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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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252/255

春の雪


 凄まじい大炎だった。

 空襲の轟音すらも紅蓮の光に呑まれていった。

 夜の校舎が瞬く間に戦火に沈んでいく。

 されど、そんな炎の中にあっても、空色の瞳を持つ少女の笑みは冷ややかだった。

「私たち、運命共同体だもんね」

 三原麗奈はそう微笑むと、消え入りそうなほどに白い指を、野洲孝之助の固く結ばれた唇に伸ばした。



 広い理科室を区切る長机にはそれぞれビーカーが並べられていた。

 楕円形の流し台がこじんまりと設置され、その下には壺のような水入れが置いてある。壁際には焦げ色の棚が立ち並び、ホルマリン漬けのカエルが寂しげに浮かんでいる。教室の隅に立たされた人体模型の視線は低い。カーテンからの日差しは弱く、全体的に薄暗い教室だった。

 吉田障子は黒板側の壁に身を寄せた。空襲警報はもうない。紅蓮の炎も消えてしまった。木造の校舎はひっそりとして寂しい。

 やっとひと心地ついた彼はホッとして目を瞑った。随分と酷い目にあった。ひどく疲れていた。焦燥感が胸の内をぐるぐると渦巻いた。けれども、何やらいい気分だった。障子はふぅと深く息を吐き出すと、ゆっくりと天井を見上げ、コツンと頭を後ろの壁に押し当てた。

「あの」

「わっ!」

 隣にいた千代子の存在をすっかり忘れていた。障子は飛び上がりながら、窓際の壁に掛かった丸時計を見上げる。また時間が止まったのではないかと焦った。

「あたし」

 時計の針は動いていた。

 障子はホッとして肩の力を抜くも、彼女の手を握り締めたままだった事に気がつき、また慌てる。

「ああっ! ご、ごめんっ!」

「ええと、何が?」

「あっ……と、その……ともかく、ごめんね。あの、千代子ちゃん、大丈夫?」

「うん」

「そっか、良かった」

「うん」

「そっか……」

 千代子は少し首を傾げていた。

 そのまま会話が止まると何やら気まずい思いがしてくる。障子には覚えのない種の緊張だった。

「あー、千代子ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫やけど」

「そっか」

「うん」

「そっか」

「うん」

 こういう時は男から会話をリードすべきでは──。

 障子は焦りに焦った。

 別に千代子のことを異性として意識していたわけではない。ただどうにもこの幼なげな丸顔、キョトンとした彼女の弱々しさ、放っておけば道に迷ってしまいそうな千代子の儚さに障子の方が不安を覚え、自分が導かなければならないという衝動に駆られた。しかしこれまでずっと受動的だった障子には意識してポジティブとなる術は身についていなかった。結果、まごついてしまったわけである。

「あの」

 結局、会話を続けたのは千代子の方だった。

 障子は自分に対して強い失望感を覚えた。

「な、なに?」

「いやなぁ、初めはしょう子ちゃんやと思ったんよ。でも何だかなぁ、どっか、なっちゃんみたいやなって」

「へぇ……?」

「でも何やろ、やっぱ違うなぁって。そんでな、もしかしてなぁって」

 千代子は別段に緊張した様子もない。

 彼女は丸い目を細め、優しげな白い光を放つ障子の瞳を興味深げに見つめていた。

「貴方は、あたし? なんて、やっぱ変な夢やなぁ」

「違う!」

 障子は大きく首を振った。

「僕は君じゃないよ、だって君は──」

「な、なんて?」

「僕は──」

 千代子は肩を丸めた。急に語気を強めた少年に驚いた。しかし肝心の部分が聞き取れず、そこが何だかもどかしく、千代子は恐々と彼に顔を近づけていった。

「捕まえた」

 それは透き通るような女の声だった。

 突然、理科室が騒がしくなる──そして、すぐにまた静かになる。

「ごめんね。邪魔しちゃったかな?」

 今度は目の前の少年の声である。少しだけ雰囲気が違う。千代子は困惑して彼を見上げた。柔らかそうな猫っ毛。大人しげな顔付きは先ほどまでと変わりない。だが、その瞳のみ、冬の夜空のように冷え切ったものへと変わっていた。

「誰や?」

「あた……ああ、俺か。俺は王子様だ」

「王子様?」

「そうさ、君の王子様さ。だから千代子ちゃん、ほら、俺の手を取って」

 障子は、困惑する彼女の声を待つこともなく、千代子を無理やり立ち上がらせた。

「怪我はないな。うん、服も乱れてねぇ。はは、とことん根暗な童貞野郎だぜ」

「あの……?」

「ああ、大丈夫だって。なぁお姫様、初めは痛いけど、まぁこれは夢だからさ」

 障子はそう冷たく笑って、千代子の肩に腕を回し、唐突に彼女の唇に唇を重ねた。

「わっ……」

 千代子は慌てて彼を引き剥がそうとした。

 だが、障子の力は彼女よりも強く、そして巧みで、抵抗する間もなかった。

「場所を移そうぜ」

「へ……?」

「いいとこ知ってんだ、俺」

 もう唇は塞がれていなかった。だが、身体を焦がすような熱に呼吸を奪われてしまう。何より彼には言葉を返す隙がなかった。

「来いよ」

 千代子はされるがままに引っ張られた。相手は異性の、それも出会ったばかりの、奇妙な男である。しかし不思議と恐怖心はなかった。それは彼があまりにも巧みだったから、そして何より現実のこととは思えなかったから。

 やっぱりしょう子ちゃんの夢なんやろか──。

 千代子はドギマギと彼に引かれながら、呑気にそんな事を思いつつ、何か忘れ物でもしたように何度も何度も後ろを振り返った。



 大炎が揺らいだ。紅蓮の光が翳った。

 戦火は何者にも止められない。空襲の轟音は鳴り止まない。

 だが、それでも強大な男の影は消えなかった。傲慢な男の笑みが崩れることはなかった。

「小野寺文久……」

 いいや──。

 荻野新平はすぐに違和感に気付いた。スッと拳銃が構えられる。彼もまた安易ならざる男である。

「お前はとうに死んで──」

 天井が崩れた。

 新平は数歩後退しつつ、それでも小野寺文久に銃口を向け続ける。だが、流れ落ちる火の粉が壁となって狙いが定まらない。さらに風に巻かれた炎が無数の腕のように迫った。新平はチッと舌を打つと、脱ぎ払った上着で炎を防いだ。

「コラァ荻野新平! 一体どうすんのよアンタ!」

 やかましい声を確認した新平は一旦退くことを決意する。流石の新平も空襲の炎はどうしようもない。例えそれがまやかしであろうとも──。

 拳銃を斜めに下ろした新平は上着で炎を払い、火の手の薄い校舎の西側を睨んだ。先ほどまで戦闘を繰り広げていた白装束の優男──園田宗則の姿はすでになかった。それはおそらく彼が迷い込んだ者だからだろう。この時代を生きる宗則からすれば、空襲のこの時はまだ訪れていない未来の世界であり、故について来ることは出来なかった。そう推測した。だからといって消えてしまったわけではない。やがて時間が進むように、空襲となるこの瞬間を外の世界で待ち続け、そうしてフラリとまたここを現れる可能性も十分に想定できる。新平は警戒を怠らなかった。

「退くぞ」

「はあん?」

「確かめたいことがある」

「いや退くっつったってアンタねぇ、その方法が分かんないって話でしょーに」

「俺たちを見つめる目があるはずだ。進んでゆけば自ずとその主の元に辿り着ける」

「目ってそれ、麗奈の青い目のこと?」

「さぁな。青い目の少女か、老婆か、ヤナギの霊の誰かか」

「そういや姫宮玲華のアホもこの校舎を見渡せるとか言ってたわね。てか、変な優男と変な兵隊が消えちゃったんだけど、アイツらまさか炎に呑まれたんじゃ」

「奴らはこの時代の人間だ。だから空襲の起こったこの日まではついて来れなかった」

「ふーん、なんだか面倒臭そうな話ね」

「問題は小野寺文久だが……まぁ、今は考えている暇もない」

 二人は会話を続けながら階段を駆け上がり、すでに炎から最も遠い校舎の西端に辿り着こうとしていた。

「うっわ、何よこれ」

 花子は顔を顰めた。

 腐った卵のような悪臭が漂って来たのだ。

「どう考えても学校の臭いじゃないわ……まさか臭い爆弾? こんの鬼畜米兵め!」

「いや」

 新平は何か考え込むように立ち止まった。悪臭の原因はどうでもいい。ただ、悪臭の結果が気に掛かる。もしや──と新平が校舎を振り返ったその時、大炎の熱風とは違う、暖かな春の風がふわりと二人を包み込んだ。

「部長さん」

 桜が舞った。

 赤い炎が消え、変わりに白い雪が流れた。

 それも桜吹雪に飛ばされていった。

「新平くん」

 花子と新平は確かに校舎の端にまで来ていた。だが、今や春風の吹き抜ける廊下は、さらにずっと先へと続いている。終わりの見えない校舎。空襲による炎は跡形もない。その程度のことで今さら驚きもしなかったが、長い廊下の先から美しい黒髪の魔女が姿を現すと、花子はげんなりとして手を前に振った。

「春はいいけど、アホはお呼びじゃないっての」

 そんな軽口に姫宮玲華は反応を示さない。おや、と花子は腰に手を当てる。いつもと違い何やら神妙な表情である。さらに見覚えのないスーツ姿の金髪の女性が彼女の隣に立っている。

「二人とも私について来てくれ。今すぐ過去を変える。そして校舎と決別する」

「ちょっとアンタ急過ぎない? いや、過去を変えるって話には大賛成なんだけど、もうちょっとほら……なんかこう、色々とあるでしょーに。つーかアンタの隣のアメリカ人は一体誰なのよ?」

「私ハ、サラ。イタリアノ生マレダ。アメリカナド行ッタコトモナイ」

「あら、そう。てかアンタめっちゃ日本語上手いわね」

「ソ、ソウカ?」

「そうよ、凄いじゃない。へー、イタリアかぁ、私も行ってみたいわ」

 花子の顔面には酷い殴打の痕があった。さらに彼女の右脇腹にはドス黒い血がこびり付いていた。だが、それでも彼女は普段通りの様子で、ホッとした玲華の肩の力が抜ける。魔女の記憶を完全に取り戻していた玲華はそれまで以上に花子の力を必要としていた。それは一体いつまで正気を保っていられるか分からなかったからだ。自分がどうしようもなくなった後、代わって花子たちが目的を遂行できるよう、今すぐにでも行動に移りたかった。

「待て」

 だが、安易ならざる男が一人。

 スミス&ウェッソンM29の銃口が向けられると、サラは沈黙して、サファイヤの瞳でジッと新平を睨んだ。

「何ノ真似ダ」

「こっちのセリフだ、お前は小野寺文久の女だろ」

「ワ、私ガ文久様ノ女?」

「魔女どもめ、お前たちは信用ならない」

「信用しろとは言わない。だが、君たちに危害を加える理由など何一つない。その事を冷静に考えた上で、どうか私の願いを聞いてくれ。我々は急がなければならない」

 いつもの無邪気さなどはない、玲華の声は別人のようだった。

「崩壊が進んでいる。それを改竄するような最悪が生まれようとしている。とにかく時間がない」

「失せろ、お前たちの手など必要ない」

「新平くん、頼む。これは吉田真智子にも関わる問題なんだ」

「二度言わすな、殺すぞ」

「文久様ハ死ンダノダ。何ヲソンナニ怯エル必要ガアル」

「黙れ! いい加減にっ……」

「て、まーた冬になっちゃったじゃないのよ!」

 花子は、拳銃のトリガーを引こうとする新平を羽交い締めにしつつ、白い息を吐き出した。極寒の風が再び校舎を白銀に染めてしまった。

「大野木紗夜め、余計な真似を」

 玲華の右手が吹雪に向けられる。その指先から太陽のような光が広がる。すると一瞬、春風が舞い戻る。だが、それも冬の風に呑まれてしまう。ヤナギの霊としては不完全な玲華の力では、大野木紗夜の精神操作を完全に防ぐことは出来なかった。

「ダメだ。奴に直接手を下さねば」

「殴って気絶でもさせんの?」

「始末する」

 玲華は腕を縦に振った。すると吹き荒れる吹雪が左右に割れる。

「“走れ”」

 玲華がそう叫ぶよりも先に新平は駆け出していた。あっと目を丸くした玲華とサラの細い腰がヒョイと持ち上げられる。二人の魔女を抱き上げた花子は「どいつもこいつも物騒ねぇ」とため息をつくと、新平の後を追って廊下を蹴った。



 大野木紗夜は嘆いた。

 彼女は彼女の親友がまた冷たい水の底に語りかける虚構を恨んだ。かつて彼女が育もうとした友情は真っ白な幻想の風に乗った蝶の羽よりも脆く儚いものであった。

 何故。何故。

「麗奈、もうやめて」

 彼女はヤナギの霊だった。

 夜の校舎に囚われた存在だった。

 それも時代が進むほどに業が深く捻れていった。

 ただ紡がれただけの記憶が重くなっていった。

 どれも彼女が望んだものではない。

 だが、逃れることはできない。

 友達など出来ようはずがない。

 彼女はおおよそ七十年前の戦争から生きてきた。

 そういう記憶を持って生まれた。

「あたしは──」

 紗夜の真っ白な瞳が夜を見渡した。その全てを凍り付かせようと両腕を広げた。

 だが、それも叶わない。彼女は空襲を恐れていた──炎の記憶だけはどうしても消せなかった。

 戦後の校舎も悩みの種だった。どうしてか、七十年に渡る記憶の全てが黒い闇に覆われてしまった。もはや覗き込むことすらも出来ない。ただ、それをどうしてやろうとも思わない。

 そして迷い込んだ者たちである。その中にはどうしても幸せになって欲しい者がいて、とても愛おしい者がいて、巻き込まれただけの哀れな者がいて、死んでもかまわない者もいて、殺してしまいたい者もいる。その誰もが記憶を持っていて、中には記憶を操れる者もいて、だから紗夜にはもうどうしようもなかった。

 そう、どうしようもなかった。

 けれども紗夜は許せなかった。

 どうしても許せない者がいた。

 その存在だけは消してしまおうと、紗夜は身体を凍り付かせ、夜の校舎に冷たい雪を降らせた。

「死んでしまえ──」

 その時、風が流れた。

 そうして桜の花びらが舞った。

 紗夜は真っ白に煤けた瞳を廊下の先に向ける。

 複数の人影があった。

 暖かな春風が吹いた。

 こちらに銃口を向ける男と、二人の女を両腕に抱いた女。

 誰かは分からない。だから感情も湧かない。

 ただ春には少し早いだろうと、紗夜は右腕を少し下げ、桜舞う廊下に極寒の風を送った。


 ちょきん──。


 紗夜は視線を下げた。

 それは三人目の彼女による見えない斬撃だった。

 右腕が廊下に落ちると、凍り付いた肉が跳ね上がり、バラバラと砕ける。


 ばん──。


 今度は両眼が弾ける。だが、元々白く煤けていた瞳である。だから別に構わない。

 何事もなかったように凍った右腕を復元し、真っ白な瞳を携えた紗夜は、失敗作である村田みどりの肉体を骨の髄まで凍り付かせた。

「妖め」

 銃声が鳴り響いた。

 軍刀が白銀に煌めいた。

 そして官帽を深く被った男の姿が記憶の端に映った。

 紗夜はそれを凍り付かせようとした。すると急に身体が持ち上がる。凄まじい力である。抗うことなど不可能だと思えるほどに──紗夜の記憶の中に睦月花子という存在が浮かび上がる。ともすれば先ほどの女の影は彼女だったのではあるまいか。恐れを知らない花子もまたヤナギの霊にとっては恐怖の対象だった。僅かに呼吸を乱した紗夜は絶対零度近くまで自身の体を冷却させた。

「いやはや、これはなんとも」

 いいや、睦月花子の声ではない。

 男の声──。

 呆然と記憶を覗いた紗夜の瞳に白装束を纏った優しげな男の姿が映る。

「たく、アンタら、一体どっから現れたのよ」

 どうやら花子本人も登場したようである。銃口を向ける男が荻野新平だということも分かった。さらに二人の魔女──姫宮玲華とサラ・イェンセン、官帽を被った軍人──来栖泰造、白装束の魔女狩り──園田宗則の存在を認識する。

 紗夜はやっと動揺した。

 どうしようもない運命の連鎖を彼女は嘆いた。

「邪魔しないで!」

 雪が舞い散った。

 涙が凍り付いた。

 だが花子を止めることは叶わない。

 紗夜は全力で叫んだ。

 しかし銃声はもう響かない。

 いっそ撃ち殺してと、本気でそう願った。

 そして静寂はもう戻らない。

 それで良かったと、本気でそう思った。

 紗夜は最後の時を感謝した。

「──“止”──」

 否。

 そんな時も、止まってしまう。

 ─── “ま” ───。

 それは人の声ではなかった。

 ────────。

 喧騒が止んだ。

 突然に。

 完全に。

 夜の校舎が再び静寂を取り戻した。

 いいや、永遠の夜が動きを止めた。

 誰も彼も何が起こったのか分からない。

 死んでいるのか生きているのかさえ分からない。

 ただ、暗い。

 夜。

 動かなくなった無限の時の中でその瞳のみを見開き続ける。

 ただ一つ、見知らぬ女が歩いていた。

 薄青いドレス。薄白い帽子。薄細い両腕。恍惚の瞳──。

「美しい」

 夜の校舎を抱くように、そっと指を広げたロキサーヌ・ヴィアゼムスキーは、偶然と偶然の狭間に刻まれた記憶を胸いっぱいに吸い込もうと、赫く煌めく唇を横に広げた。



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