情熱の王子
それはちょうど夜明け前のことだった。
木製のスコップを携えた三島恒雄は校舎の西側に向かって歩いていた。灯りのない、人けのない、野良犬の息遣いさえない、暁月の頃である。それでも彼は常々彼がそうするように、精いっぱい背筋を伸ばし、人の目を気にするようにギョロギョロと視線を動かした。
あのゴミの山をどうすれば片付けられようか──。
生温い風が吹いた。遠くの青い海から潮の香りが運ばれてきた。しかしそれを塗り潰すような黒い腐臭が漂っていた。
恒雄は顔を顰めた。
すでに広い額には玉粒の汗が浮かんでいる。恒雄は一人憤慨しながら、誰に聞こえるともない暴言をぶつぶつと落とした。確かに彼もゴミを捨てたことがあった。だが、それはあくまでも個人で運べる程度のものであり、防空壕の入り口を塞いでしまうほどの大量のゴミは彼の知るところではなかった。それでも多少の罪悪感はあり、それが蔑まれることへの恐怖心に繋がり、すると下に見られるという屈辱感が湧き上がり、こうしてわざわざゴミ掃除に訪れたのである。誰にも見つからない時間帯を選んだのはあらぬ疑いを掛けられたくなかったからだ。じっと朝まで作業を続けていれば、やがて学校を訪れる同僚たちや生徒たちにも認められるだろうと、そんな淡い期待も抱いていた。
腐臭が強くなっていく。
少しずつ夜が明けていく。
そこは戦国時代から続く武家屋敷の跡地だった。学校の真下には抜け穴が残されており、戦時下には防空壕として役立てられた。だが、その二つある入り口の一つ、学校の西側にどうしてかゴミが捨てられるようになった。瓦礫やヘドロに加え、溶けたプラスチックやゴム製品、糞尿まみれの紙類、血や膿の付いた包帯類、垢まみれの衣服、肥料となりそうな残飯、腐った魚、回収すべき布類や金属片に加えて靴や木材なども無造作に投げ捨てられている。ゴミの山に埋まった動物の死骸には蛆が群がった。
これが隆盛を極めた武家の末路であるとするならば、なんとも寂しげな光景ではあるまいか。
恒雄は呆然とスコップを構えた。改めて見上げるそれらは異様だった。明らかに悪意を持って積まれたとしか思えない。あまりの悪臭に涙が滲んだ。大量の卵を腐らせたような臭いだった。
ともかく片付けねばと恒雄は青黒いヘドロにスコップを入れた。かなりの重さである。泥の表面には固まった油のような亀裂が走っている。必死にかき分けてみるもすぐに流れ出るヘドロに埋まってしまう。防空壕の入り口だけでも開けておこうかと考えていた。だが、スコップ一本では到底不可能だった。恒雄は途方に暮れた。次第にまた屈辱感が湧き上がってくると、恒雄は鼻息を荒くし、側にあった腐りかけの木箱を蹴り上げた。
「なんなら?」
恒雄は驚いて転びそうになった。ゴミの山から男が起き上がったのだ。
「なんならあんた?」
男は大きく欠伸をした。垢まみれの汚らしい男である。禿げかかった頭にヘドロがこびり付いている。乞食であろうことは聞くまでもなかった。
「君が、なんだね」
恒雄はいつものように背筋を伸ばした。丸メガネの奥から侮蔑するように男を睨み付ける。しかし当の男はすぐに恒雄に興味を失ったのか、丸まった背中を向け、ゴミを漁り始めた。
「な、何をしている! やめないか!」
相手は乞食だった。おそらく真夜中にゴミを漁ろうと訪れ、しかし暗闇で何も見えずそのまま寝てしまい、こうして明け方となってまたゴミ漁りを再開したのだろう。普段の彼であれば絶対に関わらない人種だった。しかし恒雄はゴミを片付けに来ていた。そのため怒りを露わにした。
「それは貴様のものじゃない! 日本国のものだ!」
「あんた、きっきからなんなら?」
「私はこの学校の教師だ。憲兵を呼べる立場にある」
「そうかよ、なら呼べ、呼べ呼べ呼べ、呼びたきゃ勝手に呼べ」
男は嘲ると、恒雄の存在など意に返さずといった様子でゴミ漁りを続けた。
「どうせゴミはゴミなら」
耐え難い屈辱感を襲われた。
皆に蔑まれたくないとわざわざ朝早くにこんな場所を訪れたのである。それを何故、見知らぬ、それも乞食にまで蔑まれなければならないのか。
「今から呼ぶぞ!」
異臭が目に染みる。
怒りのあまり飛びかかりそうになった恒雄だったが、たまらず目を擦った。乞食が物を退かすたびに腐った卵のような異臭が上がった。防空壕の入り口はさらに状態が悪くなっているようだった。
あっと恒雄は丸メガネを掛け直す。
別にゴミを片付けたいわけではなかった。嫌疑を晴らしたい。それさえ叶ったならばもうあんな屈辱感に苛まれずとも済むのである。
汚らしい乞食がゴミを漁っていた。その様はゴミを捨てているようでもあった。
この乞食を犯人として捕えてやればいい──。
恒雄は大きく頷く。恨みはなかったが、所詮は乞食である、同情もしない。
恒雄は木製のスコップをしっかりと握り締めると、ゴミを漁る乞食の背後に近付いていった──。
誰もいない広場。隅に転がる赤いボール。
校舎の窓から茜色の空が見えた。それは夕陽ではない。暗い雲に反射する大炎だ。今や戦中の街は真っ赤な悲鳴に包まれていた。
吉田障子はいつになく落ち着いていた。勿論、恐怖や戸惑いや悲しみに心は乱されている。だが、守るべき存在がすぐ側にあった。おかっぱ頭の女の子である。障子は山本千代子の手を力強く引っ張っていった。
「千代子ちゃん、大丈夫だからね」
彼女とは初対面だった。本来であれば決して交わることのない二人だった。それでも障子は千代子のこと妹のように思った。かけがえの無い親友のように思った。守るべき仲間のように思った。彼は彼女を背負い続けてきたのだ。ただ、その事実を二人は知らない。
窓の向こうに人けはない。広場は静寂に沈んでいる。そこは校庭ではなかった。障子はその夢を鮮明に覚えていた。
ここで爆弾が落ちる──。
「千代子ちゃん、目を瞑って」
そう呟きながら千代子の耳をギュッと塞いだ。
凄まじい爆風が巻き上がる。
赤い熱風に黒い煙が吹き飛ばされる。
障子は懸命に悲鳴を堪えた。千代子を不安にさせてはならないと思ったからだ。
爆風の去った広場に赤いボールが一つ転がった。障子は目を背けようとした。恐ろしい光景だったから。もう見たくなかった。だが、視界に入ってしまう。途端に障子は赤いボールから目が離せなくなった。
「夏子ちゃん……ごめんね」
恐怖からではない、悲しみから、障子の頬を涙が伝った。その寂しげな光景に苦悩した。
「あ、あの」
気が付けば千代子の目がパッチリと開いている。
障子は慌てて彼女の耳から手を離した。涙を拭くと、にっこりと微笑み、千代子を立たせてあげる。そうして前を向いた。
「大丈夫だよ、大丈夫だからね、千代子ちゃん」
千代子はぎこちなく笑った。実のところ彼女はもうそれほど怖がっていなかった。代わりに何やら気まずい想いがする。鼓動が胸を突いて少しだけ苦しい。彼の手が触れた場所が燃えるように熱い。どうにも前髪の行方が気になってしまう。視線の置き場を考えてしまう。彼の手に触れたくなってしまう──。
「行こう」
そんな千代子の心境など知る由もない。障子は彼女の手を強く握り締めた。
あれ──。
千代子はいそいそと髪を弄った。
いかんわ、夢ん中なんに──。
自分の手を引く彼の横顔をそっと見上げた。
六枚のタロットカードがあった。
机の上のそれらはピラミット型に並べられていた。
暖かな教室である。
廊下には極寒の風が吹雪いている。
姫宮玲華は慎重に、されど大胆に、六枚のタロットカードを裏返していった。
「やっぱりだ……」
サラ・イェンセンが固唾を呑んで見守っている。下段の三枚はワンドのエースとソードのナイト、ペンタクルの四。二段目はワンドを掲げる『魔術師』と白馬に乗った『死神』。そして六枚目の最終結果が剣と天秤を持つ『正義』だった。
「やっぱりそうなんだ……!」
玲華の瞳に満月の光が反射した。その唇は雪原に散った鮮血のように煌々と輝いている。
「やっぱり王子が鍵だったんだ! 情熱の王子を前に愚民どもは平伏すのみなんだ!」
「イヤ違ウダロ!」
サラは不満げである。細い眉に掛かるブロンドの髪をピッと払うと、ひどく苛立ったように頬杖をついた。
「感情的ナ執着ガ悪影響ダト出テイル。変化ヲ恐レズ自身ヲ持ッテ行動シロトモ。ソシテ最後ニハ公平デ公正ナ判断ガ大事ダト」
「どういうコト?」
「知ルカ」
「知らないんじゃん! やっぱり情熱の王子じゃん!」
「違ウ! 少ナクトモ最終結果ノ『正義』ハ公平ノ証ダ! 断ジテ情熱デハナイ!」
「王子だもん! この絵ぜったい王子だもん!」
「ソモソモ『皇帝』デナイノガ可笑シイ! 公平ナドト弱キ者ノ嘆キダ!」
「知らないもん! だってこれが運命だもん!」
やんややんやと騒ぎ合う魔女たち。そもそも二人ともタロットカードをよく知らない。サラはいつか見聞きした程度の知識で、ユーチューブで必死に勉強した玲華もカッコいいカードと可愛いカードの区別しか付いていなかった。
「縁起ガ悪イ!」
サラはタロットカードを吹雪の吹き荒れる廊下に捨てた。パラパラと鮮やかな色々が白銀に呑まれていく。玲華の「ばかぁ!」という怒鳴り声も無情の風に飛ばされていく。
「遊デル暇ナドナイ。一刻モ早クココヲ出ネバ」
「え、サラダちゃんってここから出たかったの?」
「サラダ、ジャナイ、私ノ名前ハ、サラ! 二度ト間違エルナヨ! ソレト出タイニ決マテイルダロ馬鹿!」
「馬鹿じゃないもん! てか出たいなら早く言ってよね!」
「言ッテドウスル。今サラ貴方ノ庇護ナド期待シテイナイ」
「だってあたし出口知ってるし。あたしは老獪な魔女だし」
玲華は憤慨したように腰に手を当てた。
その瞳は未だ漆黒の夜を照らす満月のようである。
「外ニデハナイゾ? コノ吹雪ノ話ダ」
サラはその光をよく知っていた。だから慎重になった。
「コノ吹雪ノ校舎カラ出タイダケダ。何故ナラ私ニハ使命ガアル」
私には使命がある──それは始まりの魔女の口癖だった。
姫宮玲華という少女にかつての面影はほとんど残っていなかった。玲華自身もまた昔の自分を忘れているのだろう。だが、彼女の内面を映し出す瞳と唇の光は何も変わっていなかった。だからサラは怯んだ。二千年の時を生きる魔女──彼女が起こしてきた悲劇の全てを知るわけではない。それでも他の始まりの魔女同様に、彼女の行動には大きな禍が伴うことを、若き魔女は知っていた。
「でも今冬だし、春まで待たないと」
「ドウ考エテモ自然現象デハナイ! コレハ精神操作ダ!」
ただ頭が弱い。
そこがどうにも哀れだった。
しかし、だからこそより危険であると、サラは警戒した。
「ヤナギノ霊ガ原因ダロウ」
「千代子ちゃんが?」
「恐ラク吉田真智子トイウ女ダ。アレハ他者ノ精神ヲ呑ミ込ムホドノ異質ナ精神ヲ持ッテイテ……」
「ううん、これ、真智子ちゃんじゃないよ」
姫宮玲華は背伸びをすると、うーんと遠くを眺めるように目の上に手を添えた。
「あ、紗夜ちゃんだ。なんか凍ってるし……怒ってる? 紗夜ちゃんが雪を降らしてたんだ」
「ドウシテソンナ事ガ分カル?」
「だって見えるし、紗夜ちゃんの声も聞こえるし。……三島恒雄って誰だろ?」
「マ、マサカ、コノ精神ヲ見通セルト言ウノカ?」
「だってあたし魔女だもん」
「ソレハ断ジテ魔女ノ力デハナイ!」
玲華はふふんと得意げに腰に手を当てた。すると雪のひと欠片が教室を流れ、ひっそりと彼女の頬に止まる。
サラは思わず額に手を当てた。ほっそりとした腰を曲げると、疲れ切ったようなため息をつく。
「モウイイ。トモカク吹雪カラ早ク出セ」
「任せなさい! ねぇ紗夜ちゃん、紗夜ちゃーん? あたしたちをここから出してー!」
ふた粒の雪が教室を舞った。一つは机の影に消え、一つは窓辺に落ちる。
「紗夜ちゃん紗夜ちゃん、ねぇ紗夜ちゃんってば! 雪はもういいよー!」
サラはスーツのフロントを広げるようにして机に腰掛けた。ブロンドの髪を後ろに流し、はらはらと舞い込んでくる雪の一つ一つを小指で潰していく。「紗夜ちゃんってばー!」と頭の弱い魔女の声に雪が集まってくるようである。
「ねぇサラちゃんも手伝ってよ!」
「……何ヲ手伝エトイウノダ」
「紗夜ちゃんにお願いするの!」
「ソイツハ悪霊ダロウ。願イナド無駄ダ」
「紗夜ちゃんは悪霊じゃないもん。それにサラちゃんも用事があるんでしょ?」
「使命ダ。デモ私ハ無能ダッタ」
「そんな事ないよー、だってサラちゃん可愛いし」
「ウルサイ。アア、申シ訳アリマセン、文久様」
「そういえば使命って何なの?」
「使命ハ使命ダ」
校舎の吹雪が止む気配はない。
頭の弱い魔女に期待出来ることもない。
何よりサラは自分の無能さにひどく落ち込んだ。
結局のところ彼女はイタリア王国時代から何も変わっていなかった。誰かの背中を追い、誰かの庇護に頼り、誰かの指示を待つ。自分の足で立った記憶がない。あまりの不甲斐なさにサラは死にたくなった。
「貴方ニハ関係ノナイ話ダ」
「てかサラちゃんも文久くんと知り合いだったんだね。彼もここに来てるんだ」
「文久……クン……ダト?」
「ほら、あたしって魔女だし、文久くんと仲良かったみどりの記憶も持ってんだよね」
「ダカラ魔女ノ力デハナイト言ッテイル!」
「何で文久くん、またここに来たんだろ、しかもサラちゃんまで連れて……あっ! もしかして、二人ってそういうコト?」
ニヒヒと玲華は口に手を当てた。イタズラ好きの少女の表情である。
サラは顔を茹蛸のように真っ赤にすると、勢いよく立ち上がった。
「ダ……断ジテ違ウ! 私デハナイ! アノ魔女ダ! ロキサーヌダ! 文久様ノ目的ハ、ロキサーヌダッタ!」
「……何って?」
「ロキサーヌダ! 奴ヲ始末スル為ココヲ訪レタノダ!」
「……ロキサーヌ?」
「ソウダ! ダカラ私デハナイト!」
「ちょ、ちょっと待て」
黒髪の少女の声色が変わった。満月の瞳に雲がかかった。鮮血の唇が月光に照らされた。
「それは……それはまさか、ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーの話ではあるまいな?」
「ソレガドウシタ」
「ま、まさかお前たち、ロキサーヌをここに連れて来たのか?」




