトゥーを入れたカボチャ仮面の清水狂介を振り返った。

「君、清水さんだっけ」

「狂介だ」

「吉田障子って男の子のことは知ってるよね」

「ああ」

「一緒に探して欲しいんだけど」

「勿論だ」

 即答である。

 風花はうっと口を紡ぐ。

 どうにもこの奇怪な格好をした、普通であれば一ミリも関わりたくないような男が、この場においては一番頼りになりそうだった。

「その……どうして清水さんはカボチャを被ってるの?」

「念のためだ」

 いったいカボチャの仮面にどんな念が籠っているというのか──。

「お前の分もあるぞ」と、狂介が何処からかカボチャを引っ張り出しが為、苦笑いした風花は慌てて質問をやめた。が、時すでに遅し。ミイラ男の格好をした長谷部幸平が「やれやれうんうん」としたり顔で近付いてくる。ハッとした風花は、彼がまた訳の分からないことを言い始める前に、素早い回し蹴りを側頭部に喰らわせた。さらにダウンした幸平の顔面に「しゃあ!」とパウンドを喰らわせる。

「おい狂介……お前、本当に大丈夫なのか」

 そんな風花に代わって春雄が首を傾げた。

 “苦獰天”の参謀である春雄にとって、元“火龍炎”の清水狂介という男は当然ながら友達などではなかった。むしろライバルであり、それは“火龍炎”の総長である鴨川新九郎にもいえた話で、だからこそ彼らのことを漢としても認めていた。しかし現状その新九郎が鬱状態にあり、さらに同じ“火龍炎”のミイラ男こと長谷部幸平の様子もおかしい。狂介という男は元々掴みどころがなく、変人の曰くもあったが、それでもカボチャの仮面を被り続ける彼の精神状態は推し量れなかった。

 春雄もまた彼らのことが心配だったのである。

「取り敢えずさ、そのカボチャは置いとけよ、それじゃあ前が見えないだろ」

「いいや」

「なぁ狂介、ここは遊び場じゃねぇんだ、俺と新九郎は実際に拳銃で撃たれてる」

「だからこそだ。小野寺文久の行動が気に掛かる」

「小野寺文久だと?」

「生死は不明だ。目的も分からない。だが何か仕掛けてくる可能性がある」

「うーん……で、何でハロウィンの仮装なんだ?」

「お前は何を言っている」

「その仮面の話だよ!」

「これは仮面ではない」

「はあ? ならそのカボチャは一体何だ?」

「見て分かるだろ」

「分かるかァ!」

「これはヘルメットだ」

「へル……」

 春雄はポカンと口をへの字にした。

 カボチャの仮装がヘルメットとはこれ如何に。

 いいや確かに、言われてみれば、ヘルメットとしての機能性が備わって見えなくもない。

「いや……何でヘルメット?」

「顔を守るためだ」

「それは分かるけどさ……」

「それと春雄、時が来たら俺の顔を全力で殴ってくれ」

「何でだよッ!」

「念のためだ」

 狂介は淡々とカボチャを被り直すと「さて」と何か考え事をするように、ゆっくりと夜の校舎に足を踏み出した。

 


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