凍争
「なんか寒くない?」
そんな睦月花子の呟きと共に雑談が止む。
田中太郎と水口誠也は怪訝そうに首を傾げ、窓の外を見た。
まだ水色の若葉が遠くの山々に茂っている。その上には薄い雲の広がる青空。低地に並んだ家々の雨戸は閉じられ、早朝の街にはうっすらと霧が降りている。
まだ春が訪れたばかりの様相だった。
つまり先ほどからずっと寒かった。
太郎などは職員室らしき所で見つけた黒い外套を羽織っていたし、誠也もまた箪笥に仕舞われていた女生徒の制服ともんぺ服を何枚も重ね着し、ダルマのようになっている。確かに意識してみれば先ほどよりも寒いような気はした。だが、あえて口に出すほどの事でもなかった。
「まぁ、普通に寒いが」
「うん、夏が待ち遠しいよね」
「やっぱり何かおかしわ……」
「おかしいのはアンタの格好だろ」
ほんの数度の変化である。しかし前触れがなかった。彼らが二階に上がって数十分、決して変わる事のなかった気温が一瞬にして数度下がった。それは半袖の花子にとって、決して無視出来ない異様な変化だった。
二階の探索と作戦会議と雑談を一通り終えた彼らはまた一階に降りることにした。体育館に向かおうということで話が付いたのだ。木製の階段は花子が踏んでもギシギシと軋むことのない丈夫な作りだった。六段飛びに一階へと降り立った花子は先ず校舎の東側を見る。そうして西側を振り返り「はあん」と声を上げる。
「おい部長、どうし……」
太郎はふと足を止めた。何かキラキラとした白いモヤが目に映ったのだ。それが自分の吐息であると気付く前に、突然襲いかかってきた猛烈な寒気に、ガバッと両手で自身の肩を抱き締めた。
「な、な、な? なんだ、こ、この寒さは?」
そんな太郎の動揺を尻目に、誠也は勢いよく階段を転がり降りた。弱者である彼なりの防衛本能が働いたのだ。強者の側こそが安全地帯。背中から「グエッ!」と一階に着地した誠也は勇猛果敢なカエルの如く花子の足に飛び付いた。太郎も背中を丸めながら慌てて彼の後に続いた。階段を駆け降りると、花子の横に並び立つ。そうして花子の鉄拳を脳天に喰らった誠也をチラリと見下ろすと、呆然とした表情でゆっくりと校舎を見渡した。
「んだよ……これ……」
一階は白銀の世界だった。
壁や窓は凍り付き、昇降口は雪に沈んでいる。粉雪がさらさらと生きた砂のように蠢いている。ただ窓の外は変わらず春の様相で、流れ込む青い日差しに、一面がキラキラと宝石のように輝いていた。
教室を示す煉瓦色の札に短い氷柱が並んでいた。その滑らかな表面に映る春空を見つめていると、太郎を何処か夢見ごごちとなって、深く白い息を吐き出した。すでに階段も雪の底である。なだらかな白い斜面には足の踏み場もない。
「炎の次は氷ね」
花子は不敵に笑った。鼻息荒く、ゴキゴキと指の骨を鳴らすと、先ずは、と巨大な雪だるまを作り始めた。
スミス&ウェッソンM29の銃口が赤い火を吹く。
扉が弾け、壁が砕け、木片が飛び散る。
さらに荻野新平は逆手に握ったナイフを夜に滑らせた。
白銀の光が薄暗闇に一線。
されど死神の白い影は消えない。
彼の骨と皮ばかりの肉体から力が失われることはない。
「ああ──」
園田宗則は枯れ細った腕を大きく横に振った。なんとも隙だらけな攻撃である。だが、それで十分だった。何故ならば速過ぎる──その痩せた足を踏み出す動作から、背中を捻り、拳を握り、腕を振るまでの速度──そうして次の攻撃に至る間隔──彼の動きは人間を超えていた。あまりの速さに白い残像が付き纏って見えるほどだった。
「神よ──」
新平は身体をくの字に折った。
ナイフを持った左手で側転しつつ、教室の壁を蹴る。その勢いで身体の向きを変え、蜘蛛のような姿勢で着地すると、右手の拳銃を轟かせる。同時に銃撃の反動を利用して真後ろに転がる──そうして宗則が振り下ろした机をギリギリのところで避ける。凄まじい打撃音が響き、机は木屑となって砕け散った。新平はすぐに身体捻り上げると、残骸となった机の欠片を宗則の顔に向かって蹴った。
息つく暇もない。
すでに新平は掃討のための闘争から、追討のための逃走へと戦闘手段を変えていた。追討とは読んで字の如く追わせて討つ。彼が──ではない。彼らが──。この宗則という痩せた男との接触において、単独で向かい合っていては勝てないと、新平を悟らせるのに数秒も掛からなかった。
バンッ──。
宗則の動きが不自然に鈍る。また背中を撃たれたのだ──と、そんな一瞬の隙を狙おうとする新平のこめかみを銃弾が掠める。さらに素早く身を屈めた新平の額を二発目の銃弾が追う。それらは特攻警察である来栖泰造が放った銃弾だ。泰造の狙いは隙だらけの宗則よりむしろ銃の扱いに長けた新平にあった。そして泰造もまた舌足らずな少女の霊に追われているのだった。
現在、彼らは夜の校舎において、四つ巴の戦いを繰り広げていた。
荻野新平を執拗に狙う白装束の園田宗則。そんな二人を追う特攻警察の来栖泰造。そして最後尾の醜い少女の殺意は三人の男たちに向けられている。それぞれがそれぞれを狙っていたというわけではない。それでも四人は敵同士であり、ある意味で対等な立ち場といえる。が、その形勢には明らかな差があった。幅の狭い廊下がゆえ、両端から挟まれる形となった中の二人は考えるまでもなく不利となる。新平は早々と決着が付けられるだろうと考えていた。
ちょきん──。
舌足らずな少女の声が響く。
さらに金属が擦れるような鋭い音が伝わる。
新平は素早く腕を引いた。
そうして見えない斬撃を避けた。
村田みどりの攻撃は厄介だった。何故ならば見境がない。さらに見えない。だが、その斬撃には音よりも遅い、切るという動作が必要だった。さらに彼女は何故か腕か足しか狙わなかった。その為、あらかじめ警戒しておけば新平に避けられない攻撃ではなかった。
ちっ──。
学校は寂れていた。
先ず物が少ない。
新平は先ほどから足止めに使えそうな物を探していた。だが、手に取れそうな物といえば机や椅子の他、柄の短い箒と凹んだバケツ、長棚、そして生徒の忘れ物であろう厚手の巾着袋くらい。がらんとした廊下には掲載物すらなく、子供の集まる学舎といった活気はなかった。それでも校舎それ自体は比較的新しいようで、月に照らされた木目は淡い桃色を帯び、瑞々しい校舎を踏み鳴らした際の響きは重かった。
階段に差し掛かろうという所で新平は迷ったような素振りを見せる。
このまま進むか。
それとも降るか。
この四つ巴の状態こそが彼にとってのベストだった。先ずは人外とも呼べる白装束の男を確実に仕留め、そうして軍人であろう官帽の男を迅速に始末する。ヤナギの霊である村田みどりなどは気にするほどの相手でもなかった。懸念すべきは彼女がまだ子供だという点で、それが故に新平が引き金を引けるかという、ただそれだけの問題だった。
この人外だけはこの場で始末しておきたい。が──。
一瞬の躊躇の末、新平は階段を下りることを選ぶ。
それは宗則を始末するのに時間が掛かりそうだと判断した為だ。
すでに宗則の身体はボロボロだった。背後から数発撃たれ、さらに村田みどりの斬撃を何度も受け、そこに新平の攻撃も加わり、その白装束はおどろおどろしい唐紅に染まっていた。されど尋常ならざる動き。死を知らぬ機械のような無機質さ。悟りを開いた老人のように淡々と、神への祈りを捧げ続けている。柔和な表情はそのままに、肉体を肉塊へと誘う拳の速度を、彼が緩めることはなかった。
ばんっ──。
舌足らずな少女の声が響く。衝撃の波が廊下に広がる。
泰造はそれを屈んで避けた。
宗則は気にしない。
新平はスッと階段の側に身を寄せると、そのまま踊り場まで駆け降りようと片膝を折った。そうする事で、新平を追って躊躇なく階段を飛び降りるであろう宗則の胸元に、数発のマグナムをお見舞いしてやろう、と──。
新平はハッと身構えた。左手のナイフを上げ、身体の向きは変えず、さらに一歩大きく足を踏み出す。
廊下から階段へと折れ曲がった壁。その影に長身の男が立っていたのだ。
左腕には髑髏のタトゥー。
そしてカボチャの仮面である。
新平はカッとなった。
それが清水狂介であることはすぐに分かった。毒々しい飴色のカボチャを被り、髑髏のない右腕を正面に上げ、のそりと壁に寄りかかっていた。
「おいッ!」
両手は武器で塞がっていた為、仕方なく怒鳴ってやる。
それに対して狂介は何の反応も示さなかった。彼は普段通りの調子で、ただ伸ばされた右腕の先の、指の間に置かれたチョークをピンッと弾く。白いチョークがくるくると暗闇に放物線を描いた。それが廊下を照らす月明かりに入ろうとする刹那、血まみれの宗則が階段側にズンッと現れた。
宗則は先ほどからずっと新平しか見ていなかった。背後からの攻撃は気にも止めず、ただひたすらに新平の一挙一動を目で追っていた。人を超えた動体視力を持つ男である。そんな彼の目に向かって突然真横からチョークが飛んでくる。宗則は反射的にそれを避けた。その隙を新平は逃さない。鼓動が鳴り止むよりも早く、まるで初めからそこにあったかのようにスッと拳銃を構えると、予備動作なく、スミス&ウェッソンM29のトリガーを引いた。
赤い火花が飛び散る。
44マグナム弾が夜闇を切り裂く。
死神の額にドッと赤い花が咲く。
宗則の頭が後ろに弾けると、彼の痩せた身体は勢いよく吹っ飛び、ガラスの曇った引き戸を破壊し、教室の床に叩き付けられた。
「失せろ!」
新平は間髪入れず、飄々と立ち尽くす狂介の腹に後ろ回し蹴りを入れた。狂介は長い手足をだらりと無抵抗に、そのカボチャの仮面ごと、階段下へと落ちていった。新平はすぐに壁に背を当てる。人外は仕留められたが、まだ厄介な軍人が残っていた。幸いにも軍人の背後にはヤナギの霊の存在があった。村田みどりの無差別攻撃が軍人に向けられた際、彼は一体どういった反応を示すか。ただ避けるか。それとも反撃するか。彼が乾いた銃声を響かせたその時は──。
「新平さん、緊急事態だ」
相変わらず淡々とした口調だった。狂介は何事もなかったように新平の背後に立っていた。新平はよっぽどそのカボチャの仮面ごと能面のような顔面をグチャグチャにしてやろうかと悩んだが、今は凄んでやる暇もないと、腰のホルスターにナイフを仕舞い、真横に伸ばした左腕で狂介の体を壁際に引き寄せた。
「まだ終わってないぞ」
「それどころじゃないんです」
「少し黙ってろ」
「そろそろ夜が明ける」
新平はピクッと眉を動かした。白いモヤがうっすらと目の前を流れた。グリップを握る右手がやけに冷たく感じる。鋭い冷気が唐突に肌に染み込んでくる。
「このままでは吉田真智子も永遠に消えてしまうだろう」
雪が降り始めた。
新平は左腕で口元を隠した。白い息が相手に見つかることを恐れたのだ。新平の警戒が解かれることはなかった。だが、僅かな動揺に思考が乱れた。時が動いたわけではない。しかし極寒の冬が訪れたのは事実である。もしそれが誰かの意思であるとするならば、それを行った者は夜を支配出来る存在、小野寺文久──。いいや、奴は死んだ。ならば──。
「吉田真智子は死んだ」
「……なんだと?」
「彼女はもうこの世にいない」
新平は彼を振り返った。唖然とした表情から憤怒の形相へ。新平の顔色が変わる。
「今、何と言った、お前?」
黒色の拳銃をゆっくりと腰のホルスターに仕舞った。もはや敵対する者たちへの警戒心も無い。ただ狂介の言葉を反芻し、彼の次の言葉を確かめようと、白銀のナイフのみをギラつかせる。対して狂介は落ち着いた様子で、殺意を持った新平を目の前に、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「夜が明ける」
「その後だ!」
「それも最悪の方向に──」
ちょきん──。
十四年式拳銃の短い銃声が少女の声とぶつかる。新平は咄嗟にリボルバーを引き抜き、そうして信じられない光景を目にした。つい今し方44マグナムで頭を吹っ飛ばした筈の白装束の男が教室から顔を出したのだ。
「パンプキン? ハロウィンですか?」
宗則は顔面を血塗れにさせながら、それでも人の原型を保ち、狂介の向かってニッコリと柔和な笑みを浮かべた。
新平はまた狂介の腹を蹴る。そうして狂介を階段から突き落とすと、彼自身もまた階下に飛び降りる。
ともかく状況を整理しなければならないと思った。
いったい優先すべきは何か。
見誤れば取り返しの付かない事態となる。
目まぐるしく移りゆく校舎から変わることのない夜の空を一瞥した新平は、影を置き去りにする速度で、真っ白な吐息を背後に掻き消した。




