横転する夢
窓の閉じられた暗い体育館で身を寄せ合う生徒たち。昭和十七年の夏。障子は親友である千代子に肩を抱かれて、体育館の片隅で震えていた。
「──」
千代子は白い歯を見せて微笑んだ。唇の震えを止めようと障子は頷き続ける。千代子が人差し指を伸ばすと、障子はゆっくりと顔を上げた。暗い体育館の舞台。春に見たシェイクスピアの戯曲を思い出す二人。
「──」
「う、うん、本当にかっこよかったね」
「──」
「ううん、私、オフィリアはハムレットを本当に愛してたんだと思うの」
「──」
「げ、原文は知らないよ? でも、単に復讐劇なら、王子の衣装は白くしないんじゃない?」
「──」
「え、ええ、私には無理だよ」
「──」
「だって似合わないもの。私は見てるだけで満足だよ」
「──」
「もう、分かったよ。えへへ、じゃあまた三人でね」
「──」
千代子はいつになく真剣な表情を浮かべていた。にっこりとした微笑みを浮かべた障子は暗がりの舞台に目を細める。いつかの舞台の演劇。躍動する夢。白い衣装に身を包む自分を想像する女生徒。
その時、バンッ、という低い衝撃音が薄暗い体育館の空気を震わせた。開け放たれた扉。舞台の埃が風に舞い上がる。突如差し込んできた強い光に驚いた生徒たちは慌てて体を丸めた。
「吉田何某! いるならさっさと出ていらっしゃい!」
忘れていた感覚だった。鼓膜を震わせて脳に突き刺さる音の感覚に障子は甲高い悲鳴を上げる。床に倒れた障子に、千代子は慌てて覆い被さった。
体育館は音のない混乱に包まれた。スクリーン上の風景。ただ流れ続けるだけの映像。その中をズンズンと歩く細目の女と異様に背の高い男が二人
「──」
千代子の細い腕に障子の体が揺すられる。耳を塞いだ障子は再び鋭い悲鳴を上げた。
静寂の空間を逃げ惑う黒いセーラー服の女生徒たち。スクリーンの中の人々。過去と夢の狭間の亡霊。
丸メガネを掛けた教師らしき男が音のない怒鳴り声をあげて花子に飛びかかった。バックステップで距離を取ると共に陸子花子の拳が男の顎を貫く。青ざめる鴨川新九郎。田中太郎は焦ったように体育館の中を見渡した。
床に倒れた男を跨いだ花子は、無音の空間で甲高い悲鳴を上げる誰かの姿をキョロキョロと探した。
「あ、あいつだ!」
太郎は体育館の端で蹲る二人の女生徒を指差した。耳を塞ぐ三つ編みのおさげの女生徒とその子を守るように覆い被さる短い髪の女生徒。慌てて二人に近づいた太郎は、短い髪の女生徒と目が合って立ち竦んだ。左右に撫で分けられた短い黒髪。低い鼻。薄い唇。
ヤ、ヤナギの霊……。
太郎は後ずさった。手足が白く少し幼なげなその女の顔は、太郎が恐れてきた亡霊そのものだった。
「どうしたってのよ?」
太郎の横に立った花子は眉を顰める。
「ヤ、ヤナギの霊っす」
「な、なんですって! どどど、どいつよ!」
「あ、あの女」
太郎の長い指の先。床に蹲って震える二人の女生徒を見つめた花子は落胆したように肩を落とす。
「あの上の女?」
「そ、それです」
「普通じゃないの」
ため息をついた花子はギッと目を細めて睨む女生徒に歩み寄った。震えながら花子の後ろに続く太郎と新九郎。
「アンタがヤナギの幽霊ですって? アンタのせいでウチの部潰れそうなんだけど、どう落とし前つけてくれるのよ?」
目を細めた花子が女生徒の眼前ギリギリに顔を近づける。涙目になって歯を鳴らした女生徒は耳を塞いで蹲るもう一人の女生徒の頭に覆い被さると、声のない嗚咽を始めた。
「……ぶ、部長、流石にやり過ぎだと思います」
混沌と混乱。惨らしく乱れる無音の体育館。新九郎は、弱々しく肩を震わす女の子を脅すような花子の行動に対して、やりきれない気持ちを吐露した。グイッと首だけを上に向けた花子が新九郎を睨み上げる。ゴクリと唾を飲んだ新九郎は、負けじと花子を睨み返した。
「そ、そんな弱いものイジメみたいな事をして、部長、恥ずかしくないんですか!」
「はあん、弱いものイジメですって? コイツはヤナギの幽霊なのよ?」
「た、たとえ、その子がヤナギの幽霊だったとしてもです! それに、こんなに大勢の人たちを巻き込んで、怯えさせて……」
「巻き込まれてんのは私たちでしょーが!」
「こ、ここは、過去なのでしょう? ならば、ここにいる人たちは、我々を巻き込んだ怨霊とは無関係のはずです!」
いつになく強情な新九郎に首を鳴らした花子はゆっくりと立ち上がった。新九郎は、背中に抱く麗奈に被害が及ばないようにと、震える足を引き摺りながら半歩後ろに下がる。
「新九郎、アンタねぇ、状況を分かって言ってんの?」
「わ、分かってますよ!」
「へぇ、じゃあなんで、こんな訳の分からない所にいる、言葉も喋れないような奴らを必死になって庇ってんのよ?」
「こ、ここが、過去だからです。部長も、あのヤナギの木を見たでしょう? ここにいる人たちは、偉大なる我々の先人なんですよ!」
偉大なる先人という新九郎の言葉に花子の眉がピクリと動く。心に浮かんだ動揺を隠そうと花子は床に唾を吐いた。
「こ、ここが過去だったとして、だから何よ? 過去の人間なら誰彼構わず皆んな偉大だとでも言いたいの?」
「そ、それは……」
「いいこと、新九郎。アンタが背負ってるモブ女、そいつがどんな状態なのか、アンタには判断出来ないでしょ? 一刻も早く、医者に見せなきゃならない危険状態かもしれないのよ?」
「うっ……」
「大事な後輩が、今、何を思っているか、アンタに想像出来るかしら? いえ、もしかしたら、もう手遅れかもしれないわよ、あの子」
「の、のぶくん……」
腕を組んだまま花子はズンッと足を前に踏み出した。ヨロヨロと足を震わせて後退しそうになった新九郎は、花子の後ろで体を震わす女の子たちに目を細めると、グッと膝下に力を込める。
「何よ、まだ文句あんの?」
「ぶ、部長は、部長は何故、超自然現象研究部に入ったのですか?」
新九郎の悲しみと慈愛のこもった優しい視線が花子の瞳に突き刺さった。うっとたじろぐ花子。床を踏み鳴らすように足の親指に力を込めた花子は、新九郎の瞳を真っ直ぐ見返した。
「せ、世界中の謎を解明する為よ!」
「本当に?」
「ほ、本当よ! 超研はその為に存在すんのよ!」
「部長、よく考えてください。それは目的ではなく手段です」
「ど、どういう意味よ?」
「我々は何故、世界中の謎を解明したいのですか?」
「そ、それは……」
「単なる好奇心だけではないはずです。我々が戦う本当の理由を、お忘れになられたのですか?」
「うっ……」
息を呑む女。足元から湧き上がる赤い血に、花子の心臓が激しく鼓動を始めた。
「謎の解明、不思議の研究、恋愛相談……。多岐にわたる我々の活動……その原点は、笑顔、でしょう?」
一歩踏み出した新九郎に、花子はフラフラと後退する。彼女の胸に突き刺さる衝撃、衝動、焦燥。ニッコリと微笑む男の言葉に、言葉を失う女。
「弱気を助け強気を挫く。謎に苦しむ人々を笑顔にする。部長、超研の真髄を、熱き魂を、どうか思い出してください」
カハッと息を吐いた花子の体が膝から崩れ落ちる。忘れていた想いが胸を渦巻くと、花子は、涙で滲んだ熱い目頭をピッと指で弾いた。
「……ふふ、アンタ、いっぱしの男になったじゃないの」
「部長!」
「まさか、アンタに、超研の魂を思い出させられるなんてね」
「いえいえ、はっはっは」
立ち上がった花子は背筋を伸ばす。互いに手を取り合った新九郎と花子は、狭い体育館に轟く笑い声を上げた。
「おい、もういいか?」
太郎の声。床で震える二人の女生徒を監視していた太郎は、満面の笑みを浮かべる新九郎と花子に肩をすくめると、振り上げた木剣の先を耳を塞いで蹲る女生徒の腕に突き刺した。




