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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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229/255

猛獣の影


 濃霧のように重い影に足が沈む。

 栗色の校舎を照らす月の光に足が滑る。 

 徳山吾郎はハァハァと息を荒げながら校舎の二階を見上げた。

 階段に手摺りはなかった。段差は急であり、また段数も多く思える。高い天井の丸窓からは柔らかな月明かりが伸びていたが、それに手を触れたが最後、蝋燭の灯火がふっと消え去るように明日への道が途絶えてしまうのではないかと、そんな焦燥感を覚えてしまうほどに夜の校舎は変わらず陰鬱であった。

 彼の背中には息も絶え絶えの睦月花子の姿があった。そんな花子を支えるようにして宮田風花と小田信長が二人の背中を押している。彼らに尽きず離れず歩みを進める長谷部幸平は一人ぶつぶつと何かを呟き続けており、解け掛かった額の白い包帯がひらひらと夜闇に揺れ動いている。踊り場の隅には生徒の落書きが──猫とも狸ともつかぬヘンテコな彫り物だった。

 二階に到達しようとも吾郎は足を止めなかった。ともかくこの狭い校舎の中を逃げ続けねばならない。吾郎は負の思考に囚われそうになる頭を懸命に振りながら足を踏み出していった。

 時折、彼らの耳に声が届いた。それは幼なげな少女のもので、流れるような歌声で、消え入りそうなほどにか細く、飛び回る虫の羽音のように煩わしかった。

 

 ぽん、ぽん、よしうによしうにゆれた。

 あわい花、ゆれた、ゆれた、ゆれた。

 とん、とん、おしうにおしうにかれた。

 あかい糸、かれた、かれた、かれた。

 こん、こん──。


「と……ご……」

「花子くん?」

 吾郎は僅かに首をもたげた。背中におぶっていた花子がモゾモゾと身体を動かし始めたのだ。両腕と共に大量の血を失った彼女は普段より一層小柄で、それでもその体はズッシリと鉄のように重く、脈打つ肌は焼けるように熱かった。

「おろし……なさい……」

「おろすわけなかろう、何を言ってるんだね君は」

「まだ……戦えるっ……つの……!」

「もう戦う必要などないのだ。だから君は大人しく寝ていたまえ」

 コトリと足音がした。

 コップをテーブルに下ろしたような微かな音だった。

 そんな小さな音に心臓が飛び上がる。思わず足を止めそうになった吾郎はゴクリと唾を飲み込むと、何事もなかったかのように、少し早足で廊下を進み始めた。

「ねぇ」

 それは少女のものだった。鳴る鈴のように涼やかな声ある。

「助けに来たんじゃなかったの?」

 吾郎はうっと足を止めると、恐る恐る後ろを振り返った。

「麗奈……さん?」

「私のことは置いて行こうって?」

「まさか! もちろん助けに行くつもりだったさ!」

「つもり?」

「いや……そのだね、ほら僕も八方手を尽くしてはいるんだが……」

「だから?」

 三原麗奈は冷めたような目付きで、その空色の瞳をシンと静まり返った夜闇に佇ませていた。ズシリと重い花子を背負い直した吾郎はそっとズレた黒縁メガネのレンズからそんな彼女の様子を伺った。

「だから、それだけ事態が切迫しているというわけで……」

「それで?」

「つまり、もはや……いいや初めから、僕の手に負えるような状況ではなかったというわけで……」

 吾郎はモゴモゴと口を濁した。曖昧に首を傾げながら、ズレた眼鏡を直す代わりにまた花子を背負い直す。この夜の校舎が恐ろしかった。執拗に襲ってくる住人たちも恐ろしかった。が、やはり彼が最も恐れていたのは目の前の少女だった。冬の夜空のように冷たい視線。風に弾かれる鈴のように澄んだ声。市松人形のように整った表情。その端正な顔立ちの奥に塗られた翳り。

 そんな彼女が恐ろしかった。そして、そんな彼女に憧れた。だからこそ彼は彼女の力になりたかった。だが、こんな状況で、いったい自分に何が出来るだろうか──。吾郎は苦悩に満ちた表情で、歩みを止めてしまった。

「あははっ」

 唐突に仮面が剥がれ落ちる。七色に変化する無情の仮面。その表情が崩れると、なんとも気弱で夢見がちな少女の顔が現れた。それは麗奈が稀に見せる自然な笑顔だった。

「やっぱり君、王子様って器じゃないね」

 吾郎はホッと肩の力を抜いた。この絶望的な状況において、この悲惨な現実において、それでも気弱なお姫様の心はいつになく落ち着いているようである。

 やれやれと微笑んだ吾郎は、血まみれの花子を背負いながら、何とかメガネの位置を直そうとも顔を動かしてみた。だが、黒縁のメガネはズレ落ちていくばかり。すると、ふっと柔らかな風が頬に掛かった。さらに気が付けば、透き通るような空色の瞳が目の前に煌めいていた。

「ねぇ君さ、もうそのダサいメガネ外しちゃおうよ」

 麗奈はそう微笑み、吾郎の耳元に手を伸ばした。よく通る声である。彼女の瞳は淡い栗色に戻っている。

 呆気なくメガネを外された吾郎はしばし狼狽気味に目を瞬いた。最も恐れた少女の瞳が目の前にあった。最も憧れた幼馴染の吐息が重なっていた。いいや、それは彼らにとって別段に特別な距離というわけでもなかった。それでも吾郎は何やら気まずさを覚えてしまい、ウホンと咳払いをした。闇が深かったのだ。だからどうせ何も見えないだろうとたかを括っていた。が、月の仄明かりは変わらず穏やかで、少女の頬は薄桃色に鮮やかだった。

「うん、素材は悪くないぞ」

 にひひ、と笑った。

 いったい何と返してよいものやら。吾郎は曖昧に微笑みを返し、背中の花子を気にするように首を傾げた。

「それはどうも……ありがとう。ただ麗奈さん、今は呑気にこんなことをしている場合では……」

「出たいなら出ればいいのに」

「へぇ?」

「外に出たいんでしょ?」

「で、出たっ……いや、出られるのか?」

 吾郎は愕然として目を見開いた。

「出れるよ」

 麗奈の瞳が空色に揺らぐ。

「もう目的は果たされたし」

 俯きがちとなった彼女の顔が暗くなる。ひどく哀しげに唇が絞られる。必死に涙を堪えているような、今にもその場に蹲ってしまいそうな、そんな彼女は何処にでもいる普通の少女のようだった。

「ならば出っ……いいや、待て待て待て!」

 吾郎は外に向かって走り出しそうになる足を懸命に抑えた。

「まだだ、そうだ、まだ出られない! 新九郎くんと田中くん、そして玲華さんを救わなければ」

「そ……うよ……」

 もぞり、と吾郎の背中で花子が体を動かした。息も絶え絶えの彼女ではあったが、それでも信じられないことに意識ははっきりとしているようで、その右目の瞳には力強い光が燃え上がっていた。

「ま……だ、過去……を、変え……て……ない……つの……!」

 吾郎はゴクリと唾を飲み込んだ。あらためてこの睦月花子という同学年の親友に対して敬服の念を抱いたのだ。いったいこの悲惨な夜において、もはや動くことも叶わぬそのボロボロの身体で、どうして普段と変わらぬ意思を持ち続けられるのか。その雪解けの清流のように澱みない精神はいったい。それは彼女生来の本質なのだろうか。

「過去を変えるなんて無駄」

 そう吐き捨てたのは麗奈だった。途端に夜の空気がひんやりと冷たくなる。

「どれだけ周到に、苛烈に、冷静に、事を進めようとも、変えられるのはほんの上澄みだけ。根本は決して揺るがない」

「どう……いう……意味……?」

 少女たちの視線が重なる。睦月花子の燃えるような視線とは対照的に三原麗奈の視線は凍えるようである。ただ、真逆のように思える二人だったが、その瞳の光は同様に強かった。

「根本的な問題は解決出来ないの。ここは私たちの時代を生きるヤナギの記憶の中だから。上澄みをどれだけかき混ぜようとも底には届かない」

「ヤ……ナギ……なんて……どうでも……いいっつの……。私……が変え……たいの……はその上澄み……よ……」

「吉田真智子を始末した。あの哀れな人をやっと送ってあげられた。だからもう上澄みには触らない。絶対に。このまま何もせず、何も変えず、外に出て、ヤナギの木を燃やして、そうして全てを終わらせる」

「吉田……ママは……今度こ……そ……私が……何とかす……るわ……。だから……」

「何とか出来ないって! 何とか出来ないからそんなボロボロになっちゃったんじゃん!」

 麗奈の空色の瞳からさらに透明な光が溢れ出した。興奮で赤く染まった彼女の頬を光が伝い落ちる。吾郎は思わず目を逸らした。

「それにもう時間がない。だって……だって次のヤナギの霊が生まれる時期だから! そうなる前に私たちの手でヤナギの木を始末しなきゃならない」

「吉田……障子……はどうすんの……よ……? あん……な……可愛らしい子に……犯罪……者の汚名……着せたま……まで……、アンタ……それで……いいの……?」

 カツカツと木板を踏み締めるような足音が響いてきた。

 暗い夜の奥底から。

 複数である。

 二人の少女の話し声は童話を彩る背景のようで、そのぶんその足音は現実の喧騒のように嫌に耳に響いた。

「勝手に……罪……被らさ……れて……。母親……まで……奪われ……て……。はい……そうです……なんて……んなもん、あまりにも……無情……じゃない……!」

 廊下の先は黒い影に沈み何も見えない。だが、重なり合う足音により、こちらに迫る何者かの所在は明らかである。しかもそれは片側からのみではなかった。足音は彼らを挟み込むようにして廊下の両端から響いてきた。

 吾郎は周囲を見渡した。どうにかして逃げ道を確保せねば──そう焦ったように教室の中を睨んだ。恐怖のあまりへたり込みそうになる小田信長の腕を先輩である宮田風花がしっかりと握り締めている。頭に包帯を巻いた長谷部幸平のみが別の世界にでもいるような調子で、窓の向こうの月を見上げたまま、ニタニタと微笑んでいた。

「こ……のまま……逃げよう……なんて……絶対に……許さな……い……わよ……。そ……れこそ……アンタ……もう一回ボッコボコに……シ……バき倒し……て、そんで無理や……りにでも……手伝わせ……てやる……わ……!」

「なら早く立ってよ!」

 足音が止まった。

 廊下の西側である。

 同時に東側の足音も止まった。

 薄暗い校舎に獰猛な影が降りる。吾郎たちを挟んで立つ男たちの影は如何にも荒々しかった。

「ほら殴ってよ! 私を止めてよ! いつもみたいに私の舞台をめちゃくちゃにしてよ!」

 西側の影が動いた。

 ひっそりとして重い。

 詰襟の黒い洋服を着た男たちであった。

 一人は脂ぎった巻き髪を後ろで束ねた肌の垢黒い男である。

 もう一人は官帽を深く被った真面目そうな男である。

 その先頭、満洲国軍元中尉──来栖泰造の右手が上がった。十四年式拳銃の細い銃身が月夜に晒される。抜き身の軍刀が怪しい光を放っている。

 東側の影も動いた。

 揺らぎなく鋭い。

 長身痩躯の男の右腕でブラックアンドグレーの髑髏のタトゥーが微笑んでいる。

 小柄で引き締まった男の右手でスミスアンウェッソンM29の銃口が月の光を返している。

 荻野新平の姿はもはや少年ではなかった。普段通り無精髭を生やした彼の冷たく獰猛な視線。飢えた獣のように荒んだ吐息。

「ねぇ部長さん!」

 少女の声が響いた。

 同時に銃声が交差した。

 同時に銃弾が錯綜した。

 そうして男たちの影が夜の校舎に伸びていった。

「早くして!」

 怒号が行き交う。

 悲鳴が響き渡る。

 それでも傷だらけの二人の少女は、いつまでも静かな夜の底で、互いに見つめ合う力強い視線を掴んで離さなかった。



 木崎隆明は薄暗い校舎を見るともなく視線を漂わせていた。

 教室の夜は穏やかで、コーヒーの白い湯気のみが仄明かりの中を揺らいでいる。そこに先ほどまでのヤンチャな青年たちの視線も、世話焼きな女生徒の声も、人生を憂う少年の心もなかった。

 いったい俺という男の人生は何だったのか──。

 木崎は考えた。

 一人、夜の片隅で、ジッと。

 そんな事を考えたのはこれが初めてだった。

 記憶にある少女だった頃の自分──田村しょう子だった頃の彼は生きることに精一杯で、家族を、親戚を、友達を、身近な人たちを想うのに精一杯で、自分の一生など思ったこともなかった──。

 白いカップを机に置くと、その黒い表面がさらりと震える。

 その芳醇な香りを木崎は味わう。

 松本一郎となった自分──その頃の彼もまたひどい罪悪感と焦燥感、絶望感に駆られるばかりで、ただ一人、生まれ変わりを信じて疑わない鈴木英子という少女を想うばかりで、ついぞ自分の人生などは考えなかった──。

 コツリと小さな音が夜に響く。

 気が付けば人形のように顔の整った女生徒が彼の隣に腰掛けている。

「やぁ」

「やぁ、こんばんは」

「こんばんは、隆明くん」

「コーヒーは如何か?」

「ありがと」

 大野木紗夜は優しげに微笑むと、その白魚のような指の先で、飲みかけの彼のコーヒーをそっと持ち上げた。その身体は今や半透明に消え掛かっていた。

「いい香り」

 窓の向こうは満天の星に煌びやかだった。校舎の中は終わらぬ夜に静かだった。

 木崎隆明となった自分──彼は傍観者を望んだ。現実は複雑で退屈だと、弱者と強者に差がない世界など所詮は夢物語であると、彼は虚無感という諦めの中で、それでも他者の物語から目を離すことは出来ず、やはり自分の人生などは考えようともしなかった。さらに彼は、彼自身が所詮は田村しょう子という少女のコピーでしかないという自己否定から、表に出ることを拒んだ。木崎隆明などという人間はこの世に存在しない。自分が誰であるかなど興味すら沸かない──それでも生まれ変わりを信じる無垢な親友を放ってはおけない。それでも生まれ変わりを欲する傲慢な悪友を放ってはおけない。それでも生まれ変わりを望まぬ次の自分を放ってはおけない──。

「綺麗なお月様だね」

「ああ」

 紗夜の白い肌が月の光に透かされる。半透明な制服の裾をコーヒーが撫でる。さらさらと薄らいだ彼女の髪を冷えた空気がすり抜けていく。

 木崎は窓の向こうに視線を移した。そうして細長い影を揺らすシダレヤナギを探した。

「コーヒーはもういいの?」

「ああ」

「そっか」

「ああ」

「あのね、隆明くん」

「なんだ」

「やっとね、やっと終わったの」

「そうか」

「やっとヤナギの木にお迎えが来たの」

「そうか」

 立ち昇るコーヒーの香り。木崎はそれを見上げた。やはり永遠などは夢物語に過ぎなかった。どんなものにも、どんなことにも、幸福にも、不幸にも、光にも、影にも、やがては終わりが訪れるのである。

 白い影がうねり、薄れる。その先端が夜の彼方へと消えていく。  

 木崎は微笑んだ。そうしてゆったりと立ち上がった。黒い光が夜の闇に呑まれていく。白い少女の影がその後を追った。



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