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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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238/255

また明日

 夏子は戸惑った。

 しょう子ちゃんの目がまたベテルギウスの情熱に煌めいていたから。夏子は大いに焦って、ぎこちない笑みを浮かべて、いつものように背中を丸めて、そうして前髪をくしくしと引っ張った。

 断っちゃえばよかったのに──後になってそう思った。でもそんな事は元より不可能で、だってそれは強要だとか懇願だとか期待だとかじゃなくって、しょう子ちゃんはすごく楽しそうで、すごく嬉しそうで、キラキラと星みたいに眩しい目をして「一緒に舞台に上がろうよ」「すごく楽しいから」って──。ただお友達をお外に誘うみたいだった。だから夏子はいつものように「うん」と小さく頷くことしか出来なかった。

 夏子は背中を丸めていた。

 なるべく顔を上げたくなかったから。いつか誰かに瞳の色が気持ち悪いと言われて、それ以来、顔を上げるのが怖くなった。どうして空みたいに青いのと聞かれて、どうして空みたいに青いのか答えられなくって、それ以来、誰かと話すのが怖くなった。でも親友の千代子ちゃんはそれを許してくれない。すごく活発で、目がまん丸で、頬が柔らかそうで、たまにお姉ちゃんみたいで、たまに妹みたいで、すごくおっちょこちょいで、だから放って置けなくって、千代子ちゃんが走り回る姿にはいつもハラハラとさせられた。

 千代子ちゃんも一緒に舞台に上がってくれたらいいのに──後になってそう思った。そうしたらもう怖いものなんかなくって、お姉ちゃんのような千代子ちゃんに支えられながら、妹のような千代子ちゃんを支えてあげて、千代子ちゃんのまん丸な目を見返しながら、やっと皆んなの前で顔を上げて、大きく瞳を開いて、誰に気兼ねすることなく、自分らしさというものをハキハキと表現できたかもしれない。でもやっぱり上手くはいかなかった。

 戦争中だったから。沢山の人がいなくなったから。その全てが見えていたから。

 夏子はヤナギの木を見上げた。

 ここは皆んなが寄り集まって、やがて消えていく場所。その中心に、墓標のように、ヤナギの木が聳え立っている。いいや、聳え立っているだなんて言い方は大袈裟かもしれない。だってこのヤナギはまだ若くって、夏子と同じくらいほっそりとしていて、簡単に折れてしまいそうで──。曇り空が強い風を運んでくると、こっちがハラハラとさせられるくらい柔らかな枝がビューンとしなって、だから夏子は目が離せなくって、でもヤナギの木は何事もなかったようにまた青空に向かって背筋を伸ばすのだった。

 いつまでそこにいるのだろう──。

 夏子は首を傾げた。

 ヤナギの木には一本の長い糸が結ばれていた。それは夏子にしか見えない赤い糸で、風に吹かれることもなく、枝に絡まることもない。不思議な糸だった。赤い糸の先には青い海が広がっていた。ゆらゆらと糸はただ流れに身を任せている。いったい誰が結んだのだろう──その問いに答える者はいなかった。ただ、夏子が青い海の存在に気が付いたのはその赤い糸のおかげだった。そして赤い糸に手を伸ばし、青い海を覗こうとする時、瞳の色が空色に変わることを知った。それは戦地に向かう兄のために千本針を縫っていた時のことだった。夏子は瞳の色を制御する方法を赤い糸に教わった。

 夏子は膝を震わせた。

 本当は舞台に上がるのが怖かった。でもしょう子ちゃんの目はキラキラと眩しいままだし、千代子ちゃんも柔らかそうな頬をもっと柔らかそうにして、舞台の下で笑っている。顔を上げるのが怖かったけど。声を出すのが怖かったけど。瞳を開くのが怖かったけど。何よりも失敗してしまうことが怖かったけど──だってしょう子ちゃんに迷惑をかけてしまう。千代子ちゃんにガッカリとされてしまう。すごく動揺して、すごく怖くなって、そうして瞳の色がまた変わってしまって、皆んなに気持ち悪いと思われてしまう。すると、しょう子ちゃんにまで嫌われてしまうかもしれない。千代子ちゃんにまで嫌われてしまうかもしれない。とても怖かった。

 だからズルをした。

 夏子はすごく後悔した。



 吉田障子は走った。

 いつかの夜の校舎を、当てもなく、やみくもに走り続けた。

 何処に向かっているのか見当も付かない。或いは同じ場所をぐるぐると回っているだけかもしれない。それでも障子は迷わなかった。母を追う小鳥のように、温もりにしがみ付く子猫のように、右手に伝わる熱に縋った。彼女の小さな背中を見つめ続けた。

 終わらない夜。永遠の静寂。

 常世を駆け抜ける二人の足音が闇を彩る。

 物語の背景。夢の続き。

「……ねぇ、待って!」

 暫くして、障子はよく通る声を上げた。

 走り疲れたというわけではなかった。走り続ける意味を考えたというわけでもなかった。

 ただ前を走る彼女のことが心配になった。

 その小さな体で、黙々と、障子のことを引っ張ってくれる。多くの出来事に、陰惨な言葉に、不穏な場面に、痛みに、苦しみに、悲しみに、ただ苦悩するばかりの障子をギュッと導いてくれる。後ろからそっと、前から堂々と、障子を助けてくれる。不器用な仕草で、下手くそな笑顔で、障子に手を差し伸べてくれる。

「夏子ちゃん、大丈夫?」

 鈴木夏子──山本千代子はコクリと頷いた。彼女の肌はひどく煤けた黒色で、頬はモチモチと柔らかそうで、その目は漆黒の陶器のようで、それでもその目の奥のプロキオンの白光は確かだった。

「その、疲れてない?」

 千代子もまた障子の瞳の奥にプロキオンの白光を見つめていた。いったいどういうわけか、二人の目に煌めく光は同じ色だった。障子の背中にしがみ付く少女の光──山本千代子の瞳には確かにシリウスの青い炎が揺れている。だが、障子の瞳の色は柔らかな白色だった。

 もしかすると彼は彼女ではないのかもしれない──。

 千代子はそう思った。

 取り敢えず障子の頭を撫でてみる。

 彼が誰であるかなど些細な問題なのかもしれない──。

 千代子はコクリとまた頷いた。

 山本千代子と鈴木夏子と田村しょう子は姉妹のように仲が良かった。お伽話のようにふわふわと明るい。永遠に終わらぬ春の夢のようだった。でも、それはあくまでも日常のお話。悲惨な戦争の中で、不条理な現実の片隅で、三人とも様々な葛藤を胸に抱えていた。物語はやっぱり物語でしかなかった。それでも夢を叶えたく、それでも夢を叶えてあげたく、キラキラと眩い太陽に手を伸ばした。そうして気が付けば夜の底にいた。月に照らされた影よりも暗い現実を彷徨っていた。

「ごめんね」

 彼女は怖くなって、また彼の頭を撫でた。やっと彼が赤の他人だと気が付いた。すると巻き込んでしまったことが怖くなって、親友と間違えていたことが恥ずかしくなった。でも親友を背負ってくれたことは嬉しくって、その柔らかな瞳の光に安心した。だからこそ嫌われたくないと思った。

「ごめんね──」

 彼女は謝るという行為にも消極的だった。だってそれは自分の為だから。悪いことをしたのは自分なのに、それでも嫌われたくないと、相手に許すことを強要する。だから、謝ることも怖かった。

「ごめんね、ごめんね」

 思い込みが激しかった。

 人の気配に敏感で、自分の気配に敏感で、誰かの何気ない言動を恐れたように、自分の何気ない言動を恐れて、背中を丸めて、声を静めて、瞳を伏せて、誰とも関わらないように生きていきたかったけれども、そんなことは元より不可能で、すぐに友達が出来てしまった。

「ごめんね……」

 それでも嫌われたくないのは同じで、大好きな人であるぶん気持ちがうんと強くなって、もっともっと慎重になって、ずっとずっと狡猾になって、友達の間に優先順位を付けてしまった──だって千代子ちゃんとの思い出の方が多いから、今度はしょう子ちゃんのために頑張らないと──。

 千代子ちゃんの気持ちに気付いていながら、しょう子ちゃんのために舞台に上がった。

 そしてズルをした。

「ごめんね……私、ごめんね……」

 千代子の瞳からポロポロと涙が溢れ出した。その丸い目から滲み出る純白の光に黒い肌が濡れた。

「わ、私……ズルして……。ほ、ほんとは演技なんか出来ない……。舞台に上がるのも怖い……。だ、だから出来る人を探して……。だって皆んな……皆んな、この学校に集まってくる……。だ、だからヤナギの木の前で、上手な人を待った……。髪の短い、男の人……そ、その人に、手伝ってもらった……。あ、あれは、あの王子様は、私じゃなかった……! ごめんね……! 本当にごめんね……! 私、ズルしてて、本当にごめんなさい……!」

 障子は固まってしまった。

 彼の頭の中は様々な出来事でいっぱいいっぱいだった。

 それも大半が悲惨なもの。未だ夢の中にいるような感覚だったが、不穏な夜を彷徨い続け、人の死に直面して、初恋の人に裏切られて、母親のことが分からなくなって、どんどんと現実が遠のく思いがした。それでも目の前の女の子の涙には動揺した。まだ思春期の少年だった。随分と古臭い身なりで、肌は黒い煙に煤け、まさに物語に出てくるお化けのよう。けれども、やっぱり女の子だった。そう思うと、胸の内に違和感が膨れ上がった。何故なら彼女はずっと昔から友達だった筈。そんな記憶だった。だがこの動揺は、友達の涙に対する同情というよりはむしろ、異性の涙に対する焦りに近い。

 とにかく、とにかく、とにかく、あの人に合わないと、あの子を探さないと──。

 あの記憶はもしかすると自分のものではないのかもしれない──。

 障子はともかく首を振った。今自分がすべきことは目の前で涙を流す女の子を慰めることだろう。そう意思を固め、下手くそな笑みを浮かべ、恐る恐るそっと彼女の頭を撫で返した。

「だ、大丈夫だよ!」

 いったい何が大丈夫なのか。

 障子にも分からない。

 そもそも彼女がなんで泣いているのかさえ分からない。

 ただ、それしか言葉が思い浮かばず、障子は顔を真っ赤にしながら、彼女の頭を撫で続けた。

「大丈夫! うん、絶対に大丈夫! 大丈夫だからね!」

「でも、私、ズルした……。と、友達に、嫌な思い、させた……」

「大丈夫だよ! だって、だって、友達でしょ? だから大丈夫!」

「友達の、ためじゃなかった……。自分の、ため……き、嫌われたく、なかったから……」

「友達だから大丈夫だよ! 絶対に許してくれるから!」

「ゆ、許して欲しい、わけじゃない……! 私……私が、悪いから……許されたいなんて思ってない……! でも……だから……私にはもう、どうしたらいいか、分からない……」

「夏子ちゃん、それは違うよ」

 障子は首を振った。

 プロキオンの白光が強くなった。

「許したいんだよ。夏子ちゃんのこと、早く許してあげたい。だって友達でしょ? 悪いことをしたら謝って、それで許してあげて、そうしたらまた楽しく遊べるよ。また楽しく笑い合えるよ。ね、その方がいいでしょ? だから、ごめんなさいって謝って、いいよって許して、それで全部大丈夫なんだよ。それが友達だから」

「そう、なの……?」

「うん! だって友達だよ!」

 障子はニッコリと笑った。

 すると、千代子がわあっと抱き付いてきた。

 障子は動揺として、手の置き場を失った。今度は異性に対する焦りではなく、友達の涙に対する同情で、友達とは何かと偉そうに語ってしまった自分が恥ずかしくなり、それでも目の前で泣き喚く彼女のことが可哀想で、障子はギュッとその小さな背中を抱きしめて上げた。

「こっちこそ、ごめんなさい」

 障子はそっと頭を下げた。

 額と額がコツンとぶつかる。

「これは……その、ごめんで済むか分からない話だけど……。あ、あの、ほ、本当の本当の本当に、ごめんなさい」

 千代子はそっと顔を上げた。

 瞳と瞳がコツンと重なる。

「そ、その……体、か、体……。な、夏子ちゃんの体、勝手に……」

 喉が震え始めた。

 障子は戸惑った。

 大きく息を吸った。

 だが、震えは止まらなかった。

 謝るという行為はこんなに怖い事なのか──障子はその時なって初めて、目の前で涙を流す彼女の苦悩を思い知った。

「その……あ、あの……か、勝手に、勝手に、夏子ちゃんの体……勝手に、貰っちゃって……。そ、それで……か、勝手に、死んじゃってぇ……」

 涙が溢れ出した。

 また記憶が混乱を始めた。

 あの空襲の時──巫女である夏子と体を入れ替えた千代子は、これでやっとしょう子を独り占め出来ると、学校に夏子を一人残し、しょう子と共に街へ逃げ出した。

 やっと夢が叶うと、焦った。ひどい裏切りを悟られまいと、焦った。ひとしきり喜びを謳歌しようと、焦った。一人残した親友を想って、焦った。一人残した親友を忘れようと、焦った──焦った──焦った──。

 そうしていつの間にか死んでいた。結局、夢は叶わなかった。そんな千代子の死は当然の報いだった。障子はそう思った。でも体を奪われ、学校に取り残された夏子は違う。夏子こそ哀れな被害者である。千代子を背負い、その記憶を持つ彼だからこそ、ずっと千代子と入れ替わったままだった夏子のことを心の底から哀れんだ。そんな彼女に向かって、今さら何を謝れるというのか──怖くなった。怖くなって、声が震えた。怖くなって、涙が止まらなくなった。

「ご、ごめっ……なさ……い……。夏子ちゃん……ごめんっ……なさい……」

「いいよ──」

 すると、今度は彼女が下手くそな笑みを浮かべた。またコツンと額がぶつかった。

「で、で、でも……」

「千代子ちゃんの夢を叶えたかったのは私──私がズルをして、許して欲しくなった。でも謝るのは怖かった。だから千代子ちゃんの夢を叶えてあげようと躍起になった。全部、私が悪い──」

「ち、違うよ! 悪いのはこっちで……」

「だから、ごめんなさいって謝って、いいよって許した。これでまたお友達。仲良しのお友達。すごく嬉しい。ありがとう──」

 千代子はそう言って、ニッコリと笑った。それはとても自然な笑みで、純粋な少女の光だった。

「ねぇ、夏子ちゃん」

「何?」

「ずっと友達だよね」

「うん」

 障子もまたニッコリと笑った。照れ臭さなどない、親友に向ける笑顔。

「いっぱい遊んで、いっぱい笑って、いっぱい泣いたね。ごめんって謝って、いいよって許せたね」

「うん」

「私たち、これまでもこれからもずっと友達だよ──。どれだけ時間が経っても、あの頃の記憶が色褪せることはない。この涙も笑顔も嘘じゃない──」

「うん」

「でも、もう帰らないとね。またねって手を振って、うん、また明日って笑って、今日あったことを思い出しながら、ゆっくりと家に帰るの」

「うん」

「だって私たちは友達だから」

「友達──」

 千代子の瞳にキラリと青い光が宿った。

 それはとても薄い光で、何処までも澄み切った純真で、春の空のようにのびのびとしていて、夏の空のように深くって、秋の空のように透明で、冬の空のように美しい。

「夏子ちゃん」

 空色の瞳がかすかに揺らいだ。寂しいとまた喉が震えた。でも、嬉しかった。だって二人はずっと友達だから。この記憶が色褪せることはないのだから。

「またね」

「うん、また明日」

 瞳と瞳がコツンと重なる。

 青々と澄み切った海が二人の前に広がる。

 二つの光が赤い糸で結ばれる。

 手が繋がり、心が重なり、魂が合わさる。

 そして、離れる。

 赤い糸が解けていく──。




 校庭の片隅でシダレヤナギの長い枝がひっそりと揺れた。

 その小さな葉が一枚、ひらりと夜に散った。

 

 

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