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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
最終章

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220/255

戦中の校舎

「コーヒーを用意しましてよ!」

 そう勢いよく鈴木英子が教室に飛び込んでくると、彼女の明るい声に、じっとりと重苦しい影がスッと消え去った。幾分か楽になった呼吸に“苦獰天”の総長である野洲孝之助は肩の力を抜く。

「英子さん、ありがとう」

 木崎隆明もまた普段通りに背中を丸めてしまう。その瞳も彼らしい、よくいえば達観した、悪くいえば陰気な影を取り戻している。まるで全てをやり終えたかのような表情である。孝之助は不満を覚えるも、やはりこれ以上は関わるべきでないだろうと、腕を組みそっぽを向いてしまった。

「君は君のしたいことをしなさい」

 一口、コーヒーを味わった木崎は呟いた。その陰気な視線は少年の寂しげな背中に向けられている。吉田障子は無言のまま教室を出て行く最中にあった。

「もし何かあれば俺を頼ってくれ。俺は何も覚えていないだろうが、それでも君の話を必ず信じると保証しよう」

「おいおいテメェ、もう死んでんだろ?」

 早瀬竜司は怪訝そうな顔をした。彼の両手には英子から無理やり渡されたコーヒーカップが握られている。

 木崎はといえばそれ以上は何も言わず、ただ優雅にコーヒーの白い湯気を楽しむばかりであった。チッと舌打ちした竜司はカップをそっと机の上に置くと、今まさに廊下に出ていった障子に向かって声を張った。

「俺も行くぜ」

 彼に同意するように孝之助も頷く。だが、障子は立ち止まらず、陰鬱な影を漂わせたまま教室を離れてしまう。

 竜司はやれやれと頭を掻くと「待てよ」と彼の後についていった。



 一同はギョッと肩を跳ね上げた。

 午後の日差しに照らされた木造の教室である。

 姫宮玲華は背の低い椅子に腰を下ろし、キョトンと目を丸くしていた。

「どんな風に過去を変えるかって話だけど?」

「いやいやいや! いやいやいやいや! 何言ってんだよアンタァ! どうここから脱出するかって話に決まってんだろォ!」

 田中太郎は飛び上がった格好そのままにピンッと人差し指を伸ばした。彼のスクエアメガネは完全にズレ落ちており、高い鼻の頭に辛うじて引っ掛かっている状態にある。

「玲華さん、正気かね?」

 徳山吾郎もまた黒縁メガネをズラしながら、一人ぼやくような調子で、制服の胸ポケットからメガネ拭きを取り出した。頭が弱いうえに情緒不安定な彼女が突拍子もない話を始めるというのはすでに周知の事実であったが、それでも流石に正気を失っていると思わざるを得ない状況だった。

「まさに今の今まで、我々は抗えぬ地獄の業火に焼かれて死にかけていたわけだが……、君はまた同じ過ちを繰り返そうというのかね?」

「えっと、どういう意味……?」

「まさに我々が空襲に死にかけていたのだという話だよ! いいや、行方不明の宮田さん、長谷部くん、小田くん、それに野洲さんはすでに死んでしまっているかもしれない! 君という人はいったいどれほどの過ちを繰り返そうというんだね!」

「どうして? ここはもう戦中の校舎だよ?」

「そ……」

 うっと言葉に詰まった吾郎は無意識に黒縁メガネを押し上げると、疑わしげに辺りを見渡した。いったいどうすれば、ここが戦中の校舎であるなどという戯言を信じられるだろうか。確かに見覚えのない木造の校舎ではあったが、昭和初期という吾郎にとっては遥か昔の校舎にあるような古ぼけた印象はなく、さらには戦中という悲惨な時代にあるべき陰鬱さも見られず、どうにも普通の学校のように思えた。

「いいや、まさかね……」

「それに風花ちゃんたちも生きてるよ? 野洲って人は知らないけど、三人は体育館に集まってるよ?」

 吾郎は口を紡ぐと、戦中だという校舎の中をぐるぐると歩き始めた。その様子を鴨川新九郎が惚けたように眺めている。そんな彼らに代わって、未だピンッと人差し指を伸ばしていた太郎が颯爽と声を張り上げた。

「もう過去には関わらないぞ! ここが戦中の校舎だろうと何だろうと、とにかく俺たちは帰らせてもらう!」

「ここから出られないのに、どうやって?」

「ど、どうやってもだ! いいや、たとえここから出られないとしても、俺たちはもう絶対に動かない!」

「でも動かないとまた空襲が始まっちゃうよ? それに動かないと王子が捕まっちゃうよ?」

「俺たちが死んじまったら元も子もねぇだろ! 吉田くんには申し訳ねぇが、大人しく服役してもらって……」

 太郎はハッと口を大きくした。自身が置かれているであろう状況を思い出したのだ。そういえば富士峰高校に籠城していたあの件、あれはいったいどうなっているのだろうか──。太郎は人差し指をピンッと伸ばしたまま、今まさに進んでいるであろう現状を考え始めた。

「過去を変えるなんて簡単だよ? だって空襲の前に人払いすればいいだけだし、何なら先に学校に火を付けちゃおうよ! 学校自体が無くなっちゃえば空襲で生徒たちが死ぬこともなくなるでしょ?」

 ねぇ、ねぇ、と丸い瞳を煌めかせながら理を詰めてくる。

 そんな玲華に反論してやりたかったが、そんな事よりも太郎は自身までもが捕まり、檻の中で泣き叫ぶ姿を想像してしまい、はぁ、はぁ、と呼吸を荒げていた。籠城自体は睦月花子と清水狂介という男が実行犯であったが、太郎も途中までは彼らと行動を共にしており、さらには籠城中に学校に忍び込んでいたのである。

「学校に火を付けてしまうという案は、なるほど面白い」

「でしょ?」

「だが、あまりにも大きな過去改変はやはりやめておいた方がいいと思う」

 吾郎はそう首を横に振った。戦争中であるという校庭は日差しに明るい。それを興味深げに眺めている。そうして吾郎はふと目を細くした。何やら黒い人影が揺らめいているような気がしたのだ。それは正面にありながら視界の端に映る景色のように曖昧だった。ただ、この奇怪な夜の校舎において、窓の外を動く何かを見たのはこれが初めての事であり、吾郎はそれを不審に思った。

「じゃあ先ずは火の準備からだね!」

 吾郎の話は最後まで聞いていなかったようで、玲華は両手をグーにして立ち上がると、キョロキョロと視線を動かした。ルンルンと肩を弾ませながら、太郎の愛用の木剣であるフラッグ棒を拾い上げ、それをせっせと机に擦り始める。火を起こすつもりなのである。空ろな表情をした新九郎がそんな彼女の頑張りを静かに眺めていた。

「あのさ……玲華ちゃん」

 しばらくして、太郎は何やら言い難そうに、玲華の横顔に視線を送った。玲華は額に汗を浮かべながらフラック用の棒を両手のひらの中で回し続けている。

「その、過去を変えるって話なんだが……」

「オマエラ」

 低い声がした。太郎の左斜め後ろ、一つしかない教室の扉からである。聞き覚えのない声であった。さらに太郎はガチャリという鉄鎖の揺れるような冷たい音を耳にした。

 すぐに顔上げた太郎は先ず、呆然として口を丸くした吾郎の青白い顔を見た。怪訝そうに眉を顰めた太郎は声のした方を振り返り、そうして吾郎と同じように、サッと頬を青ざめさせてしまうのだった。

「何処の者だ」

 一人の男がそう首を傾げている。その後ろで、さらに二人の男が腰に下げた細い刀の柄に手を当てている。黒い学ランのような格好をした男たちだった。ただ、その口元は厳格で、黒い制帽の下に覗く目付きは異様に冷たく、ただ、何処か人形のような無感情な顔をしていた。その手に握られていた銃身の細い拳銃に太郎は呼吸を忘れてしまうほどの恐怖を覚えた。

「答えんかッ」

 先頭の男の一喝に校舎が震える。それでも怒っているという感じはなく、そういった厳格さに慣れ切っているような、厳しく訓練された者の雰囲気が醸し出されていた。後ろにいた二人の男たちも同様であり、ただ、二人の男は僅かに怪訝そうな表情をしている。

「まだ子供ではないか」

「それをオレが問うている」

「おいキサマら、何者だ?」

 太郎は何も答えられぬままに、とにかく状況を整理しようと浅い呼吸を繰り返した。だが、考えがまとまるはずもなく、突き付けられた拳銃の先に目を奪われるばかりである。吾郎や新九郎も同様の有様で、声はおろか、指の一つすらも動かせないでいた。

「その者たちだ!」

 と、今度は別の声が響いてきた。キーキーと甲高い、何処か耳障りな男の声である。学ランのような格好をした男たちを掻き分けるようにして、縁の薄い丸メガネをかけた男が姿を見せる。その顔を見た太郎はあっと口を大きくした。

「その者たちこそがスパイだ! このワタクシの顔を殴ったのだ!」

 如何にも生真面目そうな、頬の痩けた男だった。怒りに顔色を変え、口元には唾を溜めている。何やら嫌悪感を抱かせる表情である。それでもその伸びた背筋には教育者らしき威厳が保たれていた。それも、抑えきれぬ激情に台無しではあったが。

「早く捕えなさい! その者たちは我が国に仇なす非国民っ……」

 白い刀の柄に手を当てた一人の男が怒りに喚く彼の腹を殴った。途端に、ううっと呻いた彼の口から唾が垂れ落ちる。それでも彼はその丸メガネの奥に揺らめく怒りの炎を緩めようとしなかった。

「“動くな”」

 玲華の紅い唇が煌めいた。すると春風に吹かれるようにして喧騒が押し流される。学ラン姿の男たちが動きを止めると、さらに丸メガネの男が腹を押さえた格好で固まってしまった。

「今のうちに逃げて!」

 太郎ははっとして、すぐ側にいた新九郎の腕を引っ張った。さらに窓際に居た吾郎を振り返る。だが、吾郎はといえば彼らよりも素早く動き出しており、すでに玲華の真後ろに付いて、たった一つしかない戦前の教室の扉の前まで進んでいた。

「おい新九郎! 立てって!」

 太郎は慌てたように二人の後を追った。

 扉の前では学ラン姿の男たちが地蔵のように立ち竦んでいる。ほんの僅かな動きも見せない。その視線さえも、空虚な教室に向けられたままである。それでも太郎は、その立派な体躯を極限まで縮込めながら、恐怖に鼓動を高鳴らせ、壁に張り付くようにして、武装した男たちをやり過ごそうとした。

 と、太郎の視線が、先頭で拳銃を構えていた男の瞳とぶつかった。いいや、ぶつかったのではなく、ただ真横から、制帽の真下に佇む黒い瞳を覗いたというのみであった。だが、途端に太郎は呼吸が出来なくなってしまった。あまりの恐怖に、その場に崩れ落ちそうになってしまった。

「田中くん、早く……! 進んで……! 進んで……!」

 新九郎に押し流されるままに教室を後にする。武装した男たちを背後に、吾郎と玲華の背中を追う。

 それは人殺しが日常となった者の瞳であった。

 現代を生きる彼が知るはずもないものだった。

「ど、何処、何処に逃げるんだ?」

 玲華に追い付くと、やっと後ろを振り返った太郎は声を震わせた。

 だが、玲華は何も答えない。無言で階段を駆け上がっていく。

「な、なぁ、ア、アイツらは、兵隊か?」

 今度は吾郎に向かって、そう問い掛けた。

 吾郎は頬から血の気を失わせたまま、それでも冷静に、ゆっくりと首を横に振ってみせた。

「いいや、特攻警察だ」

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