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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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235/255

重ねる

「丁重に弔いなさい」

 園田宗則はそう命じた。

 大正八年──五月に近い春のことだった。麗らかな風に微かな雨の匂いが混じっている。庭の隅で遅咲きの梅が白い花を揺らしている。

 二人の男が慇懃に頭を下げた。黒い袈裟を纏った彼らは地方出身の僧侶である。幼い頃に寺に預けられ、長年奉公に勤しんできた。だが、仏の教えはついぞ信じきれなかった。見えていたからだ。代わりに男たちは宗則の言葉を信じた。二人には霊感があった。

「宗則様、彼らは?」

 黒い袈裟を纏った男の一人が数珠を揺らした。昔からの癖は中々抜けないという。名を清哲と云った。僧侶らしく剃り上げた頭は日光に照り、肌は浅黒い。幾日も食を絶っているかのように頰は痩けている。ただ、首筋には若者らしい艶があり、一重の細目は涼やかだった。

「彼らは人です。我々の敵ではない」

「そのようですが、どうにも……」

「ええ、奇妙ではあります。いったいどこからやってきたのか」

 宗則は拳銃を袖の裏に隠すと、鎖骨の浮き出た首元からネックレスを引っ張った。よく磨かれた銀の十字架である。さらに彼は三本指で十字を切った。 

「いいや、そうか」

 柔和な笑みが消える。その白装束のような羽織りと合わせ、まるで死神のようだった。

「彷徨ってるのは我々──」

「なぁ、おい、園田とやら」

「ん?」

 野洲孝之助はゴクリと喉を動かした。彼の頭は未だ度重なる不可思議の連続により鈍ったままだった。それでも状況は理解しており、シダレヤナギの苗木の側に蹲った血まみれの巫女と、彼女の体をギュッと抱き締める猫っ毛の少年、そんな二人を守るようにして歯を剥き出しにする早瀬竜司から、なんとか意識を逸らそうと苦慮していた。それは勇猛果敢な早瀬竜司が僅かな隙にこの優男に飛び掛かり、そうして彼の持つ拳銃を奪い取れないか、と期待してのことだった。

「貴様は……魔女狩りとやらではなかったのか?」

「何故、そのことを」

「貴様自身がそう言ったのだ。これも何かの縁だ、と」

「ほう」

「それに、その十字の切り方は確か正教会の……。貴様はキリシタンでありながら、何故そのような装いを?」

「ほう、ほう」

 宗則は興味深げに頷くと、口元にまた柔らかな笑みを浮かべ、そうして骨と皮ばかりの右手を前に差し出した。

「よろしい。では、君たちを招待しよう」 

 その動作と声色、表情は如何にも友好的だった。が、孝之助は不穏な気配を感じ、後ろに下がってしまった。

「ハル様ァ!」

 孝之助の鼓動が跳ね上がる。突然、背後で絶叫が響いたのだ。驚いて振り返った孝之助は短い手足を必死に振る坊主頭の幼子の姿を見た。

 今だ──。

 竜司はグッと拳を握った。音もなく地面を蹴ると、宗則の頬を殴りつつ、その左腕を捕らえる。さらに大外刈りの形で足を掛けた。とにかく薙ぎ倒し、マウントを取ろうと。拳銃さえ使わせなければ、見るからにひ弱そうな男である、制圧はわけないだろうと思った。

「んだと……?」

 だが、倒せなかった。竜司は唖然とした。それどころかピクリとも体を動かせない。優雅に羽織りを広げた宗則の身体は鉄のようだった。

「ターミネーターかよ!」

 竜司は慌てて距離をとった。組み合った瞬間に力では勝てないと悟った。不意打ちで目いっぱい殴り付けた顔にも傷一つない。相手の力量を測るのは彼の本能のようなものだった。

「おい! テメェの目的は何なんだ!」

「私が魔女狩りだと知っているでしょう。その言葉通り魔女を狩りに来たのです」

「魔女、魔女と……」

 孝之助は憮然とした表情で「ハル様、ハル様」と泣き喚く幼子から目を逸らした。黒装束の僧侶の一人に取り押さえられた幼子は血まみれの巫女と知り合いのようで、短い手足をバタつかせる様はなんとも悲痛である。普段の彼であれば一も二もなく激怒し、僧侶の頭に鉄拳を振り下ろしていた事だろう。ただ、彼は考えてしまった。この悲惨な現実が本当に過去の出来事であったとするならば、積極的に歴史に関わろうとするのではなく、或いは傍観に徹するのが最善なのではなかろうか。と、孝之助は答えの出ない問いに苦悩した。

「本当にそんなものが存在するとは思えんが……」

「どういう意味ですか?」

「そもそも日本で魔女狩りが行われていたなどという話は聞いたことがない」

「君たちが何処からやってきたのか、先ずはそれを教えてほしい」

「俺たちは未来からやってきた」

 宗則は暫し口を紡ぐと「ふむ」と頷き、また右手を前に伸ばした。

「もしや君たち、神を見たのでは?」

 宗則の痩せた手が孝之助の肩に触れた。それだけだった。それだけで孝之助の思考が止まった。体が全く動かせなくなったのだ。それは全身が地面に沈んだような凄まじい重さだった。

「な……ん……?」

「私とは何処でどのような形で出会った?」

「オラァ!」

 竜司が再び宗則に飛び掛かった。ギラリと鋭い光が春の陽に煌めく。バタフライナイフを右手に捻った竜司はそれを躊躇なく宗則の右腕に振り下ろした。

「死ねや!」

 さらに宗則の顔に頭突きを食らせる。それでも宗則の表情は変わらなかった。

 やはりコイツは人じゃねぇ──竜司はそう思った。ただファッションで持ち歩いてただけのナイフだったが、その殺傷能力の高さは疑いようがなく、鋭い刃先は確実に、宗則の腕の肉を切り裂いていた。

 竜司は「クッ」と顔を歪めると、宗則の羽織りを両手で掴み、膝蹴りを放った。だが、その薄い腹は鉄のように固く、竜司の膝に鈍い痛みが走った。

「もう一度聞こう。君たちは何処からやってきた」

 宗則は何事もなかったかのように微笑むと、竜司の首をそっと掴んだ。途端に息が止まる。そのまま宙に上げられると、もはや為す術はなかった。凶器まで使って、あまりにも情けない負け方である。竜司は悔しさのあまり涙を流した。

「未来とは何処だね?」

「き、貴様が死んだ後の世だ……」

「ほう」

「恐らくは……百年後……」

「しかし君たちはその未来とやらで私と出会っている」

「確かに出会っている……が、それは俺たちの生きる百年後の話ではない。多分に複雑怪奇な話で、俺たちは時間の流れ、つまりは常世を彷徨っている……。その途上、数十年後のこの場所で、俺たちは貴様と出会った」

「ははっ、面白い話だ」

 宗則はそう笑って、幸之助の肩から手を離した。

「しかし、君たちが私を知っていたというのも事実」

 さらに竜司を下ろした。右腕に刺さっていたナイフを抜くと、激しく咳き込む彼にそっと差し渡す。

「未来か。神か。まさか使者であったとは──いやはや大変なご無礼を」

 そう首を垂れた。その手にはいつの間にかまた銀の十字架が握られていた。

「のう」

 血まみれの巫女の目が開いた。

 障子はそっと下を向くと、彼女の小さな手を優しく握り締める。何も出来ない自分を責めながら、それでも弱々しく微笑んで見せた。すると、ギョロリと少女が上を向いた。その瞳の空色はやはり何処までも落ちていきそうなくらいに美しかった。

「これは……賭けじゃ」

「え?」

「暫し待て──」

 蚊の鳴くような声だった。だが、何やら圧力を感じる。その瞳をジッと真上から見つめていた彼は、いつの間にか見上げていたことに違和感を覚える間もなく、突如として腹に走った激痛にうっと顔を歪めた。さらに息苦しさ、全身を走る悪寒、凄まじい吐き気に襲われる。彼女は「うううぅ」と小さな呻き声を上げた。

「お主ら──」

 吉田障子は額に掛かった髪を掻き上げた。血に濡れた指を舐め、よっこらせ、と立ち上がると、泣き叫ぶ幼子を押さえ付ける若い僧侶を見下ろす。その瞳には青々と薄い空色が広がっていた。

「この愚か者が」

 若い僧侶の体が前に崩れた。「ハル様ァ!」と幼子の絶叫が春空に響き渡る。さらにもう一人の僧侶も意識を失った。まさに人が変わった吉田障子の瞳は凄まじい怒気に揺らいでいた。

 宗則は僅かに目を大きくすると、対峙する彼の空色の瞳を見つめ返し、浅く息を吐いた。

「なんと面妖な」

 それは魔女が死に際に見せる魂渡りに似た能力だった。だが、成長した異性の体にまで乗り移れるとは、あまりにも凶悪な力である。宗則は銀の十字架を左手に掲げたまま、血の滴る右手に拳銃を構えた。

「どうなっておる……」

 ただ、唖然とさせられたのは宗則の方だけではない。

 吉田障子もまた口を半開きに、その限りなく透明に薄まった瞳を見開いていた。

「お主、本当に人か?」

 巫女はその瞳で男の精神を覗き込み、誰の心にも潜むはずの黒い影を探した。が、見つからなかった。宗則の精神は雪解けの清流の如く何処までも澄み切っていた。

 宗則の口元にまた柔和な笑みが浮かび上がる。その痩せ細った体をゆらりと前に出す。

 吉田障子は苦しげに目を閉じると、一歩後ろにヨロめきながら、孝之助を振り返った。

「失敗じゃ! この坊主を連れてはよう逃げよ!」

 そう叫ぶと共に障子の体がその場に崩れ落ちる。同時に、浅い呼吸を繰り返していた少女の口からゴボッと血が溢れ出した。

「おい!」

 竜司は慌てて少女の側に駆け寄った。思わずスマホを取り出し、それを耳に当てる。するとコール音が鳴り始める。竜司は驚いた。咄嗟の行動であり、まさか繋がるなどとは夢にも思わなかった。

「救急車を呼べ!」

 開口にそう怒鳴った。するとスピーカーの向こうから抑揚のない男の声が聞こえてきた。

「──無理だ」

 それが"インフェルノ"のリーダーである清水狂介の声だとすぐに分かると、竜司は額に青筋を立て、吐血する少女の手をギュッと握り締めた。

「いいから呼べやッ!」

「──落ち着け」

「こっちは一人撃たれてんだよッ!」

「──こちらも三人死んだ。だが、救急車は呼べない。ここは現実ではない。あの世とこの世の狭間なんだ」

 竜司は口を紡いだ。淡々と三人死んだと語る狂介の口調が妙にリアルだった。よく耳を当てれば、彼の声の向こうから、絶え間ない悲鳴と錯綜する銃声が響いてくる。どうやら誰も彼もが瀬戸際で踏ん張っているようである。竜司は「チッ」と舌打ちすると「死ぬんじゃねーぞ」とスマホの電源を切った。

「逃げよ」

 少女が目を開いた。その空色の瞳に白濁色のモヤが掛かっている。少女がまた「逃げよ」と声を低くすると、竜司は「クソッ」と顔を歪めた。

「おい孝之助!」

「俺は逃げんぞ!」

 孝之助は勇ましい怒声を上げた。バサリと純白の特攻服をはためかせながら、宗則に向かって飛び掛かっていく。

 竜司はチッと舌打ちすると「逃げよ」と呟く少女の頭を撫で、孝之助の後に続いた。

「のう、泰造……」

 巫女は静かな声で、力なく腕を上げ、わんわんと泣き喚く幼子の頭に手を置いた。

「お主もはよう家に帰れ……」

 来栖泰造──後の世界大戦において満州国軍中尉として畏怖される彼は、この時まだ非力な子供であった。

「さて……」

 少女は最後の力を振り絞って体を起こすと、懐から黒いかんざしを取り出し、それを自分の首に向けた。

「ワシも……逃げるとするか……」

 宗則はハッと彼女を振り返った。その言葉──かんざしを柔い首に当てた巫女の行動は自殺を示唆していた。まさかその言葉通りに彼女が逃げられるなどとは思わない。が、あの世の使いであろう巫女の力は未知数であり、宗則は神に使える身として、魔女の思い通りにさせるわけにはいかなかった。

「待ちなさい」

 宗則の足が一歩踏み出される。それまでにない低い声だった。ズンッと大地が沈むような振動に屋敷が震えると、彼にしがみ付いていた孝之助はその衝撃に振り落とされた。竜司もまたバランスを崩したが、猫のように俊敏に体を起こすと、うつ伏せに倒れていた障子の肩を揺すった。

「おい起きろ!」

「へ……?」

「立てっつうんだよ!」

 そう怒鳴り、障子の腕を引っ張った。喧騒の片隅でヤナギの若木が青い葉を揺らしている。

 その時だった。シュンと風を切る音ともに裏庭が薄い影に包まれた。

 宗則は訝しげに眉を顰めた。屋敷を囲うようにして白い布の群が春空を覆っていったのだ。さらに縁側の先から肌の黒い少女が現れると、宗則はサッと銀の十字架を胸の前に掲げた。

「やはりここは神の──」

 喧騒が喧騒を呼ぶ。

 山本千代子はただ過去へ過去へと歩みを進めてきたのみで状況は分かっていなかった。それでも宗則の左手に光る拳銃は目に止まり、ともかく痩せ細った危険人物を捕らえておこうと、千本針の白い束を伸ばした。

「ワシにかまうな……」

 巫女はそう首を振った。再び彼女の元へ駆け寄ってきた障子と竜司に向けられた言葉だった。

「もうじき死ぬ……。運命じゃ……」

「嫌だよ! 死ぬなんて言わないで!」

「よいか……」

「な、なに?」

「ワシはワシの……後の世のため……ヤナギを植えた……」

「ヤナギ?」

「お主も……お主の……やるべき事を……」

 障子の指にチクリと痛みが走った。驚いて視線を下げた彼の目に眩い光が映る。気が付けば少年の手の内で、いつかの薔薇の花が、何ものにも染まらない青い色を放っていた。

「どうなってやがる!」

 竜司は呆然と屋敷を見上げた。裏庭を覆っていく影は千本針の白い布だけではなかった。今や降り積もる雪に辺りは真冬の様相で、さらに日本家屋は真っ赤な大炎に呑み込まれていた。

 やはりここは普通じゃない──。

 竜司は拳を握り締めると、弱々しく俯いたままの障子の肩を引き、その頬をガンッと殴り付けた。

「しっかりしやがれ! 漢だろ!」

 ドッ──と振動が走った。

「君たちはアレだね」

 痩せ細った宗則の足が裏庭を踏み締めていく。その度に屋敷から炎が上がり、庭を埋める白雪が震える。彼の体に巻き付いていた千本針は無惨に千切れ去り、破片となって、炎と雪の影に消えていった。

「どうにも実像とは異なる」

 宗則の視界には赤い影も白い影も入っていなかった。彼はただ微笑み、その柔らかな視線で、黒い少女の瞳を見つめた。

「お……い……」

 と、宗則の肩にダラリと腕が掛かった。

「お……ぬ……し……」

 異様に掠れた男の声だった。それが若い僧侶の腕であると宗則はすぐに気が付いた。

「清哲、どうしました?」

 若い僧侶の瞳は青黒い影に濁っていた。その動きは下手くそな操り人形のようで、糸が何本か切れているかのように動きがぎこちない。その口からドロリと血が溢れ出すと、プツンと糸が切れたように、僧侶の体がその場に崩れた。

 宗則は辺りを見渡した。

 気が付けば屋敷は夜の闇に包まれていた。幼子の姿はなく、異様な風体の青年たちも、優しげな風貌の少年の影もない。雪の積もった裏庭に乾いた少女の遺体が一つ。降り頻る雪も、燃え盛る炎もない。全焼した屋敷が寂しく佇む。静寂の夜。

「魔女は魔女か」

 宗則はふっと白い息を吐いた。

 月明かりに照らされたシダレヤナギの影が一筋。

 祈るように頭を下げた彼はそっと十字を切った。

 

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