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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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227/255

魔女の響き


 姫宮玲華はゴホッと口を押さえた。

 澱んだ血がヌメヌメと細い手を照り光らせる。燃え落ちた花びらのような赤色である。結局、魔女は声を響かせられなかった。

 銃声が残響となって遠くの闇に消えていく。

 寒々とした静寂のみがいつまでも夜の校舎を漂い続ける。

「大丈夫かァ!」

 岸辺惣太郎は目が飛び出さんばかりの形相で吠えると、水口誠也に向けていた銃口を下ろし、慌てたように玲華の元に駆け寄った。気せずして男の殺戮を止めることに成功したようだ。が、それまでだった。玲華の長い黒髪ごと、そのほっそりとした背中に腕を回した惣太郎は、うっとりと、彼女の口元を濡らす血の光沢を凝視した。そのまま恍惚の表情で十四年式拳銃の細長い銃口を彼女のこめかみに当てる。玲華は目を逸らさなかった。最後のその瞬間まで、魂が器を失うその時まで、確かに今ある彼女という存在、姫宮玲華であった自分を覚えておこうと──。

「いかん、いかん」

 惣太郎は乾いた唇を強張らせた。銃口を上げると、ギュッと目を瞑り「いかん、いかん」と大きく首を振る。そうして玲華の白い頬を殴った。さらに倒れた彼女に馬乗りになると、銃口だけは下げまいと肩を震わせながら、ハァハァと鼻息荒く、何度も何度も、左の拳を彼女の顔面に振り下ろした。

 玲華は意識を朦朧とさせた。それでも半開きとなった目は開き続けた。

「いかんんんンッ!」

 存分に彼女を殴り付けた惣太郎はその長い黒髪を掴み上げる。そうして彼女の口に拳銃の先を入れた。赤い血の混じった唾液がナメクジのように垂れ落ちる。惣太郎は気の抜けたような表情でジッとそれを凝視した。このまま撃ってしまおうか。いいや、それはあまりにも惜しい。だが、我慢ならない。

「うわあああああ!」

 水口誠也が男の背中に飛びかかった。その衝撃に惣太郎は前屈みとなる。だが、重さも硬さもない殺意もない突進に動揺することはなく、惣太郎は片手を床に付くと、体を転がすようにして、背中に飛びかかってきた水口誠也を投げ飛ばした。

「いかん、いかんな、いかんぞ」

 そう呟き、ペシペシと強張った頬を叩き、誠也の顔に銃口を向ける。

 誠也はゴホゴホと咳き込みながら、されど怒りに顔を歪ませ、拳銃を恐れることなくまた惣太郎に飛びかかろうとした。

「いかんな」

 トリガーを引く指に躊躇はなかった。紅い光が走り、細い煙が立ち昇る。だが、当たらなかった。傷だらけの玲華が必死になって惣太郎の腕に飛び付いたのだ。代わりに弾けた窓ガラスが廊下に散った。惣太郎は軽く唸ると、腕を振り上げ、今度は拳銃のグリップを彼女の顔に振り下ろした──。

「“止めろ”」

 声が、響いた。

 惣太郎の体がピタリと凍り付く。すんでの所であった。

 鼻息荒い男の喧騒が静まる。すると夜の校舎はすぐにまた永遠の静寂に呑まれてしまう。

 それは確かに魔女の響きだった。

 だが、それは玲華の声ではなかった。

 そもそもが女性の声ではない。

 血に塗れ、髪を乱し、虚ろな顔をしていた玲華は驚愕に瞳を見開いていった。

 惣太郎の額には大量の脂汗が浮かび上がっている。あと一歩のところでお預けをくらった野良犬の表情である。玲華がのそりと体を起こそうとも、今の惣太郎に彼女を奪う術はなかった。

「ど、どうして……?」

 ゴボッと水口誠也の口から内臓を潰したような新鮮な血が溢れ出した。さらに鼻から、目から、耳から、ヌメヌメと零れ落ちる。

 誠也もまた驚いたようにポタポタと流れる血を眺めた。血はまるで呼吸する生き物のように廊下を這いずり、発光する生命体のように月明かりを自分のものとした。

 ゆっくり顔を上げた誠也は、ホッとしたような笑みを見せると、玲華に向かって首を傾げながら、フッと白目をむいた。玲華は慌てて彼の元ににじり酔った。もはや拳銃を持った惣太郎の姿など視界に入っていない。ただ玲華は呆然と口を開き、困惑に眉を顰め、何か得体の知れないものでも見つめるように青く腫れた目を細め、そっと誠也の額に手を置いた。そうして彼女は夜の校舎を見渡した。惨劇の末、壊れた器のみを残した青年たち。その記憶すらも、やがては霞がかり、青い海の底に消えゆくのだろう。

 玲華は赤い涙を流した。

 


 睦月花子の右腕が校舎の壁を引き剥がしていく。

 その揺るぎない力が陰鬱な夜を破壊していく。

 いいや、単に引き剥がしたなどという表現では追い付かない。校舎全体を真横に動かしたというのが正しい。その表情たるや──焼け焦げた体、額に浮かび上がった青黒い血管、不遜な立ち姿、地を揺るがす声、不敵な視線──死に体の少女などではない。睦月花子はまさに鬼と恐れられるような存在だった。

 手に鍬や、或いは錆びたナイフ、手頃なサイズの石、棒切れ、竹槍、はたまた拳銃を後生大事に両手で握り締めていた男たちは一様に、悲鳴をあげ、転倒し、お経を唱え、絶望に打ち拉がれながら、我先にと外に向かって逃げ出していった。果てしない校舎の闇を走り転げ、いつまた拝めるかも分からない陽の光を求め、仄暗い夜に怯え、ひたすらに廊下を駆け抜けていった。そうして気が付けば朝だった。彼らはオロオロと明るい日差しに目を細めた。カーキ色の国民服を汚した男たちである。キョロキョロと痩せた校庭を見渡し、アワアワと学び舎を訪れる女学生たちに頭を下げ、スゴスゴと高等女学校を後にした。そうして口々に語るのだった。「アレは夢じゃなかった」と。

「地獄の夜じゃった」

「そうじゃ、地獄じゃ、あの世の入り口じゃ」

「しっかしありゃあ、おっどろしい鬼じゃったのぉ……」

「赤鬼じゃろう」

「んだ。隻腕の赤鬼だ」

「なら、おらたちが敵うはずもねぇ」

「あの青い目の女は青鬼か?」

「祟りがねぇといいが……」

「なまんだぶ、なまんだぶ」

「いいや、案外、この国を守ってくださるやもしれん」

「そりゃあいい! 隻腕の赤鬼様様だ!」



 男たちのカーキ色の影が蜘蛛の子を散らすように消えていく。

 花子は構わずズンズンと足を踏み鳴らした。ドアを剥がし、壁を破壊し、月を見上げる。そうしてあらん限りの声を張った。

「新九郎! 憂炎! 姫宮玲華!」

 静寂の夜だった。

 延々と終わりのない校舎だった。

「アンタら一緒に居るんでしょ! 隠れてないでとっとと出てきなさいよ!」

 そんな怒鳴り声も夜闇に呑まれていってしまう。

 花子は構わずドンドンと声を張り続けた。

「こらモブウサギ! アンタならアイツらが何処に居るか分かんでしょ? とっとと探し出しなさい!」

 花子がそう振り返る。

 三原麗奈は静かに首を振った。その瞳は陽に透かしたハチミツのような薄い栗色に落ち着いている。

「おい麗奈ッ!」

「花子くん、待ちたまえよ」

 徳山吾郎の黒縁メガネに影が差した。彼もまたひどく落ち着いた態度である。メガネのブリッジに中指を当てると、花子に向かってゆっくりと首を振った。

「見てはならない。決して、その現場を見てはならないんだ」

「ならどーやってアイツらを探し出せっていうのよ! ここって一秒で世界が変わっちゃうような校舎なんでしょ!」

「とにかく探し回るしかないんだ。想い続けるより他ないんだよ」

 花子は教室の扉を蹴り上げた。文字通り蹴り上がった扉が天井に突き刺さる。

 小田信長と宮田風花はといえば、そんな彼らについて行くのにただただ必死で、口を挟む暇もない様子だった。

「或いはその必要もないのかも知れない」

 長谷部幸平がそう呟く。教室から引っ張り出した椅子の上で優雅に膝を組んでいる。

「彼らは彼らで彼らの進むべき道がある。君たちは君たちで君たちのやるべき事がある。或いはその途上で行動を共にすることもあるだろう。君たちが探そうと探すまいと、それが神の導きであるというのならば、いずれまた再会する時が来るだろう」

 そんな彼を無視して、花子はズンズンと先に進んで行った。だが、一向に声は届かない。一向に声は返ってこない。やがて戦中の校舎を騒がしくさせていた男たちの声すらも消えていくと、途方に暮れた花子はハァと右腕に青筋を浮かべ、したり顔の幸平の首根っこを掴み、放り投げ、彼の愛用の椅子にドシンと腰掛けてしまった。

「この夜が超自然現象だってんなら、あたしゃもー懲り懲りよ」

「超自然現象の研究は地道な作業の繰り返しさ。君はもうその真髄に触れているんだ」

 よいしょ、と教室から別の椅子を引き摺り出した幸平はその上で胡座をかいた。花子はイライラと頭を掻くと、また「新九郎! 憂炎! 姫宮玲華ァ!」と校舎全体を震わすような怒声を張り上げた。

 ちょうどその時、コツリ、と微かな振動が静寂に呑まれゆく花子の声と重なった。コツリ、コツリ、と革靴で木板を踏み締めるようなリズミカルな足音が響いてきた。

 あっと花子は腰を上げた。薄暗がりの廊下の向こうに人影を見たのだ。それは二人の男だった。詰襟の黒い洋服を着ており、冷たい眼差しをしており、腰には軍刀が下げられ、どうにも友好的な者たちには見えない。ただ、そんなことを悠長と観察している暇はなかった。先頭の男が放り投げた拳大の何かに花子は全神経を集中させた。その本能が警戒音を鳴らした。

「ドアホッ!」

 咄嗟にまた幸平の首根っこを掴み、彼を勢いよく真後ろに放り投げる。信長と風花がそんな彼に巻き込まれて廊下を転がった。同時に徳山吾郎を教室の中に蹴り入れる。拳大の何かが夜闇に弧を描きながら迫っていた。ソレが何であるかを考える暇はなかった。幸平の座っていた椅子を蹴り上げ、自身の椅子を顔の前に構えた花子は全身を鋼のように硬直させた。

 月明かりに影が差す。

 ソレと椅子がぶつかる。

 刹那──。

 強烈な閃光が夜を弾き飛ばした。

 凄まじい爆音が静寂を叩き潰した。

 無数の破片が校舎を破壊した。

 そうして花子の体が真後ろに吹っ飛んだ。

 男たちの影が揺れる。

 そこは女学生たちの通う学び舎だった。

 躊躇なく手榴弾を放った来栖泰造はまたコツリ、コツリと靴音を響かせると、右手の拳銃を血まみれで横たわった女の額に向けた。



 吉田障子は黙々と歩みを進めていった。

 昼下がりの校庭でシダレヤナギの若木が青々と茂った枝を揺らしている。廊下に並んだ窓から紺碧の夏空が猫っ毛の少年を見下ろしている。そんな穏やかな午後だった。

「こっちかな」

 時折、障子は薔薇の花を見下ろした。植物観察は彼の趣味の一つだった。だからといってその深く透き通るような花弁に魅入られていたというわけではない。ふわりと視界が歪んでは消え入りそうな夢の世界の中で、先輩から貰った青い薔薇の存在を確かめておきたく、何度も視線を下ろしていたのである。

「こっちかも」

 さらにその深海に沈んだサファイヤのような深藍が彼の頭をスッキリとさせた。そこがかつての富士峰高校であるという話はすでに耳にしており、ならば今歩いているここは職員室の前だろうか、とか、まさに保健室の前の昇降口に差し掛かっているところだろうか、等、理科室の向こうは行き止まりであるはずだが、かつての校舎においてはまだ先に校舎が続いていたのか、などなど、障子は昔と今を照らし合わせながら少しだけこの状況を楽しんでいた。

「お前、やっぱ適当だろ?」

 早瀬竜司が首を傾げる。

 障子は振り返ると「適当だよ」とにこやかな笑みを返した。

 すでに分かり切っていたことではあったが、やはり行けども行けども校舎に終わりは見えなかった。昇降口や扉、窓からは安易に外の景色が見渡せたが、どうにも手は届かず、そもそもその鮮明な青空の下に飛び出そうという気にはならない。云うならば、すでに曖昧な夢の世界からさらに別の夢の世界へと進みゆくようなもので、外に出たが最後、もう二度と現実世界には戻れなくなるのではないかと、そんな恐怖感に苛まれてしまうのだった。つまり彼らは依然として迷子だった。それでも障子は楽観的で、根拠のない自信に満ち溢れ、かつての富士峰高校である高等女学校の校舎を当てもなくグルグルと歩き回る行為を楽しんでいた。階段を上がり、下り、上がり、下り、進んだ先に現れた雪化粧に見入る。桜の舞う校庭に頷き、夏の晴天に背中を伸ばし、秋風に寂しい日暮れに身震いする。

 障子は楽しんでいた。

 そんな彼の後に続く竜司はやれやれといった表情である。野洲孝之助はといえば何やら訝しげに眉を顰めていた。

「どういうことだ」

 孝之助はボソリとそう腕を組んだ。

 二階の校舎から見渡せる山々は紅葉に深まっている。枯れ葉が整然として静まった街を舞っている。全くと言っていいほどに人の気配はない。だが、どうにも長閑な雰囲気である。今にも活気に満ちた町人たちの声が響いてきそうな、そんな様相だった。

「ここは本当に戦中の日本なのか?」

 障子がまた歩き始めた。

 窓の向こうをそよぐ黄土色の葉を追うようにして一階に下りる。見下ろす窓の向こうは白銀の世界。極寒の冬に息が白くなる。それも束の間、訪れた春風に校庭のシダレヤナギがわさわさと小さな体を揺らす。降り頻る夕立。糸のような細い枝を水が垂れる。どうにも幼なげなヤナギの木であった。

「へ?」

 唐突に、障子は素っ頓狂な声を上げた。

 すでに竜司と孝之助は唖然として立ち止まっている。

 廊下の先が無くなったのだ。いいや、廊下自体が無くなったしまった。気が付けば乾き侘びた木造の校舎は彼らの前から跡形もなく姿を消していた。

「おいおい、おいおいおい、どうなってやがる!」

 代わりに彼らの前に現れたのは陽の光に穏やかな漆塗りの縁側だった。

 三人はゆっくりと顔を見合わせた。

 縁側の格天井から降りる斜めの影。畳張りの座敷が仄かな日差しに照らされている。苔に覆われた石組みの庭は濡れたような深緑で、白石の燈籠が青葉の浮かんだ池泉に揺らいでいる。寂然木として植えられたであろう赤松の木漏れ日。アキアカネが時期尚早に飛石の上で羽を休めている。

 三人はそろりと後ろを振り返った。

 広い庭園の先に見える四脚門の荘厳な屋根。敷石はまばらで、簡素で、されど枝葉一つとして転がってはいない。

 いったい、あの陰鬱とした夜の校舎は何処へいったのか。

 彼らはただ廊下を歩いていただけだった。あの寂しい木造の校舎。何処にも迷い込むような隙などなかった。ただ普通に歩き、いつまでも見飽きぬ校舎を見るともなく見続け、そうして気が付けばそこに立っていた。

「ここって……」

 そこは広々と立派な屋敷だった。


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