崩壊の兆し
「おお、神よ──」
園田宗則は恍惚の表情で、痩せ細った右腕を大きく振った。
それは木崎隆明が黄金色のトリガーを引くのと同時のことだった。
三原麗奈はビクッと体を強張らせた。
不意に清水狂介が人差し指を立てたのだ。
薄暗闇に沈んだ教室でのこと。カボチャの仮面を被った男の起こすアクションはどれも不気味であり、顔を真っ赤にした麗奈は返す刀で中指を立てた。
「し」
そんな彼女に向かって狂介はさらに手のひらを広げた。彼の長い指が五本足の蜘蛛ように眼前に迫る。麗奈はギョッとしてアッシュブラウンの髪を逆立てた。カボチャの仮面ゆえ瞳を覗き込むことは叶わない。ならばと彼の金的を蹴り上げた麗奈は床に転がったカボチャの仮面を「死ね!」とシュートした。
下腹部を押さえた狂介はそれでも声を上げなかった。手のひらは広げたままカボチャの行方をジッと目で追いかける。どうやら静かにしろと伝えたかったらしい。
「あーあーあー、ほんと凶暴な女ね」
睦月花子はやれやれと頭を掻いた。急所を削られた彼を憐れむような調子である。
麗奈は「ちっ」と舌を突き出した。小ぶりな胸の前で腕を組み、空色の瞳を周囲に走らせる。確かにカボチャ男の不意の行動に現れていた通り、夜の校舎は奇妙なほどに静かだった。それは敵である花巻英樹が冷静となっていた為であり、軍刀をだらりと腕に下げた彼の冷徹な横顔が、麗奈の視線の先に映っていた。
「そろそろかな」
誘き寄せて、意識を奪う。
それが当初の計画だった。
巫女の瞳を持つ麗奈にとっては最も単純で強力な手といえよう。だが、当然ながら、相手を近付けるという行為は危険な賭けでもあった。
もっと確実に手段があるかもしれない──。
麗奈は空色の瞳を動かした。
予期せずして睦月花子が復活し、さらに清水狂介という男の力に確信を持った今、わざわざ敵の前に身を晒すような行為は馬鹿らしく思えた。
「ねぇ」
「網が欲しいか」
「いらない」
「くれてやる」
「いらない」
狂介は何事もなかったようにカボチャの仮面を右腕に抱えていた。さらに左腕には網の束が──唐突にそれを投げ渡されると、その予想外の重さに麗奈は尻餅をついた。
「あのさ……」
漁業用の投網である。それがいやらしく手足に絡みついてくる。すぐに眉を顰めた麗奈はモゾモゾと立ち上がろうともがいた。
「せめてもっと小さいのにして」
「どのみち狭い廊下では役に立つまい」
「なら作るな!」
「おい花子、出番だ」
そう言った狂介の足元にはいつの間にか扉ほどの大きさの鉄板が敷かれていた。
「持ち上げられるか」
「楽勝ね」
どうにも盾のようである。英語の辞書ほどの厚みがあり、銃弾くらいであれば簡単に跳ね返せそうだ。ただ、現役の軍人を相手にその効果が期待出来るかは不明で、たとえ遠距離からの銃撃は弾けたとして、鈍重そうな見た目は明らかに近距離戦に不利であった。
いいや、もしかすると接近戦こそが彼の望むところなのかもしれない──。
麗奈は当然ながら狂介という怪しげな男を一ミクロも信用していなかった。その空色の瞳で周囲を警戒しながら、彼の行動の意味を考えた。
「ねぇ、壁とか作れないかな」
やっと網から抜け出した麗奈はジャージの埃を払うと、ニッコリと天真爛漫な笑みを浮かべ、少し上目遣いに狂介を見上げた。
「壁とは」
「廊下を塞ぐ壁のこと。それさえあればもう戦わなくて済むでしょ?」
「無理だ」
狂介はにべもなく首を振った。
麗奈は床に転がっていた拳銃を拾い上げると、ニコニコと優しげに目を細めながら、その銃口を狂介の額に向けた。
「どうしてかな。コレを作る方が難しそうだよ」
「作っているわけではない、思い出しているだけだ」
「戦中の校舎にスプリンクラーを設置してたよね。教室に雨を降らして、雷まで落としてたよね。そのどれもが壁を作るよりずっと難しそうだよね」
「スプリンクラーもどきであれば加圧装置も電源も警報もバルブも要らない。水源と配管とヘッド、あとは単純に水を押し出すイメージさえ出来れば事足りる。教室のあの雨はスプリンクラーの応用で、雷は音と光を再現したまで」
「へー、そうなんだ。へー、じゃあその応用とやらで壁を作ればいいんじゃない?」
「無理だ」
「何でかなぁ? ねぇ何でかなぁ? 別に調湿抗菌に優れた完全防音の壁を出してって頼んでるわけじゃないんだけど? 君の足元に転がってる不細工な盾もどきクンで廊下を遮断してくれればそれで済む話なんだけど? 何でそれが無理なのかなぁ? かなぁ?」
「先ず廊下を塞ぐ壁の設計が思い浮かばない。教室の掲示板を遮るわけにはいかないし、それは廊下に並んだ窓も同じ。そもそも廊下とは移動を目的とした通路であって、それ自体を塞いでしまう壁というのは……」
「この役立たずカボチャ!」
「ねぇ、時間がないんじゃなかったの?」
そんな二人の会話を横目に、花子はため息を吐いた。花子の視線はいつものように真っ直ぐで、当初の予定通り、警察に追われる身となった吉田障子を救うために動こうとしている。先ずはその吉田障子と合流する必要があると、何やら作戦を立てているらしい二人に背を向けた花子はグルリと肩の肉を回し、ゴキリと首の骨を鳴らし、黒板のある教室正面の壁にポンッと両手を当てた。
「この先に敵が居んのよね?」
その問いに返事をする間はなかった。
花子が一歩踏み出すと、丸太がへし折れるような音と共に、白い土埃りが舞い上がった。
「ぬりかべですって? はん、上等じゃないのよ!」
メキメキと壁が四方から剥がれていく。
ゴロゴロと机と椅子が押し巻かれていく。
ぬりかべというよりはブルトーザーである。
教室の壁を軽々と押し進む花子の細腕には無数の青黒い血管が浮かんでいた。
「オラァ!」
そのまま花子は躊躇なく二枚目の壁に突進した。そもそも前が見えてないのである。空き教室の向こうに潜む男こそが敵である花巻英樹だったが、彼女は一向に止まる気配を見せなかった。
「オラオラオラオラオラァ!」
次々と壁が破壊されていく。爆竹を水中で鳴らしたような低い衝撃音が連なっていく。ぬりかべと化した花子の過ぎ去った後は洞窟のように真っ暗だった。
麗奈と狂介はしばし呆然と立ちすくんだ。作戦も何もあったものではない。花子の後ろ姿を無言で見送るばかり。信長と風花も目をパチクリとして押し黙っている。生徒会書記の徳山吾郎のみ幾分か落ち着いた表情で廊下の警戒を続けた。
「ねぇ」
やがて麗奈はハァと肩の力を抜いた。
「もうそれ意味ないよ」
吾郎は訝しげに麗奈を振り返った。そうして花子が開けた巨大な穴に目を細め、丸見えとなった廊下に頷く。ヘナヘナと床に手を付いた吾郎の手元に黒縁メガネが転がった。ほんの数分の出来事だったが随分と老け込んだ様子である。麗奈は思わず笑った。月に照らされた土埃りが洞窟のホタルのようにキラキラと夜を彩った。
「徳山吾郎くんだったか、本当に良くやった」
「いやいやいや、僕はただ必死になっていただけで……」
吾郎の顔に少しだけ普段通りの得意げな表情が戻る。そんな彼に向かって狂介が惜しみない賞賛の拍手を送る。
麗奈はやれやれと肩を落とした。ぬりかべとなった花子に呑まれたか、それとも異変に気付き逃げ出したか、花巻英樹の姿はすでにそこになかった。取り敢えず差し当たった脅威は過ぎ去ったようである。だが、依然として危険な夜を彷徨っているという事実に変わりはなく、麗奈は腰に手を当てると、空色の瞳をゆっくりと動かしていった。
ミイラ男と化した長谷部幸平が穴の前で優雅に足を組んでいる。
信長と風花が興味深げな表情で合わせ鏡のようなった穴を覗き込んでいる。
壁を破壊していった花子の後ろ姿は見えない。
どれほど目を凝らそうとも真っ暗な穴の先は見えない。
そして戦後から先の校舎もまた真っ黒に塗り潰されたまま──。
「あれ……?」
麗奈は左の頬に薬指を当てた。気が付けば過去も未来も深い闇の中にあった。
巫女の瞳が光を見失ったというわけではない。
ヤナギの記憶が完全に崩壊したというわけでもない。
何故なら彼女たちはそこに立っていた──。
だが、そこから過去も未来も見渡せない。
もしそれが瞳の異常でないというのならば、彼女たちは今や、進むことも戻ることも出来ない記憶の檻に囚われてしまったということになる。
麗奈は一瞬にして凍り付いた息を「はっ」と吐き出すと、口元に手を当て、現状で見渡せる記憶を確かめていった。
ハラハラと黄色い葉を落とす旧校舎裏のシダレヤナギ。校庭で竹槍を振る女生徒たち。舞台の上に響く笑い声。椅子を蹴り上げる教員らしき丸メガネの男。講堂に響き渡る国歌。暗い空を見上げるもんぺ服の少女。鳴り響く警報。地を揺らす衝撃。壁を貫く爆音。消えていく悲鳴。赤黒い炎──空襲後の校舎は静かだった。シダレヤナギが一人寂しく佇んでいた。噴水の水面に微笑む天使の顔が黒く塗り潰されていった──。
「あああああっ……!」
狂介は拍手を止めると、ゆったりと麗奈を振り返り返った。
「どうした」
「記憶が崩壊してる!」
「そうか」
「もう出られないかもしれない!」
「落ち着け」
狂介は無遠慮に麗奈のアッシュブラウンの髪をくしゃくしゃと撫でた。怒りの膝蹴りが彼の股間に襲いかかる。
「過去も未来も見えないの! 私たちは永遠の夜に閉じ込められた!」
「大丈夫だ」
「いったい何を根拠に……!」
「なぁ吾郎くん、君に二つ聞きたいことがある」
吾郎は恐る恐る首を傾げた。夜の校舎は静かだった。だからこそ麗奈の悲鳴がより鮮明となって彼の耳から離れなかった。
「な、何かね?」
「終戦以前の校舎はこれが初めてか」
「前回の件と合わせてという意味だろうか?」
「過去が変わる前の話はすでに花子から聞いている。その時に君もここを訪ねたか」
「ああ……いいや、僕が終戦以前の校舎を訪れたのは今回が初めてだ」
「そうか」
狂介はカボチャの仮面を被り、淡々と頷いた。
「ではもう一つ。君の目から見てこの学校に何か違和感はないか」
「それは、山のようにあるが……。たとえば旧校舎が放置されたままである理由は何か。旧校舎の正面が旧校舎裏などと呼ばれている理由は何か。それにあのヤナギの木は何故……」
「俺はこの学校を訪れてすぐ二つの違和感を覚えた」
「もしや、あの壁のことかね?」
「そうだ。一つ目はあの壁だ。そしてあの壁には意味があった」
「へぇ、いったいどんな意味が……」
「もう一つは」
狂介は花子が突き進んでいった穴の向こうを指差した。釣られて吾郎も穴の先を見つめる。黒板があった方角である。つまりは校舎の西側。彼らの時代おいてはその方向に理科室があった。
「もしや理科室に何か?」
「いいや、その裏だ」
「裏?」
「学校の西側にオブジェがあっただろう」
「ああ、天使像か!」
「あのオブジェがどうにも奇妙だ」
「クソッ、どうなってやがる!」
早瀬竜司は廊下の真ん中にドシンと胡座をかいた。
人けのない校舎は早朝の青い日に包まれている。ヒノキ材の香りばかりが清々しくもうるさい。つるりとした光沢を放つ廊下は古びた飴色ではなく、春雲にも似たまだ新しい乳白色であった。先ほどまでの趣ある日本家屋は影も形もない。どうにか校舎に戻ってきたといえる状況であったが、その木造の様相は彼の知るコンクリートの重苦しい雰囲気とはかけ離れており、滑りの悪いリノリウムの廊下と同じくらい、つるつると滑らかな木の廊下に辟易させられた。窓の向こうは大正時代を舞台とした朝ドラを思わせる景色で、校舎から抜け出せる気配は一向になく、さらに気が付けば一人である。
「何処行きやがった、アイツら」
別に一人が寂しいなどという子供じみた感情を抱いていたわけではなかった。ただ他の者たちの安否が気がかりで、特に頼りなくとも気の許せる友となった吉田障子を捨て置いてこの校舎を後にする気はなく、されど探し出せる当てもない。竜司は途方に暮れていた。狭いはずの校舎が果てしない。どうにも夢の中にいる感が否めない。或いはもう死んでいるのかもしれない。そんな事を思ったりもした。
竜司は青空を眺めながら、ぼーっと今日を振り返った。
廃工場の惨劇から一夜明け、警察と争い、学校に籠城し、小野寺文久という百獣の王のような男に撃たれ、目を覚ますとそこは夜の学校で、消え掛かった女生徒と意気投合し、真っ黒な少女と出会い、吉田障子の奇行に笑い、また小野寺文久に銃を向けられ、そこで恐怖という感情を覚えさせられ、因縁の男であるキザキと再会し、彼の奇妙な話を聞き、三人で夜の校舎を彷徨い、体育館で白装束の男と対面し、日本家屋の縁側に辿り着き、空色の目を持つ少女と出会い、また惨劇に巻き込まれ、気が付けばこうして一人。
あまりにも長い一日だった。流石の竜司も疲れを感じていた。だが、いつまでも座っているわけにはいかない。竜司はよっと立ち上がると、グッと背筋を伸ばし、当てもなくまた校舎を歩き出した。時折、仲間の名前を叫びながら──。
「おいッ!」
どれほど歩いたであろうか、もう見飽きるほどに見上げた青空をまた見上げながら、大きく欠伸をした竜司の耳に聞き知った男の声が届いた。
「おいッ! 竜司ッ!」
どうやら“苦獰天”の総長である野洲孝之助のようである。何やら切迫した様子だったが、せっかちが取り柄である彼の怒声には慣れ切っており、竜司はやれやれと頭の後ろで手を組みながら、彼の厳格に結ばれた太い眉を振り返った。
「孝之助か? いったい何処をほっつき歩いて……」
「走らんかッ!」
そうして竜司はギョッと目を見開いた。
孝之助の背後で轟々と唸りを上げる真っ赤な炎を見たのだ。
それは校舎を端から呑み込もうと大口を開けた紅蓮の龍のようだった。




