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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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224/255

薔薇の匂い


 深い海に沈んだサファイヤのようだった。それでも夜の闇に呑まれることなく、薔薇は仄暗い月明かりの下で、何より濃い煌めきを放っていた。

 吉田障子は花の匂いを味わった。木造の校舎の壁に左肩を当て、窓の向こうの夜空を見上げながら、薔薇の花を口元でくるくると回してみる。爽やかな花の香りに頭が冴えた。月に沈まない美しさに心が落ち着いた。いったい薔薇はどうして暗闇に消えてしまわないのだろう。そんなことを考えてみる。障子の心は混ざり合う少女の記憶に乱れ切っていた。

「おい、口に入れんなよ」

 そう肩を掴まれた。乱暴な男の力だった。障子は軽く悲鳴を上げ、慌てて後ろを振り返った。早瀬竜司が呆れ返ったような表情でこちらを見つめている。

「食べんなって言ってんだよ」

「え……?」

「食べもんじゃねーぞ、それ」

「た、食べないよ!」

 カッと頬が茹で蛸のように赤くなる。障子は薔薇の花を下ろすと、ふんと憤慨したようにそっぽを向いた。竜司はなおも疑わしげに目を細めていたが、やがて苦笑すると、ポンポンと掴んでいた肩を叩いた。

「だってお前さ、窓舐めてたじゃん」

「はい?」

「さっきよ、こう舌を出ひてよぉ、窓をペロペロペロペロ舐め回して……終いにゃ甘くないって、お前、ほざいてたじゃねーか!」

 竜司は舌を出したまま腹を抱えて笑い出した。

 初めは訳が分からず戸惑った障子だったが、やがて記憶にない自分の行動が笑われているのだと気が付き、また頬が熱くなった。だが、腹立たしいだとか不快だという気持ちは湧いてこず、そんなことよりも彼の笑い声があまりにも朗らかで、楽しそうで、それが何だか可笑しくて、すぐに釣られて笑ってしまうのだった。

「おい、いつまで笑っているつもりだ! いい加減シャキッとせんか!」

 二人が笑っていると、やがて業を煮やした野洲孝之助が厳格な声を上げた。純白の特攻服がバサリと夜の校舎に旗めく。そんな何でもないはずの事でさえも可笑しく感じてしまう。障子は息も切れ切れになりながら、腹を抱え続けた。

「まったく貴様ら、状況を理解しているのか。先ほどのキザキさんの話もそうだったが、いったいこの夜にどんな化け物が潜んでいるか、分かったものでないのだぞ」

「つったってよ、俺らには関係ねぇ話じゃねぇか」

 ひとしきりに笑って涙を拭くと、竜司はふぅと廊下に胡座をかき、頭を掻いた。

「そもそも、俺たち迷子だぜ? こんな学校の出方すら分かんねぇ体たらくだ」

「ううむ、先ずは皆と合流せねば」

「そういや他の奴らは何処で何してんだ? このクソ陰気で狭ぇ学校の中で新九郎のクソ野郎のクソデケェ体にぶち当たらねぇのが不思議でなんねぇ」

「ああ、ここは俺たちが考えていたよりもずっと奇妙奇天烈な場所らしい。そもそも他の者たちが生きているかどうかすらも定かではない」

 孝之助は明後日の方向に険しい視線を向けながら腕を組んだ。そのまま彼が押し黙ってしまうと、ふぅと気怠げに眉を下ろした竜司は、未だ腹を抱えたままの障子の頭にチョップを入れた。

「いつまで笑ってんだ」

「いててっ……」

「で、これからどうするよ?」

「もう……え?」

「だからどうするって聞いてんだよ、リーダー」

「リ、リーダー……?」

 障子は固まってしまった。その表情が可笑しくて竜司はまた爆笑してしまう。

「なぁ野洲くん、コイツがリーダーで構わねぇよな?」

「別に……この場のリーダーなど誰でも良い」

「ほら、だってよリーダー」

「ぼ、僕……」

「ただ“苦獰天”とは混同させるな! ただでさえ貴様の姿は色々とアレなんだ!」

「僕……む、無理だよ! リーダーなんて絶対無理!」

 障子はまるでこの世の終わりでも見たかのように真っ青となった。竜司の云うリーダーなどとは単なる友達同士の愛称に過ぎないだろう。それでもその言葉の重みに、障子は胸が締め付けられるような重圧を覚えてしまうのだった。それも彼にとっては初めての経験だった。

「行ける行ける。だってお前、王子様なんだろ?」

「ち、違うって! 僕は王子なんかじゃないから!」

 途端に頬の色が変わる。凍り付いた青色から燃えるような赤色へ。どういうわけか、胸に掛かっていた重さまで消えてしまった。代わりに浮かんだメラメラという熱に怒りが湧いた。

「別にいいじゃねぇか、何だってよ」

「よくない!」

 竜司はニッと快活に微笑むと、そんな彼の腕をポンポンと叩いた。

「ならよ、障子ちゃん、どうしてお前が俺たちのリーダーに相応しいか、教えてやろうか?」 

「な、なんで?」

 障子は恐々と首をすくめる。

「だってお前、俺たちよりこの学校のこと詳しいだろ?」

「えっと……それだけ?」

「おお、そんだけだ」

 竜司はそう言って、拳を前に出した。

 障子は思わずその拳に拳を重ねてしまう。

「このお化け屋敷、マジ意味わかんねーし。でもお前なら何か知ってんだろ?」

「その、僕にもよく分かんなくって……。たぶんってゆうか、ここ、富士峰高校じゃないかも……」

「確か夜の校舎であったか。障子くん、君は以前にもここを訪れているのだろう?」

 孝之助は腕を組んだまま、その厳しい眼を障子に下ろした。

「その時はどうやってここを脱出した?」

 障子は彼の目をじっと見返すと、分かりませんと振りそうになった頭の動きを止め、うーんと考え込むように口を紡いだ。膨張する怒りが薄れると、涼しい風に吹かれたように、ほんのりと白い余裕が頬に生まれた。確かにこの学校のことは自分が一番詳しいのだろう。障子はこの数ヶ月の出来事は思い返してみる。だが、浮かび上がってくるのは姫宮玲華の奇行ばかりである。

「うーん……」

 暫くして、障子は諦めたように首を振った。

「その、あんまり覚えてなくって……。すいません……」

「それは、どうやってここを脱出したのかは覚えていないという意味か?」

「えっと……まぁ、はい」

「君はいったい何度ここを訪れた?」

「何度?」

「ああ、聞くところによれば、睦月花子という名の鬼女や、田中くんと呼ばれていた好青年、そして姫宮玲華なる頭の弱い女は、はや三度もここを訪れているらしい。もしや君もそうなのか?」

「い、いえ……」

「覚えている範囲でかまわん。君の知っていることを全て話してくれ」

「ええっと」

 障子は夏の始まりから起こり始めた奇妙な出来事の数々を、しどろもどろになりながら、ポツリポツリと話していった。次第に孝之助の表情が一層険しくなっていく。

 この奇妙な校舎を訪れたのはこれが初めての筈だった。が、よくよく思い返してみると、それが夢であったか否かハッキリとはしないものの、それでも何度か経験したであろう奇妙な夜に覚えがあった。

「やっぱりここ、なんか見覚えがある」

 気が付けば朝の日差しに木造の校舎が照らされている。

 障子は立ち上がると、キョロキョロと辺りを見渡した。

 差し込む陽に焦げた栗色の廊下は凹凸と木目が薄れ、よく擦られた粘土のような光沢を放っている。天井は高く、煤けた電球が垂れ下がっている。そんな黒柿色の天井を支えるように、斜めの支柱が両側の壁から、等間隔に、廊下のずっと奥まで並んでいる。木造の校舎は乾いていた。引き戸の放たれた教室は静かだった。

 それは永久に変わることのない夢のようだった。

 障子は青い薔薇を目の前に掲げた。それは晴天の陽光とも交わることなく燦然とした深い色に落ち着いている。

 この薔薇も、この校舎も、やがては朽ちて、或いは焼けて、そうして消えて無くなってしまうのだろう。なのに何故、永遠の色を感じさせるのか。この陰鬱な影に呑まれない、荒々しい光に交わらない、薔薇の青さはいったい何なのか。

 障子は乾いた木の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、無意識に、肩にかかったおさげ髪を振り払う仕草をした。

「夏子ちゃんに会わないと」

 気が付けば障子の心は良く晴れた戦中の春にあった。

 あの子なら何か答えを知っているかもしれない。

 誰かの声を探すように窓の外を見上げ、誰かの影に微笑むように教室を眺める。そうして走り出した。

 とにかく、とにかく、とにかく──。

 すると突然、品のない男の声が耳元で響いた。乱暴な力で肩を押さえつけられた。

 障子は悲鳴を上げた。わけも分からぬままに、とにかくその男の声から逃れようと、必死になって体を捩り、腕を振り回す。すると、ふっと、爽やかな香りが彼の頬をくすぐった。影に沈んだサファイヤのような濃い青色が目の奥に染み渡った。

「おい、大丈夫かよ?」

 まるで空に浮かんだように体が軽くなった。暗い夢が霧散し、色鮮やかな世界が目の前に広がる。

 障子はまた辺りを見渡した。そうして呆れ顔の竜司と目が合うと、暫しの困惑の後、カッと頬に火を灯した。

「お前、マジで何かに取り憑かれてんじゃねぇの?」

「と、取り憑かれてなんかないよ!」

 障子は慌てて薔薇の花を下げた。薔薇は乱暴に振り回されたにも関わらず、凛とした静寂が保たれていた。

「取り憑かれてなんか……」

 障子はガクリと項垂れ青い花を見下ろすと、口を紡いでしまった。竜司は苛立たしげにため息をつき、孝之助を振り返る。だが、孝之助もまた険しく結ばれた唇に曲げた指を当てながら、一人考え事をしている様子だった。竜司は肩を落とすと、ガリガリと頭を掻き、おもむろに障子の背中を強く叩いた。

「で、どうすんだって聞いてんだよ」

「ど、どうするって……そんなの僕にも分かんないよ!」

「じゃあどうしたい? お前がやりたいことって何だ?」

「やりたいこと……」

 障子はジンジンと痛む背中を摩りながら、うーん、と喉を鳴らした。そうして手元の薔薇をコロコロと回転させてみる。この吸い込まれるような青藍。深海を揺らめくサファイヤ。どうにも彼が持つには不釣り合いで、それでもただ手放すわけにはいかず、であるならば持ち主に返すのが筋だろうと、そんなことを思った。

「取り敢えず、これ、返さないと」

「誰にだ?」

「先輩に。あと……」

「あと?」

「その、探してる人がいるっていうか、なんか気になってる人がいて……。あ! 別にその人のことが好きってわけじゃないけど! ……その、なんか理由は難しくて言えないけど、ずっと探してた人がいるっていうか……。だから僕、その人に会いに行かないと……」

「ああ鬱陶しいな! 何でもいいからソイツに会いに行くぞ!」

 竜司はイライラと語気を強め、もう一度障子の背中をバシンと叩いた。障子はムッとすると共に何やら気恥ずかしさを覚え、ギッと睨んでやるも、それでもその快活な、男らしい竜司の燃える瞳を前に、すぐに怒りの感情も溶けてしまうのだった。

「うん」

 もう一度、薔薇の匂いを頬に感じた。

 そうして、その花弁を流し見た。

 薄い花びらの一枚一枚。裏はあれど内はない。濃い花の中身は空っぽだった。それともその全てが同色に彩られているのか。

 青い光を頭に澄み渡らせる。

 薔薇にはドロドロとした内側がないようだった。血も、骨も、内臓もないようだった。怒りも、悲しも、憎しみもないようだった。愛も、夢も、涙もないようだった。心がないのだ。体がないのだ。だからこの燦々と降り注ぐ陽光に惑わされないのだ。だからあの暗澹と澱んだ夜闇にも呑まれないのだ。

 障子は、それを彼に渡した大野木紗夜の笑顔を思い出しながら、光と影の同化した夢の校舎をゆっくりと歩き出した。



 岸辺惣太郎は少年時代を裕福な家庭で過ごした。

 両親の愛情に恵まれ、学舎での友情に育まれ、幼い恋にうつつを抜かした。されど勉学は怠らない。武道に飽きはしない。皆に平等で、皆に厳しく、皆に優しい。野鳥を脅かすような真似はせず、野花を踏まんで廻ることもせず、野良犬には餌をあげ、羽虫の尊さを慈しんだ。彼は博愛主義者だった。彼は根が真面目だった。岸辺惣太郎は骨の太い男だった。

 陽の沈みかけた校庭に人の気配はない。痩せた大地にへばり付くように雑草が倒れている。橙色に照らされた校舎がいつもより居高にやがて空襲に崩れる街を見下ろしている。

 惣太郎は太い首を捻りながら「うーむ」と唸った。無くした鍵でも探すような仕草だった。詰襟の硬い制服がギシギシと悲鳴を上げている。貧しい時代の男とは思えぬほどに彼は肉付きが良かった。

「おお」

 やっと探し物を見つけた惣太郎はやれやれと額の汗をぬぐった。優しく指の間に挟んだそれをタバコでも吸うように口元に運ぶ。少年の指だった。先日、街外れの闇市を視察した際に手に入れたものである。

 いったいこれは弟のものであったか、兄のものであったか。萎みかかった細い指を飴でもしゃぶるように柔らかくしていく。その感触を存分に味わい、我慢できなくなった彼は痩せた指をゴリゴリと四角い顎で噛み砕いた。あれは貧困に喘ぐ少年と少女だった。その時の情景を思い出すと、下半身が燃えるように熱くなる。首の折れた少年の前で泣き震える少女の汚れたうなじ。彼は情欲を抑え切れなかった。それは野花を潰し、野犬を食い、羽虫を弄ぶ感覚とよく似ていた。いいや、感情という優位性がある分、被虐対象としての人は、その最上位にあるといえる。惣太郎は満足げに腹を撫でると、勃起したイチモツに手を伸ばし──はたと思い止まった。次の獲物は目の前だった。

 夕焼けに沈んだ校舎を見上げる。萎れた草花、蟻を踏むようにして、高等女学校へと足を踏み入れる。

 途端に外の喧騒が消えた。

 不思議な感覚だった。

 唐突に校舎に夜が訪れた。

 いったいどれだけ焦らされるのだろうか。

 惣太郎は、女の、絹糸のように滑らかな長い黒髪を思い浮かべた。その雪原に散った純血が如き赤い唇に涎を垂らした。

 全く、この世のものとは思えないくらい美しい女であった。まことに艶っぽく、妖美で、また可憐で、臈たけた魅力のある、天女のような女であった。あの夜風を舞う粉雪が如き滑らかな黒髪は何であろうか。水の滴る鍾乳石のようにしっとりとした肢体たるや。朝露を弾く花びらのように瑞々しい肌。目鼻立ちのハッキリした表情の麗しさ。

 全てが欲しかった。全てを汚したかった。あの女の前では先日の少年少女も感情の乏しい野犬に等しい。それは恋であった。戦争によって国が変わった。別れが訪れた。飢えを知った。死と出会った。怒りに苛まれた。恐れが付き纏った。仲間を見捨てた。敵を殺した。欲を覚えた。愛を忘れた。そんな彼が名前も知らぬ霞のような女に本気の恋をした。

 夜の校舎の静寂に荒々しい足音が響き渡る。男の欲望が夜の夢を広げる。

 もはや我慢ならなかった。会いたい。汚したい。そう念じた。すると薄暗い校舎の向こう影が現れた。長い黒髪の靡き。赤く煌めく唇。

 あの女である。

 まことに不思議な校舎だった。だが、そんなこと彼にとってはどうでもいい話である。バッと飛び立つ野鳥のようにその場を跳躍すると、ゴミに群がる野良犬のように唾を撒き散らし、光に集まる羽虫のように女の元に駆け寄っていった。

「“去れ”」

 体の自由が奪われる。もはや驚きもしない日常である。ただ、落胆を覚えた。また野花のように行動の自由を奪われてしまうのか。が、すぐに惣太郎は眉を顰めた。僅かながら、体を動かせることに気がついたのだ。いいや、水を吸った布団を背負わされているような不自由さはあったが、足を踏み出すことが出来た。女の声からは以前ような清涼さが感じられない。ひび割れた風鈴のように脆く掠れている。

 惣太郎は下半身の熱を意識しながら、十四式拳銃をのっそりと腰から抜き去った。

 女の側には三人の男たちが居た。貧しい時代を生きる惣太郎から見て、異様に大柄で、顔立ちが濃く、奇妙な格好をした男たちだった。初めはその天狗と見間違うような体躯に怯んだ惣太郎であったが、幾度となく出会すうちに、彼らが痩せた野良猫よりも臆病な木偶の坊であると分かった。

 女と共に三人の男たちが走り出す。その背中に銃口を向ける。

「ああっ!」

 野太い男の悲鳴が上がった。まるで異国の者のように派手な金髪をした大男である。彼の体がドサリと崩れ落ちると、他の者たちも動きを止めた。いいや、四角いメガネをかけた男のみ立ち止まることなく走り去っていく。随分と理知的な男のように思える。ただ、そんな男の行方などはどうでもいい。二発目の銃弾で、金髪の男とは別の長身の男の足を撃ち抜いた惣太郎は、廊下に片膝を付いた長い黒髪の女に向かって厳かに頭を下げた。

「どうもこんばんは、お嬢さん」

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