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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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228/255

巫女の紡ぎ

 戦場とは違う。

 静かな夜の校舎である。

 床、壁、窓は手榴弾によって破壊されている。それ以前から圧倒的な何かによって校舎の一部は瓦礫と化している。

 硝煙。破片。塵。月明かり。血まみれの少女。微かな息遣い──。

 来栖泰造は銃口を下ろした。

 彼の足元には大の字に横たわる少女の姿があった。いいや、大の字という表現は正しくない。隻腕の彼女は全身が黒く焦げ、さらに手榴弾の破片に血みどろで、戦場を転がる屍と大差ない無惨な姿だった。だが、確かな息遣いを感じる。口元の生気は消えていない。傷のない頬の艶、身体の形を保つ骨格、そして死に体の少女の全身から発せられる鬼のような気配──。

 少女の右腕が上がった。

 泰造は引き金に指を当てた。

 その時、教室の暗がりから人影が現れた。勢いよく飛び出してきたわけではない。恐る恐る覗き込んできたわけでもない。夜道を散歩するかのように、手足を緩やかに伸ばしながら、のんびりと現れた。それは亜麻色の髪をした美しい少女だった。ただ、左の頬に醜い焼け跡がある。さらに瞳が空色に薄れている。

 泰造はサッと視線を逸らした。まるでその瞳の意味を理解しているかのように。

 三原麗奈は驚かなかった。ただ彼女は何かを確信したように、左の頬に、そっと右手の薬指を当てた。

 ドンッ、と廊下が揺れる。

 凄まじい振動であった。

 全身が焼け焦げ、血にまみれ、廊下に横たわった少女──睦月花子が月明かりに掲げた右腕を勢いよく振り下ろしたのだ。その衝撃に校舎全体が揺れ動いた。さらに彼女の体がバネのように跳ね上がる。右腕一本で体を起こした花子は軽く首の骨を鳴らすと、もはやどうにもならないであろう身体の状態など気にせず、目の前の男をギロリと睨んだ。

「や……て……くれん……じゃ……ない……!」

 ぬっと花子の右腕が持ち上がる。その姿たるや──。

 泰造は視線を下げたまま軽く首を傾げた。そっと軍刀の柄に手をやる。その瞳に感情は浮かんでいない。亡霊が如き空色の目の少女を前にしようとも、手榴弾を喰らってなお立ち上がる鬼が如き少女を前にしようとも、泰造は一切の動揺を見せなかった。

 軍刀の剣先が怪しく光る。

 花子の右腕が夜闇に散る。

 いったいいつ抜かれたものか。

 白銀の刃が月の斜光に残したものは青白い線のみだった。

 たとえ万全の状態であろうとも、その抜刀術は、花子の反応出来得るものではなかった。残された右腕すらも斬り落とされた花子は静かに舌打ちする。この目の前の男、官帽を被った真面目そうな彼──元満州国軍の中尉だという来栖泰造に対して、花子にはもう打つ手がなかった。それでも彼女は不敵に笑った。せめて一撃くらいは喰らわせてやろう。そう足を前に踏み出した。

 そんな彼女に合わせるように泰造は冷静に足を下げた。そうして燕返しの形で花子の首元に軍刀を下ろした──。

「“動クナ”」

 涼やかな鈴のような声が響いた。

 それは女性の声だった。

 途端に泰造の動きが鈍くなる。

 それでも振り下ろされる軍刀の勢いは止まない。

 ただ、持ち手の技量と力を失った刃は、花子の鋼鉄のような肩の骨を前に、呆気なく弾かれてしまった。

「キェェエエエエエエエッ」

 奇怪な男の絶叫が夜の校舎に響き渡る。

 それまで泰造の背後で静観を決め込んでいた花巻英樹が突如として動かなくなった身体を振り乱そうともがき始めたのだ。その右手には拳銃が、左手には軍刀が、無精髭に覆われた顎は唾液に照り、脂汗の浮かんだ額の下でギョロリと見開かれた目が爛々と光っている。

 そんな彼の目を麗奈の空色の瞳が捉えた。だが、麗奈はすぐに目を伏せてしまった。さらに苦しげに息を乱す。花巻英樹という男はすでに精神が狂っていた。そのため彼の精神を覗いた麗奈の精神が逆に蝕まれる結果となった。いくら才能ある巫女とはいえ、その状態の彼の魂を惑わすのは至難だった。

「“動クナ”」

 また声が響いた。

 発音の不安定な女の声である。

 さらに花子たちの背後の暗がりからほっそりとした影が現れる。淡い紺のスーツを着たブロンドヘアの女性である。彼女の瞳は巫女とはまた違った深く透明な青色に煌めいていた。

「“止マリナサイ”」

 血に濡れたルビーのような唇を動かす。サラ・イェンセンは抜身の刀を月夜に下ろした二人の男を冷たく見据えた。

「だ……れよ……?」

 そんな呟きと共に花子の体が崩れ落ちた。慌てて駆け寄った麗奈はその震える細腕で、もはや正視出来ぬほど傷付いた花子の体を抱き締め、血の気を失った頬を上げた。

「アナタは……確か、小野寺文久と一緒だった魔女……」

 麗奈の瞳がさらに澄み切った空色に薄れていく。その顔は恐怖と、絶望と、哀しみに青ざめている。だが、サラが呟いた次の言葉に麗奈は表情を一変させた。

「文久サマハ死ニマシタ」

 サラは形の良い鼻をツンと上向きのまま視線を下げることもない。ただ発音の拙い声のみを淡々と落とした。

「まさか!」

 麗奈は強い警戒に頬を強張らせた。すぐに空色の視線を夜の校舎全体に広げる。だが、やはり空襲以後の富士峰高校は暗澹たる黒の底で、何も確かめることは出来なかった。それが小野寺文久の仕業であるとしか思えなかった麗奈は、サラの言葉を一切信用せず、冷たく首を振った。

「あり得ない」

「本当デス。文久サマハ死ニマシタ」

「アナタ、ご主人様が死んだってのに随分と冷静ね」

「ドウイウ意味デショウカ?」

「悲しくないのって聞いてるの」

「私ハ魔女デスカラ」

「へぇ」

「文久サマハ所詮人デス」

 事もなげにそう言った。その表情はまさしく優秀な秘書そのものだった。

 麗奈は左の頬に薬指を当てた。硬くなった焼け跡にヌルリと温かな血の感触を覚える。麗奈はハッとして花子を抱く腕に力を込めた。

「で……、どう……すんの……?」

 花子の息遣いはもはや蚊の羽音よりも儚い。

 空色の瞳を涙で潤ませた麗奈はともかくこの場をなんとかしなければならないと、動きの鈍った男たちを横目に見据えた。髪の捩れた男は仁王立ちの状態で苦悶に顔を歪めている。官帽を深く被った男は抜き身の軍刀を片手に彫像のように固まっている。ならば今のうちに意識を奪っておこう。そう考え、麗奈は恐る恐る、いったいどれだけの人を殺めてきたかも分からない兵士の瞳を覗き込んだ──と、銃声が轟いた。髪の捩れた男が発砲したのだ。

 その銃弾が撃ち抜いたのは天井だった。が、なにぶん音が凄まじい。さらに官帽を深く被った男の瞳が真下に動いた。鼓動を跳ね上げた麗奈は咄嗟に花子の体を庇った。

「“動クナ”」

 サラの声が響く。ただ、その拙い発音のせいか、男たちを完全なる支配下に置くことは叶わない。ならば、とサラは胸元から銀色の小型拳銃を抜き出し、容赦なく撃ち放った。髪の捩れた男の額を狙って──だが、それも当たらない。

 さらにニ発、銃弾を放つ。すでに五回の人生を繰り返す魔女のサラは銃の腕に自信があった。それでも当たらなかった。いいや、狙いを外しているというわけではない。どうにも髪の捩れた彼──花巻英樹は銃弾を避けているようだった。

 あり得ない、とサラは思った。だが実際に銃弾は命中しない。

「Damn it」 

 サラは視線を落とした。そうして血塗れの少女と視線を重ねる。彼女たちの手助けこそがサラの使命であった。

「部長!」

「花子さん!」

 二つの影が転がるようにして惨劇に暗い月明かりの下に現れる。長谷部幸平とともに廊下の奥に突き飛ばされていた小田信長と宮田風花が、花子を助けようと駆け寄ってきたのだ。さらに徳山吾郎が壁の崩れた教室の中から姿を現した。

 サラは銀の拳銃を胸元にしまうと「“動カナイデネ”」と二人の男に向かって念を押し、その場を離れようとした。

「待って!」

 麗奈は声を張った。よく通る声である。動けない花子の体は徳山吾郎が支えている。それでも花子を抱き締めていた麗奈は返り血に塗れていた。

「どうしてあんな男に従ってるの? アナタは魔女なんでしょ?」

「文久サマハ死ニマシタ」

「嘘つき」

「ナゼ?」

「もし本当に死んだのであれば、アナタに私たちを助ける理由がない」

「文久サマガ命ジタト?」

「まさか……それこそ絶対にあり得ない! 何か裏があるに決まってる! アレはそういう男だから!」

「文久サマハ死ニマシタ」

 サラは背中を向けた。長いブロンドの髪が月光の校舎に広がる。

「魔女ノ気マグレデス」

「おい、話は後でいいだろう! 早くこの場を離れるぞ!」

 すでに階段の側まで花子の体を運んでいた吾郎はゼェゼェと声を荒げた。麗奈は憎々しげに唇を歪めると、背の高いサラの背中をキッと睨み上げ、そうして薄暗い廊下を振り返った。

 夜の校舎で二人の男が動きを止めている。薄暗がりのそれらは廃屋に忘れ去られたマネキンのようで、いつ動き出すともしれず、不気味だった。



 陽に穏やかな縁側がゆったりと続いていた。

 深緑の苔に覆われた庭は薄い木影の中で、それは陰鬱な夜の影とは異なり、ほんのりと明るかった。そこに富士峰高校の面影はない。

 では、いったいここは何処なのか。

 吉田障子ら三人は途方に暮れ、取り敢えず縁側に腰掛け、チウチウと羽ばたく小鳥たちの囀りを眺めていた。

「もし」

 初夏のそよ風がさらさらと頬を撫でる。赤松の葉がそよそよと庭池に木漏れ日を落としている。

 障子はむにゃむにゃと欠伸をした。大きく伸びをし、温かな縁側に両手を付いた。

「もし──」

 障子はのそりと座敷を振り返った。途端にギョッとして飛び上がる。

 座敷の奥の柱の前に花柄の和服を着た少女が立っていた。鼻立ちの低い少女で、全体的にこぢんまりとした彼女の唇は薄く、涼しげであった。そんな少女の瞳は透き通るような空色に薄まっていた。

「もし、お客さんかね?」

 少女はそっと首を傾げた。ふわりと桃色の着物の袖が揺れる。そこでやっと早瀬竜司と野洲孝之助が「ん?」と振り返った。途端に障子の不安が二人に移る。空色の瞳を持つ少女よりも、僅かなきっかけで暴走しかねない二人の方が厄介に思えた。

 慌てて立ち上がった障子は縁側と座敷を交互に見つめた。だが、粗暴な二人の表情は訝しげではあるものの静かなままであり、また気が付けば少女の瞳も黒々とした夜の色に落ち着いている。もしや見間違いだったのだろうか、と障子は目を擦った。

「こりゃあ珍しい、また生きた霊のお客さんたぁ」

 少女は素っ頓狂な声を上げた。その幼なげな表情に似合わない老人のような口調である。障子たちは思わず顔を見合わせ、一様に首を傾げた。

「誰だ?」

 少女もまた首を傾げている。驚き、丸く開いていた唇を閉じると、まるで障子たちの存在を見極めようとするかのように、目を細めていった。その瞳がまた空色に薄れていくと、障子はひっと小さく悲鳴を上げ、肩を縮こませた。

「不思議なもんじゃ、やはりここは放っとけんのぉ」

「おい君……いや、そのだな、不審者は我々の方なのだろうが……、ともかく君、いったいここは何処なんだ?」

 野洲孝之助は気を取り直したように純白の特攻服の襟を伸ばした。この和風の屋敷とはいかにも不釣り合いな格好である。

「ここはワシの家じゃが」

「ああ、うむ。実に奇妙な話ではあるのだが、俺たちはつい先ほどまで学校という場所を彷徨っていた。だが、気が付けばここに居た。君は、その、我々の突然の訪問にあまり驚いた様子を見せないが、もしやこの奇妙な現象に覚えがあるのではないか?」

「あると言えばあるぞ」

「不躾なのは承知の上だ。何か知っているのであればぜひ教えて欲しい」

 やけに慇懃な態度だった。どうにも孝之助は少女の存在に臆しているようで、ただそれでも純白の特攻服を縁側の陽に翳すように、胸を張っていた。

「そうじゃのぉ、お主らについて知っておることはといえば何もない。じゃが、お主らのような迷い人が以前にも一人ここを訪れておる」

「それはいったい誰だ?」

「長い黒髪のおなごじゃった。ちょうどお主らと同じ年頃のな。ただ、アレもまた生きた霊であったろうに、お主らと違って随分と落ち着いておったわ」

 少女はそう言うと、まるで老婆が立ち上がるように、よっこらせい、と小柄な体を起こした。その幼い顔立ちに似合わない口調と仕草に障子たちはまた顔を見合わせてしまう。

「ここにはのぉ、それはようけ奇妙なもんが集まってくる。土地柄のせいなんじゃろう。かくゆうワシもその奇妙なもんの一人じゃ」

「その奇妙なものとは?」

「魑魅魍魎じゃよ」

 少女の瞳が見開かれる。その落ちていきそうなほど澄み切った空色に、障子は竦みあがり、目を逸せなくなった。

「ワシのこの目、この青い目もまた、魑魅魍魎の類である」

「魑魅魍魎とは、つまり幽霊のことだろうか?」

「そうとも言い切れん。まことに難しい話なんじゃよ。ただ、ワシの目はそんな奴らを見通せる。ワシの師もまたワシと同じ目を持っておった。ワシの師の、そのまた師も──」

「それは巫女の瞳というのであろう。俺も一人、同じような目を持つ少女と出会ったことがある」

「そうか、そうか。やはりお主らは後の時代のものか」

 空色の瞳が木漏れ日の庭に向けられる。少女がのっそりと縁側に向かって歩み出すと、障子は思わず後ろに下がり、そうして縁側から落ちそうになった。

「何やってんだよ」

「ご、ごめん……」

 早瀬竜司に腕を引っ張られ、障子はしゅんと肩を落とした。

 そんな二人の様子を横目に、少女は揺れ動く木々の影に白い手を伸ばした。

「ワシはもうじき死ぬ」

 唐突に、そう言った。

 障子は驚いて顔を上げた。

「死ぬって?」

「この世とのお別れじゃ」

「どうして?」

「どうしてもじゃ」

 少女は幼なげな唇をニコリと横に広げた。それはやはり長い時を生きた老婆のような微笑みだった。

「ワシはそれで構わんと思うておる。じゃが心残りが一つある」

「それは何だ」

 孝之助が厳格な表情で口を挟んだ。

「巫女の知恵を後の者に紡いでやれんことじゃ。ワシはワシの死を嘆かん。が、それでもまだこの体は幼な過ぎる。未だ次の巫女がワシの前に現れておらん」

 少女は深いため息をつき、深緑に覆われた庭を見下ろした。

「じゃからと、ワシはせめてもの思いで、裏の庭にヤナギの苗を添えた」


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