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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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230/255

裏庭の巫女

 裏庭は乾いていた。

 庭石の朝露と木漏れ日、深緑の苔に覆われた正門前とは打って変わって、むき出しの大地にさんさんと春の陽光が降り注いでいた。まばらに倒れた草花。しうしうと羽を揺らす小鳥。その中心でシダレヤナギの苗木がひっそりと枝を揺らしている。

 吉田障子は首を傾げた。

 いったいこの小さな苗木が、昼休みの最中に彼がひっそりと見上げていたあの大きなヤナギの木に成長する姿など、彼には想像出来なかった。半信半疑に眉を捻ったまま、ちうちうと鳴く小鳥が足元を跳ねても、春風が猫っ毛を撫でても気にしない。ただ花柄の和服を着た少女が真横に立つと、障子は少しだけ肩を強張らせた。

「のう、此奴はおおきゅう育つんじゃろうか」

「ふん」

 返事ともつかぬ乱暴な鼻息である。早瀬竜司はといえば如何にも退屈そうだった。止まない眠気を口元で噛み殺しながらヤナギの苗木を睨み下ろしている。彼の関心は外に残してきた仲間たちの安否であり、さらに夜の校舎を彷徨う者たちの行方だった。あの鈴木英子という世話焼きな女生徒は何をしているのか。あの木崎隆明という得体の知れない男は何を考えているのか。小野寺文久と呼ばれたあの傲慢な王の弱点は何か──。

 それでも竜司は雑草とも見違いかねない苗木から目を逸さなかった。暖かな陽の中、そよそよと青い新芽を揺らすそれを眺めていると、何やら焦燥感が薄れ、心が穏やかになっていく気がしたのだ。

「次の巫女の誕生を待てない、それが心残りだと、貴方は先ほどそう云った」

 野洲孝之助は慇懃な口調で腕を組み、空色の瞳を持つ少女を横目に見つめた。

「それとこのヤナギの木に一体どんな関係が?」

 少女は「ふむ」と口を尖らせると、眉間の皺を伸ばすような仕草で、水を弾くように艶やかな額に人差し指を押し当てた。

「いったい何処まで話して良いやら」

「全てを話して頂きたい。巫女であるという貴方の知る全てを」

「それは無理じゃ。時間は限られておる。お主らは巫女ではない。何よりワシは時への干渉に慎重にならねばならん立場にある」

 空色の瞳がギョロリと見開かれる。

 孝之助はうっと息を呑むと、それでも視線は逸らすまいと姿勢を正し、今度は真正面から少女の瞳を見下ろした。

「ではこのヤナギを植えた理由だけでいい。にわかには信じられない話だと思うが、やがて巨木へと成長するこのヤナギのせいで、我々はこうして生き霊となってここを訪れる結果となった」

「ほぅ? その原因がこのヤナギであったと何故言い切れる」

「言い切ることは出来ない。が、実際にこのヤナギが原因で何代にも渡って生まれ変わっているという男の話を聞いた。あれは安易ならざる男だった。だからこそ俺は知りたい、と、巫女である貴方の知恵と知識と経験に尋ねているんだ」

「のぉ、お主たちは何を見、何を聞き、何を経験してここまで来た?」

「ここが本当に過去であるというのならば、未来から来た我々もまた過去への干渉に対して慎重にならねばならない立場にあるだろう」

「それは──まぁその通りじゃの」

 少女はふぅとため息を吐くと、ひどく遠い目をして、涼しい影を落とす雲でも探すように空を見上げた。

「お主、ワシと同じ目を持つ女を知っておると云っておったじゃろ」

「知っているというほどに知っているわけではない。あれもまた安易ならざる男──いいや、女か? 何にせよ貴方と同じ目を持っていたのは確かだった」

「ふぅむ」

「そういえば一つお聞きしたいのだが、巫女が他人と体を入れ替えることが出来るというのは本当か?」

「ああ、うむ。出来るぞ」

 事もなげにそう頷いた。

 孝之助はしばし言葉を失うも、すぐにキリッと太い眉を目に近付けると、拳を握り締めた。

「それを……どうかこの場で証明しては貰えないだろうか」

 緊張の面持ちで、縋るように、孝之助は唇を結んだ。純白の特攻服には無数の皺が寄っている。いったい巫女という存在が何であるかを知らない彼にとって、ちょっと体を入れ替えてみてくれなどと、ちょっと星を捕まえてみてくれという頼みと同等にあまりにも馬鹿馬鹿しく、途方もない願いのように思えた。だが、懇願せずにはいられなかった。この現実ではあり得ないような状況、経験、そして何より空色の瞳を持つ少女を目の前にして、それらの願いが果たして本当にただ馬鹿馬鹿しいだけのものなのか、彼には分からなくなっていた。分からないのならば確かめるより他ないのである。生真面目な彼はそう考え、揺らぐことない信念のままに、目の前の少女に頭を下げたのだった。

「頼む!」

 少女はひどく億劫そうに首を倒した。そうして何かジッと考え込むようにヤナギの苗木を──そこに薄い影を落とす吉田障子の横顔を見つめると、静かに腕を組んだ。

「お主、年は幾つじゃ」

「俺か? 俺は二十歳だが……」

「ならば小僧、お主は」

「おいおい、おいおいおい、小僧ってそりゃまさか俺のことかぁ? テメェさっきから大人しく聞いてりゃあ随分とませたクソガキじゃねぇか? ああ?」

「彼は十六だ」

「十七だ!」

「ふむ。では坊主、お主は幾つじゃ?」

 少女の青い瞳が障子に向けられる。

 障子はビクリと顔を上げると、まるで今の今まで夢の中にでも居たかのように目をパチクリとさせながら、苦い笑みを浮かべた。

「ええっと……?」

「お主の歳じゃ。十二か。十三か」

「じゅ、十五ですけど……?」

「ううむ、まぁギリギリじゃの」

 そう言って少女はダラリと腕を下ろし、スッと目を細めた。その空色の瞳の先に少年の瞳を見据える。

 ほんの一瞬の出来事だった。障子は蛇に睨まれたカエルのように体を硬直させると、そのまま抗う暇もなく、少女の瞳の奥底に目を奪われてしまった。何処までも広大な青い海が見える。その空色の光の中を渦巻く何かが見える。透明な青を遮る黒い影。透き通るような海の中を彷徨う異物。いったいあの黒い影は何なのか。美しい青を汚す黒い影。その正体は──。

「あっ」

 と声を漏らした。

 黒い影の正体に気が付いたのだ。

「あっ、あっ……」

 それは自分だった。

 彼女は驚いたように空色の光から目を逸らすと、急激に冷え固まった全身を細かく震わせながら、キョロキョロと辺りを見渡した。何ら変わらぬ春の陽気が視界に広がる。ヤナギの苗木から下りる薄い影が目に映る。だが、何やら景色が違う。どうにも体が動かしづらい。いったい何が起こったのか。わけがわからぬままに彼女は顔を上げ、そうしてまた目の前の瞳を見上げた。いいや、見上げるというのはおかしい。何故ならあの空色の瞳を持つ少女は、自分よりもうんと背が低かったのだから──。

「ああ……あああ!」

 彼女は悲鳴を上げた。花柄の袖を振り撒くと、おかっぱ頭を逆立てながら、両手を頬に当てた。目の前に自分が立っていたのだ。猫っ毛の黒髪でおでこを隠した吉田障子が腕を組み、目を細め、その透き通るような空色の瞳でジッと彼女を見下ろしていた。

 また悪夢が蘇った──。

 そんな絶望感に目の前が暗くなる。バランスが崩れる。彼女は彼女の悲鳴を遠くに聞きながら、スッと薄れゆく意識の中で、それでも懸命に立ち続けようともがいた。

「まぁ、こんな感じじゃの」

 吉田障子はそう息を吐くと、唖然として立ちすくむ二人の青年をチラリと横目に、倒れようとする少女の背中に素早く腕を回した。そうしてまた視線を合わせる。瞳と瞳を重ねる。その空色の瞳に黒い影が浮かび上がると、唐突に、少女の悲鳴が止んだ。代わりによく通る少年の悲鳴が青い空に響き渡った。



 銃弾が交差した。

 銃声が錯綜した。

 刹那の時間。混沌の狭間。

 獣どもが睨み合っている。生徒たちが乱れ合っている。少女たちが見つめ合っている。少年が月に微笑んでいる。一人の男が視線を上げている──。

 清水狂介は天井を見上げていた。

 銃声の木霊する、悲鳴の響き渡る、混沌とした、陰鬱で、奇怪な、夜の校舎においてである。

 幾人かの視線は喧騒とはあらぬ方向に向けられていた。彼もまたその一人であり、狂介の視線の先には、木造の校舎とは不釣り合いなスプリンクラーが備え付けられてあった。

 と、突然、闇夜をつんざくようなサイレンが校舎中に響き渡った。戦中のいわゆる空襲警報とは違う。けたたましい音。それは狂介や花子や麗奈たち、戦後七十年を過ぎた日本を生きる者たちにとっては聞き慣れた、火災報知器の警報音であった。

「な、なんじゃあああっ!」

 絶叫が轟いた。

 気の狂った男の声が火災報知器の音と重なった。

 生徒たちを挟んで対峙する西側の二人の男──その一人、脂ぎった巻き髪を後ろで束ねた花巻英樹の声だった。驚愕に体を硬直させた彼の身体が二歩、三歩、後ろに下がる。いいや、慌てふためいたのは彼一人ではない。徳山吾郎を中心に廊下に固まっていた生徒たちもまた鋭い悲鳴と共に両手で頭を庇った。凄まじい勢いで校舎の中に雨が降り始めたのだ。

 いったい何が起こっているのか。

 いったい自分たちはどうなってしまうのか。

 混乱が混乱を呼び、喧騒が大きくなっていく。

 警報音と共に現れた雨足はそれほどまでに強かった。

 それでも雨の中で見つめ合う少女たち、水浸しになりながら月に微笑む少年、一切の油断なく冷たい銃口を向け合う二人の獣、そして清水狂介は平然としていた。

「ああ、このままでは風邪を引いてしまうぞ」

 そんな呟きが雨水の隙間を抜けて吾郎の耳に届いた。

「雨宿りしよう」

 抑揚のない男の声だった。気が付けば目の前に長身の男が立っていた。水に濡れたブラックアンドグレーの髑髏のタトゥーの微笑み。吾郎は呆然として、長身の男を前に、ただ立ちすくむことしか出来なかった。

「こっちだ」

 そう腕を引っ張られる。吾郎はされるがままに、傷だらけの花子を背負い直す間もなく、他の者たちを気にすることも出来ず、放り込まれるようにして空き教室の中に飛び込んだ。途端に訪れる静寂。夜の闇。ザーザーとした雨音が遠くなっていく。背中に感じる燃えるような熱気。隣に揺れる空色の瞳。ようやっとハッとした吾郎は後ろを振り返った。以前として廊下の豪雨は止んでいない。いいや、よく見ればそれは雨などではない。もっと細かな霧状の放水──それが火災用スプリンクラーであるとやっと理解した吾郎は、けれどもいったい何故そんなものが備え付けられているのかと考える余裕はなく、わっと身構えた。

 再び銃声が轟いたのだ。



 来栖泰造は動かなかった。

 たとえ奇怪であろうとも、さらに過酷で悲惨な戦場を渡り歩いてきた彼にとって、雨や嵐など当たり障りない小事でしかなかった。

 ただ、目の前の男──黒光りするリボルバーを構えた荻野新平からは決して目を離さなかった。その歩行、体勢、視線、呼吸、拳銃を構えるまでの動作、周囲に乱されない集中力、子供を前に命のやり取りを厭わない胆力、気迫、鋭い眼光──。そのどれもが彼には覚えのないものだった。それもその筈で、彼らは違う時代を生きてきたのである。

 出会い頭に放った銃弾はお互いの頬を掠めたのみだった。そうして互いの実力を図った二人はそのまま動きを止めた。僅かな動きが命運を左右する。警報音が鳴り響こうとも、スプリンクラーが作動しようとも、そんな中を子供たちが平然と移動しようとも、二人の姿勢は崩れない。いったい何処から現れたのか。いったい何者なのか。それもまた小事だった。純粋なまでの命のやり取りに理由など必要ないのだ。

「避難は完了したぞ」

 間の抜けた声が緊張を濁らせる。

 飄々とした男の声である。

 同時に銃声が轟いた。コンマのズレもない二つの銃声。霧状の雨の中を銃弾が交差する。ただ、そのどちらも、誰の血を浴びることなく闇夜の奥へと消えていった。荻野新平は銃撃の後その背後に控える花巻英樹と相対する為に、来栖泰造は平然と顔を出した清水狂介の急襲に備えるために、互いに銃弾を放ちながら流れるように体を逸らしたのだ。その為、銃弾が当たることはなかった。

「キェエエエエエエエエエエ!」

 男の絶叫が再び夜の校舎に木霊する。

 それを避けるようにして夜を覆っていた雨が上がっていく。

 荻野新平は後悔した。

 やはりあの男は置いてくるべきだった──。

 そう苛立たしげに、仮面のような清水狂介の横顔を視界に捉えながら、新平は目を細めた。

 

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