深み
「人は──」
春風がそっとシダレヤナギを撫でる。
笹のように幹の細い、乾いた裏庭に植えられた、一本の苗木である。
まばらな青葉の裏には朝の露の残り、風に揺られると、陽光を浴び、キラキラと星のように瞬いた。
「やがて青い海へと沈んでいく」
裏庭の巫女はそう呟いた。その両眼は夏に向かって進む雪解けの清流のように澄み切っていた。
野洲孝之助はぎこちなく腕を組むと「青い海?」と不満げな声を漏らした。彼らしからぬ消え入りそうな声である。魂を入れ替えるという巫女の力──それを目の当たりにした彼は思考を止め、しばし言葉を失っていた。
「それは何かの比喩か?」
「いいや、そのまんまの意じゃ」
「しかし、海に沈むとは……まさか旧約聖書の創世記か?」
「なんじゃそれは?」
「貴方が海に沈むと言ったのだろう!」
「ふむ、ならば常世に落ちる、と言えば分かりやすいか。それがまっこと正しい表現なのかは定かではない。が、いわゆるあの世とは、延々と青い海が広がるだけの何もない世界で、あまりにも深うて底は見えん。沈んでしまえば最期、もうこの世には戻って来れん」
「常世、か……」
「おーい、なに呑気に海の話なんかしてんだ」
早瀬竜司が苛立たしげに足を揺らした。春の晴天はようようとして眩しい。彼は早く夜の影に触れたいと羽をたたんだコウモリのように肩を怒らせていた。
「つーかトコヨって誰だよ? まさかこんな時に夏休みの予定立ててますとかいうんじゃねぇだろーなァ?」
「常世とはあの世のことだ。いいや、正確にはあの世の表現の一つ」
「あの世だぁ?」
「古くは常夜とも表現された。永久に変わらない世界。つまりは永遠の夜だ」
「ああ? それって、あの夜の学校のことじゃねぇか?」
「ああ、俺もそれについて考えていた……」
孝之助は厳格そうに結ばれた唇に手を当てると、空色の瞳を持つ少女を振り返った。
「その青い海の話、もう少し詳しく聞かせて貰いたい。そして出来るなら青い海の入り方も」
「それは簡単じゃ、死ねばよい」
裏庭の巫女はさも当たり前のことのように言った。その瞳に悪意や残忍さは宿っていない。そして当然ながら善意や慈愛も見られない。人の世を生き切った老人のように、巫女の視線は何処か遠くに向けられていた。
「青い海に行く条件が、死、であると……」
孝之助はゴクリと舌を動かした。だが、乾き切った喉を潤すことは出来なかった。
「条件などという話ではない。人は死後、青い海に落ちる」
「絶対に?」
「ああ、抗う術はない」
「で、では、やはり俺たちはすでに死んで……」
「いいや、お主らはまだ生きておる。肉体云々の話ではない、お主らはまだ精神を失っておらんじゃろう。そもそもここが青い海に見えるか?」
「そうか……」
孝之助は取り敢えずホッと胸を撫で下ろした。純白の特攻服ばかりが、春の陽の中、尊大にはためいている。
「青い海とは世界そのものじゃ」
巫女は静かに視線を落とした。小さなシダレヤナギを愛でるように。
猫っ毛の少年──吉田障子もまた、ずいぶんと憔悴し切った様子ではあったが、それでもヤナギの苗木を見守る瞳の光が絶えることはなかった。
「そこは魂の生まれる場所であり、魂の消えゆく場所でもある。いったい卵が先か鳥が先かはワシにも分からんが、魂が肉体に宿る事で、人というものが生まれるというのは確かじゃ。つまり魂と肉体は元々別の存在なんじゃろう。そして死後、肉体を離れた魂はまた青い海に帰り、やがて暗い底へと消えていく」
「それで、その青い海とはいったい何処にあるんだ」
「体の外じゃ」
「はあ?」
「つまるところこの世とは、この広い日の本や、ましてやワシらの住むこの広い星のことではない。ワシら一人一人の体、この器の中こそがこの世なんじゃ。器の外には青い海が広がっておっての……ほれ、この肉の外側はもうあの世じゃ」
巫女は何処か楽しげに、水を弾くような手の甲の薄皮を引っ張ってみせた。その様は無邪気な少女のようであり、また、優しげな老婆のようでもあった。
「じゃから人は肉体を失うと、否応なしに青い海へと放り出される」
「では、あの夜の校舎はいったい何だったのだ……」
「巫女は連綿とその知恵を紡いできた。じゃが、それでもまだまだ分からんことの方が多い。お主の云う夜の校舎とやらもまた不可思議……ん? いいや待て待て……そうか、ここじゃったか! 肉体を失ってなお、魂が溺れずに済んでおる! おお、おお、そうじゃ、な、なんという……あまりにも巨大な……そうか、これは精神じゃったか」
そう驚愕したように見開かれた少女の瞳は、あまりにも青々と深く、美しかった。思わず魅入られた孝之助はそのまま海に落ちていくような錯覚を覚え、ゾッと全身に鳥肌を立てた。
「本当に不思議な話じゃて。いったいなぜこれほどの精神が器の外で壊れずに済んでおるのか、しかも時間にすら囚われておらんとは……」
「つまりこれは未だ解明されていない未知の現象である、と」
「まぁ、そうじゃの。ただ、肉体を失ってなお青い海に溺れずにおったという話はいくつか知っておる。もしかすると、お主らの体験も似たようなもんかもしれん」
「その話とは?」
「ふっふっふ、まったくお主は大変な知りたがりじゃわい。巫女に向いとるぞ」
「はぁ、それはどうも」
「そうじゃのぉ、たとえば……おいそこの坊主」
巫女はそよそよと靡くシダレヤナギを振り返った。そうしてその空色の瞳でまた猫っ毛の少年の瞳を捉える。障子はひっと頬を強張らせると、塩をかけられたナメクジのように体をキュッと小さくした。
「お主──入れ替わっておるじゃろ?」
ドッ、と鼓動が爆発した。うなじの毛がピンッと逆立った。障子は頬を強張らせたまま、首を横に振ることも縦に振ることも出来ず、それでも懸命に、その空色の光にだけは吸い込まれまいと踏ん張った。
「いいや、そうか……これはまた難儀じゃのぉ。お主にしがみ付いとる女が入れ替わっておるのか……。ふぅむ、なんとまぁ、難儀な話じゃ」
「あ、あの……!」
障子は意を決して、大きく息を吸った。よく通る声を春空に伸ばすと、透き通るような巫女の瞳を逆にジィッと覗き込んだ。
「も、元に戻る方法ってありませんか……? 皆んなが、元に……全部全部、全部! 元に戻したいんです! だって、あの子……な、なっちゃん……夏子ちゃんが可哀想だから!」
障子はあらん限りの声を上げた。瞳が涙で滲む。春の陽光に煌めくそれはシリウスの青い光ではなかった。プロキオンの白光が少年の瞳を輝かせていた。
裏庭の巫女は短い腕を組むと、何処か寂しげにため息をついた。
「或いは、戻れるやもしれん」
「ほ、ほんとに!」
「その子はまだ死んでおらん」
そう呟き、憐れむように肩を落とす。
「ワシら巫女の間でな、稀に起こる事がある。それは最も気を付けねばならん、魂が入れ替わった状態での死じゃ。その場合、片方が生き続ける限り、死んだもう片方も青い海に溺れずこの世を彷徨い続ける。本来であれば両方の死により解放されるんじゃが……その入れ替わったであろう女は、お主に取り憑くことで、かろうじて生きながらえておる。つまり、もう片方の夏子という女もまた、この世を彷徨い続けておる可能性がある。いったいどれほどの時間を──。お主、やはりそうとう厄介な問題に巻き込まれておるのぉ」
生き霊が時代を超えて頻繁に現れるという時点で、異常な事態であるということは考えるまでもなかった。その上、魂の入れ替わった巫女が互いの器の死後も解放されることなくこの世に残り続けているという。その二つが一直線で結ばれているであろう事は何となく想像が付いた。が、いったい何故それほど複雑な状況に追い込まれたのか、そこまでは流石の巫女も考えが及ばなかった。
「そうじゃ、あれは確か遠野じゃったか」
巫女は片目を押さえると、もう片方の瞳で、ゆっくりと辺りを見渡した。
「北の地にも似たような話が残っておった。彼の地で入れ替わった巫女が、死後、お主の中におる女と同じように、この世から解放されることなく何百年と彷徨い続けておったという。確か座敷童子などと呼ばれておったが、しかし……」
「ちょ、ちょっと待て……座敷童子だと? それではただの怪談話ではないか! いいや、その前に一つ聞きたい、貴方の他にも巫女がいるのか?」
「この日の本には二十八人の巫女がおる」
「二十八人だと!」
「正確な数は分からんがの」
「それは連絡を取り合っていないからという意味か?」
「いいや違う、ワシらは互いに干渉せん、その土地にはその土地の定めがあっての、さらに巫女の力は特殊であるがゆえ、滅多なことでは顔を合わさん」
「ならばどうして二十八人もいるなどと言えたのだ!」
「この日の本には青い海の深みが二十八ヶ所が存在する。じゃから最低でも二十八人おるじゃろうという予想じゃ」
「青い海の深み? それは何だ?」
「先ほども言ったが、人は死後、青い海へと沈んでいく。つまりより深い場所へと。その深みがこの国に二十八ヶ所あって──まぁ、ここもその一つなんじゃが、ワシらのような青い目を持つ女はこの深みより現れる。巫女とは言ってみれば海の使いのようなものなんじゃ」
「そんな話、噂ですら聞いたことがない……」
孝之助はガシガシと何度も頭を掻いた。頭痛を覚えたのだ。それはもどかしいほどの痛みだった。それでなくとも彼の、決して柔軟とはいえない思考は今や、不可解の数々により崩壊寸前だった。
「死後の青い海だと? その深みが日本に二十八ヶ所存在する? つまりは青い目を持つ女が二十八人……いいや、次の巫女を待てないという貴方の話から推測するにそれ以上か……しかも、それはこの狭い日本の中だけではすまない筈だ! いったいなぜこの現代において、それらが噂にすらなっていないのだ!」
「現代とはお主らの生きる時代か?」
「そうだ! こう言っては失礼かもしれないが、科学技術、啓蒙思想、情報媒体、それら全てが貴方の生きるこの時代の何十倍、いいや何百倍も発展した新時代だ! 死後の青い海などと……巫女という存在が噂にすらなっていないというのは、ハッキリ言ってあり得ないとしか言いようがない!」
「そうか、やはりお主らの生きる時代では、巫女という存在は忘れ去られておるのか」
「巫女という言葉は確かに存在する。だがそれはあくまでも神に使える女という意で、もはや祭式や娯楽以外では使うことはない。神の存在すらも信じられていないのだ。それを……肉体の外があの世だと……? ま、まさか国家レベルで情報統制がなされているのではあるまいな?」
「いいや、もっと簡単な話じゃろう」
「何か知っているのか?」
「きっと、ここと同じ理由じゃよ」
裏庭の巫女はそう言って、疲れ切った老女のように、そっと瞳を閉じた。
「紡げなんだんじゃ」
「紡げなかったとは、何を?」
「巫女の知恵じゃ。力の使い方じゃ。その意味じゃ」
「巫女の知恵……」
「とうとう紡いでやれなんだなぁ」
ふわりと砂塵が舞った。
緩やかな春風だった。
ゆらりと雑草が翳った。
暖かな陽光だった。
ダンッ──と、春が急速に圧縮し弾けたような凄まじい音が、シダレヤナギの枝葉を、その小さな木漏れ日を揺らした。耳を塞ぐ暇もなかった。障子は身構えることすら出来ず、ただ呆然と立ち尽くした。
「おいッ!」
先に動き出したのは竜司だった。猫のように身を翻すと、少女の元に駆け寄る。そこでやっと障子は何が起こったのかを理解した。空色の瞳を閉じた巫女の腹部──少女の体を包む薄紫色の着物の花弁が真っ赤な血に染まっていた。
「これはこれは」
春の日差しが黄金色の光に呑み込まれる。つっと、白い煙が天に立ち昇る。
「貴様は……?」
孝之助もまた無防備に、純白の特攻服を日の本に晒していた。常識を根本から覆すような話の数々に、彼の思考は鈍ってしまっていた。そのため白い羽織りを纏った不審な男と再び相見えようとも、孝之助は身構える素振りすら見せず、のんびりと首を傾げるばかりだった。
「確か園田とかいう……」
「ほう、何処で私の名を?」
園田宗則の口元に柔和な笑みが浮かび上がる。一見すると何処にでもいるような優男である。
「いやはや、まったく、敵わないね」
ただ、痩身の彼の左手に構えられたリバルバーのみ、荒々しい黄金色に揺らめいていた。
「本当に不思議な国だ」




