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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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240/255

平和と愛の天使像

 

 園田宗則の羽織りに赤い花びらが吹雪いた。

 額の中心を撃たれた宗則だったが、それでも彼は痩せた首を僅かに傾かせたのみで、その澄んだ目を閉じることはなかった。

「ああ、神よ──」

 白い影と黒い影の交差は一瞬だった。

 姫宮玲華はすぐに視線を下げた。

 悠然と佇む白い死神。対して木崎隆明の状態は正視に堪えなかった。死神の拳をモロに喰らうと、車に轢かれたように弾かれ、壁に叩き付けられ、そのままピクリとも動かなくなった。壊れた人形のように手足が曲がっている。熟れた果物のように顔が潰れている。赤い肉片がドロリと崩れている。

「罪人なる我を憐れみ給え」

 宗則は胸の前で十字を切った。

 銀のネックレスにそっと触れると、のそりと足を前に踏み出す。その重みにズンッと校舎が縦に揺れた。

 玲華は小さく悲鳴をあげ、水口誠也の前髪を掴んだ。誠也は未だ縛られたままであり、その形相はカツラを毟られんとする政治家が如きである。

「神よ」

 顔の潰れた木崎の足元には黄金色の拳銃が転がっていた。まだうっすらと白い煙の揺れる銃口。宗則の愛用する南部式小型自動拳銃である。神への祈りを捧げながら、そっと拳銃を拾い上げた宗則は額の血を拭うことなく、また顔面を潰した木崎の安否を確かめることもなく、ゆっくりと玲華たちを振り返った。

「罪人なる彼を憐れみ給え」

「“動クナ”!」

 サラ・イェンセンが叫んだ。走り出すと共に白銀のナイフを抜き去り、月夜に振り掲げる。

「死ネ!」

「ああ、神よ」

 だが、ナイフが振り下ろされることはなかった。死神の手に触れたのだ。サラはもう一歩として動くことが出来なかった。それでも高慢な態度で赤い唇を歪ませてみせた。

「王ガ必ズマタ貴様ヲ葬ル」

「罪人なる我らを憐れみ給え」

 宗則は引き金を引かなかった。代わりにサラの意識を片手で奪う。拳銃はあくまでも足止め用であり、魔女を葬る方法は別にあった。それは何も複雑な手順ではない。意識を奪った魔女の肉体を清め、聖水を満たした棺に沈める。たったそれだけだった。それだけで永遠を生きる魔女を葬れた。魂は純物質を抜けられない。棺に閉じ込められた魔女は次の器まで辿り着けず、そのまま青い海に落ちる。そんな魂の特性を知っていたわけではない。ただ果てない戦いの末に、火で炙るのではなく、水に溺れさせる事こそが有効であると彼らは経験から理解した。

「さて、マリア」

 サラを優しく床に下ろした宗則はやっと頬を伝う血を拭った。

「貴方の番です」

 玲華は小さく首を傾げた。

 マリアとはいったい誰だろう──。

 宗則の骨と皮ばかりの腕が前に伸ばされる。それでも玲華は動かなかった。彼女の真下で誠也がうーうーと唸っている。そんな誠也の頭をそっと撫でた。

「神よ」

 その時、ぬっと木崎が立ち上がった。巨大な影が宗則の背後に広がる。木崎の表情は変わらず陰気で、その手には絹糸のように滑らかなピアノ線が握られていた。

「罪人なる我を憐れみ給え」

「ああ、そうだ」

 細い光が闇夜を滑った。

 それは宗則の首にピアノ線が喰い込んだ後だった。

「お前の番だ」

 ピアノ線は一瞬のうちに宗則の気管を圧迫した。よく磨かれた刃物のような鋭さでその痩せた首を締め上げていく。

 咄嗟に腕を上げた宗則だったが、すぐに目を閉じると、代わりに胸元の十字架を握った。

 木崎はさらに強い力でピアノ線を引き締めた。宗則の背中に肘を当て、彼の膝裏に足を置き、体を思いっきり後ろに逸らす。キリキリと張り詰めた音が鳴った。すぐに血が吹き出してもおかしくない力だった。木崎の頭には彼の痩せた首など簡単に落とせるイメージがあった。

「……お前、本当に人間か?」

 だが、そこまでだった。

 宗則の痩せた肉が裂けることはなかった。

 それどころか意識すらも奪えない。

 頭が潰されようとも平然としていた木崎だったが、やっと覚えた動揺に腫れぼったい瞼を上げた。

 小野寺文久が魔女を引き連れてくることは予想の範囲内だった。だが、この白装束の優男は完全に想定外だ──。

 木崎は何とか宗則を跪かせようと全体重を腕に掛けた。するとピアノ線を引く木崎の手から血が滲み出す。

 まるで何百年と生きる大樹のように宗則の体が揺らぐことはなかった。

「危うく背くところだった……」

 宗則は静かに十字を切った。

 先ほど咄嗟に腕を上げた宗則が掴んだのは銀のネックレスだった。それを引き千切ろうとし、敬虔な彼は後悔した。

 そもそも鉄の糸など気にする必要がない。

 宗則は拳を握り締め、サッと後ろを振り返った。張り詰めていたピアノ線が豊かな音を立てる。木崎の手から真っ赤な血飛沫が上がった。

「貴方こそ、人でなしだ」

 木崎はふぅと肩を落とすと、迫り来る宗則の拳に合わせ、歩くようなペースで後ろに下がった。明らかに宗則が伸ばす拳の方が速い。だが、気がつけばもはや届かない位置にまで陰気な男の影が下がっている。

「面妖な」

 宗則は右足を下ろした。すると床が波打ち、天井の白熱電球が弾ける。

 木崎のバランスが崩れると、宗則は間髪入れずその顔面に拳を入れた。ゴンッとハンマーで殴られたような鈍い音が響く。だが、血は飛び散らなかった。木崎は倒れることなく、糸で吊られた人形のように、のそりと左腕を上げた──その手には黄金色の拳銃が──。低い銃声と共に宗則の額が弾けた。次いで胸に一発。下腹に一発。さらに眉間に狙いを定める。すると宗則はそれまでとは打って変わって、雷光のような速度で体を反転させた。弾丸が夜を切る。そうして宗則の頬を掠め、闇の向こうへと消えていく。

「罪を認めなさい」

 いったい骨に阻まれたか。肉に防がれたか。常識では考えられない話だったが、銃撃により与えられたダメージは擦り傷程度だった。それでも眉間への銃撃には確かな反応を示した。つまり不死身というわけではない──。

 木崎は人差し指で拳銃の形を作り、バンッ──と、見えざる弾を飛ばした。だが、当たらない。素早く身を屈めた木崎は、もう一度彼の眉間を狙って、人差し指を轟かせた。


 バンッ──。


 それでも当たらなかった。

 宗則はとうとうその本性を現した。

 痩せこけた手足を鞭のようにしならせる彼の動きはもはや人間ではなかった。

「やめて」

 玲華は疲れ切った老女のような目をして、そう呟いた。意識を失ったサラと手を重ね、モゾモゾと体をくねらせる誠也の頭を撫でる。三人の青年たちが忘れ去られた像のように月の影に隠れている。

 二人の争いはすぐに決着が付きそうだった。木崎の動きは亡霊のように得体がしれなかったが、宗則の動きもまた人にあらず、その精神すらも人を凌駕しているようで、戦いに慣れているらしい宗則の動きには一切の迷いがなかった。比べて木崎の表情には苦悩が溢れている。なんとも哀れな目をしていた。その陰気な瞼の裏に潜んだ恐怖と悲しみ、怒りと苦しみを隠し切れていなかった。

「“やめろ”」

 玲華は唐突に湧き上がった激情に喉を震わせた。

 血のように赤い唇が縦に開かれる。すると宗則の動きが止まる。銀の十字架がシャランと音を立てた。木崎の曲がった背中に腕を回し、締め潰そうとしているところだった。

「“離せ”」

 明らかに魔女の力とは違った──何故なら宗則の肉体に魔女の声は響かない──。まるで夜そのものに体を押さえ付けられたような、それはどうにも物理的な力だった。

 すぐに冷静となった宗則はその圧倒的な力で体の拘束を解いた。そうして深々とため息を吐くと、彼らしからぬ厳しい表情で、玲華を振り返った。

「マリア、貴方はまたいったいどんな罪を──」

 宗則はそこで口を閉じた。

 何やら奇妙な音を耳にしたのだ。

 いいや、耳にしたなどという表現では追いつかない。それはまさに空襲に揺らされたような校舎の悲鳴だった。

「何ですか、次から次へと」

 玲華もまた視線を動かした。

 ドダン、ドダンと校舎の東側から連続する怪奇音と重なる、雄々しい少女の怒鳴り声を耳にしたのだ。

「姫宮玲華ァ!」

「部長さん!」

 幾重にも連なった壁の向こう側で睦月花子もまた玲華の声を聞いた。

 夜を遮っていた教室の壁が破壊されると、椅子と机が薙ぎ倒され、粉塵が夜に吹く嵐のように巻き上がった。


 

「あのオブジェの意味が分からなかった」

 そう呟いた清水狂介の顔はカボチャの仮面に隠されていた。ただ彼の右腕に彫られた髑髏のタトゥーのみ、陰鬱な校舎を嘲笑うように、肉のない唇を広げている。

「ある意味で校舎を囲う壁よりも奇妙だった」

 三原麗奈はジッと狂介を見つめていた。左の頬に手を置いたまま先ほどよりも落ち着いた呼吸を繰り返している。

 過去も未来も見えないという現状に変わりはなかった。が、それはあくまでも見えないというだけの話で、過去と未来が無くなったという考えは早計だった。戦後から先が黒く塗り潰されていたのは今に始まった問題ではない。さらに先ほどまで一緒だった睦月花子の姿も確認できない。つまり見えない先にも夜は続いているのだろうと推測出来る。

 麗奈は手を下ろし、少し前屈みになって、腕を後ろに回した。

 そんな事よりも狂介の「大丈夫だ」という言葉が気になった。いったい何を根拠にそう平然としていられるのか。巫女の瞳を持っているわけではない。であるがゆえに麗奈の推測をあの一瞬のうちに導き出せたとも思えない。そもそもが飄々とした男である。恐怖という感情が希薄なのかもしれない。やはり得体が知れないと、麗奈は空色の瞳を細め、上目遣いにカボチャの顔を見上げだ。

「僕もあの像には疑問を覚えたことがある」

 徳山吾郎は黒縁メガネをレンズを拭き、それを月にかざした。麗奈とは対照的に狂介という男に信頼を置き始めているようである。

「噴水は枯れてしまっているし、管理されている様子もない。そもそもあんな所にあったのでは誰の目にも止まらない」

 花子が破壊していった壁の向こうは真っ暗で何も見えなかった。それが吾郎にはどうしようもなく不気味であった。吾郎はなるべく大穴を覗き込まないよう注意した。恐怖による想像の果てに魑魅魍魎の類が現れることを恐れたのだ。

「そしてあの噴水には奇妙な噂があってね、放課後の平和と愛の天使像の赤い涙と血の池の謎という……いやはや、噂などと呼称してよいのかも分からないほどに長ったらしくて説明臭い噂なんだが、まぁこれがこの学校の七不思議の一つに定められているんだよ」

 吾郎はウホンと気障ったらしく咳払いした。

「それともう一つ有名な七不思議があって、旧校舎裏のシダレヤナギを彷徨う戦前の女生徒の怨霊というこれもまた滑稽なほどに説明臭い名称なんだが、何故だかこの二つの七不思議のみ、過去が変わる以前の七不思議と類似していたんだ」

「どちらだ」

「は? ええっと、どちらとは?」

「どちらの方が有名だった」

「それは……どちらの七不思議が有名だったかという質問かね? ううむ、それは断然シダレヤナギの方だが……」

「その二つを十で分けた場合、比率はどうなる」

「比率か。そうだねぇ、シダレヤナギの方が九、いいや、十かな? シダレヤナギの亡霊はかなり有名な七不思議で、それこそ毎日のように噂されていた。けれども天使像の方は、ほら、噂の意味が分からないせいか、ほとんど話題にならなかった」

 吾郎は掛け直したばかりのメガネを中指で上げた。そこに違和感を覚えたことは一度もなかった。

「そうか、あの場所が旧校舎裏と呼ばれるようになったのは七不思議のせいだったか……」

「やはり意味はなさそうだな」

 狂介はコクリと一人、カボチャを傾けた。そうしてフイっと明後日らしき方に向き直ってしまう。

 そんな彼の視線を吾郎は慌てて追いかけた。

「ま、待ちたまえよ! 何か分かったのなら教えておくれ!」

「あれと壁に明確な繋がりはないということが分かった」

「ならば壁とは別に意味があるのでは? そもそもあんな寂れた場所に噴水があるのは不自然だろう。学校の正面や中庭ならまだ理解出来るさ、だけどあんな理科室の裏側に噴水を置いたって、誰も訪れやしない」

「ああ、その通りだ」

「本当にあの像には何の意味もないのか? では、どうしてあんな奇妙な七不思議が……」

「あれ自体には意味がない。何故ならあのオブジェはただのカモフラージュだ」

「カモフラージュ?」

 そこで麗奈が二人の会話に割って入った。今まで知ろうとすら思わなかった七不思議の話に少しだけ興味が湧いたのだ。

「へぇ、つまりあのヘタクソな女神像とダサい七不思議は誰かが何かを隠すために作られたってこと?」

「そうだ」

「ちょっと面白そうじゃん。いったい何を隠そうとしてたのかな。零点の答案用紙とか? 浮気の現場写真とか? あ、もしかして誰かさんの死体とか?」

「恐らくは防空壕の出口だろう」

「はい?」

「この学校の防空壕には元々二つの出口があったんだ」

 ふっと大穴の向こうから冷たい風が流れた。

 微かな青葉の匂いが頬を撫でる。

 狂介はまた明後日の方を向くと、思考をさらに先へと進めていった。

「とすると、やはり鍵は──」

 麗奈と吾郎は言葉を失ったまま立ちすくんだ。狂介の言葉の意味を考え、ゾッと背筋を凍り付かせた。

 


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