傲慢なる王
吉田真智子は笑った。
くだらないとさえ感じていた永遠の世界が今や恋しくて仕方なかった。
もう血も涙も懲り懲りだった。愛も憎しみも耐えられなかった。穏やかな物語に没頭する子供を見守る乳母でありたい。ひっそりと咲く草花から落ちる影でありたい。そんな静けさだけを願っていた。もう、これで終わりだと、その視線の奥に冷酷な目をした少女を捉えながら、一目散に薄暗い廊下を駆け抜けていった。
ああ、これで元通りの日常を取り戻せる──。
アッシュブラウンの霞みが夜闇に揺らめいている。冷たい光がどんよりと暗い校舎にその存在を示している。
真智子は歩き始めた。目的の少女はもはや目と鼻の先であった。どれほど少女が必死に逃げ続けようとも、同じ時間、同じ空間、同じ夜を共有する真智子の影から逃れるのは不可能と云えた。そう、それが同じ人間であるとするならば──。
視線が上がる。
やはり睦月花子の存在が気掛かりだった。
この夜の校舎において、その魂のみで、正面から真智子と向かい合える存在は彼女くらいのものであった。さらに睦月花子はまさにその追撃から逃れているのである。だからこそ気に掛かると真智子は足を止めた。
「あの子は……」
が、それも杞憂であった。
睦月花子はあらぬ方向を彷徨っていた。それもその筈で、たとえ鋼の精神と肉体を持っていようとも、この夜を見通す瞳や精神は備えていないのである。
ひっと不気味に笑う。真智子は滑るようにして夜の校舎を進むと、その痩せ細った右腕をのそりと前に持ち上げた。アッシュブラウンの髪が眼前に煌めいていた。邪悪な少女の瞳が暗い影に呑まれていた。
「ああっ」
三原麗奈の悲鳴が夜の校舎を木霊した。その細い絹のような髪に痩せた女の指が絡まっていった。
「貴方──」
静かにそう呟いた。そのまま麗奈の髪を手前に引くと、その目をジロリと真上から覗き込んだ。今や麗奈の瞳は澄み切った空色ではなく、陽を浴びた麦のような薄い栗色に輝いていた。
「やっーと捕まえた」
痩せた女の表情が怨念に歪んだ。
空き教室に麗奈を引き摺り込んだ真智子は、軽く視線を横に振り、少女を床に投げ倒した。扉が一人でに閉まり、机と椅子が一斉に壁際に押し流される。そうしてアッシュブラウンの髪をした少女が教室の中心に一人取り残される。
「貴方」
麗奈は床に倒れたまま動かなかった。もう全てを諦めているのか。それともまだ何か考えているのか。
今さら少女の思いなどどうでも良かった。
ただ、真智子は感情のままに、目の前の少女が許せないと、その痩せ細った腕を前に伸ばした。
「もー、いいかしら?」
はたと真智子の動きが止まる。
それは透き通るような麗奈の声だった。だが、その口調に彼女の面影はなかった。
「アンタねぇ、どんだけこの女の事が好きなのよ」
麗奈はのそりと顔を上げると、呆然と動きを止めた真智子に向かって、ひどく気怠げな視線を送った。
「私からは逃げておいて……あー、愛憎相半ばするってやつ?」
ドッと鼓動が跳ね上がるのを感じた。
それは何も目の前の少女の言葉に動揺したからというわけではない。奇妙な違和感の正体を掴んだ気がしたのだ。それは決して見逃すべきでない罠であった。真智子は凍りついたように固まったまま、不貞腐れたように肩を落とした麗奈の顔を凝視した。
「あ、あ、貴方……」
「ま、私としては決着さえ付けられればそれでいいんだけど」
「ま、待ちなさい……」
「何よ? 何か聞きたいことでもあるっての?」
「貴方は……誰?」
「超自然現象研究部部長の睦月花子に決まってんでしょーが」
真智子は言葉を失った。何かを探すように呆然と視線を上げていく。いいや、流石にそれはあり得ない、と──。
そんな女を正面に、麗奈はやれやれと首の骨を鳴らす仕草をした。
そこはまさに別世界だった。
夜を埋め尽くす色──色、色、色。
渓谷の冬。灼熱の地獄。沈みゆく砂漠。年輪の洞窟。春の道。枯れ木の墓。永遠の風──。
それらは全てチョークで表現されたものだった。
夜の校舎は隙間なく一人の男の狂気に描き尽くされていた。
いったいそれは──七十年という長き時間、朝も晩もない、時計の針の動かぬ校舎で、心臓の鼓動を区切りに、コンマ数秒の意識を果てない記憶に刻み、刻み、刻み、休むことなく、途切れることなく、ただ思いを指先に、自分という存在を描き続ける──いったいそれはどれほどの狂気か。七十年間、食事も睡眠も取らず、人としての本能を忘れ、ただひたすらに一つの事柄に没頭出来る人など、この世に存在し得るはずがない。
否、それをやり遂げた男が存在した。
この世界に。
飄々とした態度で。
「俺以上のクソ野郎だぜ」
小野寺文久はそう口元に皺を寄せた。
ベレッタM92F。白銀の銃口を右手に下げている。秋空のように澄み切った青に左目を薄めている。色とりどりのチョークに埋め尽くされた校舎を踏み締めている。その傲慢な王の視線を前に、文久はさも楽しげに、男の狂気に微笑んでいった。
「さぁ小野寺文久──」
抑揚のない男の声が校舎に響き渡った。天井付近に備えられたスピーカーから細やかなチョークの粉が舞い落ちる。
「鬼ごっこを始めようか──」
「野郎……」
「先ずはお前が鬼だ──」
拳銃を握る右手を揺らしてみる。その手の甲には先ほど反射的に振り払った白いチョークの跡が残っている。これが鬼の合図であろうか、と、そんなことを考えてみる。
文久はチラリと視線を動かした。それは至極単純な動作であった。自分が鬼であると云うのならば、と、その対象がいるであろう放送室のある方向に目をやったのみである。そこに蛇のような狡猾さも、虎のような獰猛さも見られなかった。小野寺文久はただただ傲慢な王であった。
視界の隅を影が走った。
それを見逃すことはない。
ドッと文久の鼓動が高鳴った。
本能が彼に警告を与えたのである。
あれは、まさかあの狂気の男、あの男が先ほどスマホを覗いていたあの動作──。
その時になってやっと彼は彼がどれほど無防備な立場にあるのかを理解した。いいや、やっと彼は彼がどれほど弱き存在であるのかを思い出した。
そうか、あれは単に時間を確認するための──。
ヒュッと棒が風を切るような音を耳にした。
動かぬ左腕の先からである。
咄嗟に身体を捻った文久は純銀の銃弾で影を捉えようと、体勢を低く、急所を隠しながら、右手を真後ろに向けた。そうして先ず白銀の銃口が火を吹いた。するとすぐに静止する何かが文久の視界を覆う。素早く風を切る棒などではない。それは悠々と構えられた男の手のひらだった。
清水狂介の打撃はゼロ距離から相手の意識を削いだ。
上体を低く、動かぬ左腕を振った文久の横顔に、そっと手が添えられた。その掌底の威力に文久は意識を失いかけた。
「この世界を創り上げた時点で俺の勝利は確定していた」
廊下には純白のチョークが広がっていた。それはまるで宮殿へと続くレースの道のようであった。
ふらりと片膝を付いた文久は、そんな白い絨毯を赤く染めていくルビー色の水滴に、怪訝そうな顔をした。いったいこの美しさは何だ、と──。呼吸を徐々に乱していく。激痛に表情を変えていく。
「お前の敗因は傲りだ」
そう、淡々とした声が落とされる。
そんな男に描かれた髑髏のタトゥーを見上げる。
そうして文久は純白のチョークを血の色に染めていく自身の脇腹に視線を落とした。
「傲慢なる王よ、最後に言い残す言葉はあるか」
文久はまたフッと口元に皺を寄せた。
「こりゃあエクスカリバーじゃねぇか」
それは竹箒の柄の先を鋭く尖らせただけの簡素な棒だった。言ってみれば竹槍である。それが文久の左の脇腹を貫いていた。
「いいや、十握剣か」
燃えるように熱い血が滴り落ちていった。呼吸を奪うほどの激痛が絶え間なく響いてきた。
それでも文久は笑った。彼はやっと、彼が本当に、心の奥底から、その本能で求め続けてきたものを思い出せた気がした。で、あるのならば、愚か者は自分の方だったか、と──彼は彼自身の滑稽さが可笑しくて堪らなかった。
「おいクソ野郎……」
右手がゆっくりと上に向けられる。
白銀の銃口が狂気の男の額に向けられる。
「テメェが死にやがれ」
文久はそう言うと、冷たい銃口にそっと指を添えた。
彼はそれでも傲慢な王だった。
「あり得ないわ!」
真智子は叫んだ。
壁際に押し流された机にゴオッと火の手が上がる。三原麗奈のアッシュブラウンの髪がふわりと赤い影に流される。
「何がよ?」
麗奈はキョトンと首を傾げた。業火に囲まれた教室で、凄まじい怨念に表情を変えたヤナギの霊を前にして、どこ吹く風な態度である。
「あ、貴方! 貴方がよ!」
「だから何がよ?」
「死ぬのよ! あんな、あんな邪悪な小娘ごときの為に、貴方が死ぬの! そ、そんな……そんなの絶対にあり得ないわ!」
「なーに訳わかんないこと言ってんのかしら」
麗奈はそう肩を落とし、青いジャージを着た足を広げると、よっこらせっと胡座をかいた。その表情に、その仕草に、その口調に、その態度に、あの邪悪な少女の面影はなかった。まるで精神のみを他人と入れ替えてしまったかのような──真智子はゾッと背筋を凍り付かせた。
「たく、私だってこんな体になんか入りたくなかったっつの。でもまぁ、アンタとはいずれ決着を付けておきたかったわけだし、だからしょうがなく入れ替わってやったって話よ」
「あり得ないわ!」
真智子は腕を振ると、薄く尖らせた炎の刃で、麗奈の頬に軽い傷を付けた。一筋の血が少女の頬を流れ落ちる。それでも麗奈はその気怠げな半開きの目を見開こうとしなかった。
「あり得ない。あり得ない。あり得ない。あ、あの女、そう、そう、そう、そうよ、あの小娘、あの邪悪な小娘が、そんな選択をする筈がない。たとえ、あ、貴方……あ、あ、あの凶暴な女、そう、あの凶暴な女が、渋々、渋々、そう渋々、選択しようとも。そう、そうよ、そうよ、あの冷たい目をした小娘が、それを承諾する筈がない!」
「頭大丈夫? その邪悪な小娘がそう選択したから、こうしてその凶暴な女がアンタの目の前にいるんでしょーに」
「それがあり得ないって言ってるの! そ、そんな、そんなの、あ、貴方たち、お互いに何のメリットもないじゃない! だから絶対にあり得ないわ!」
炎の刃が、赤い閃光が、無数に連なり、擦れ、走り、麗奈の身体を傷付けていった。それでも麗奈は表情を変えなかった。
真智子もまたそれ以上深く彼女を傷付けようとはしなかった。それは彼女が三原麗奈本人でないという確信を持てなかったからだ。この小娘が、あの三原麗奈でない筈がない、と──あの邪悪な小娘にはこれより限りない後悔と絶望を与え、終わることのない痛みと苦しみの中で、いったい彼女が誰に何をしたのかを認めさせなければならない──。
真智子は湧き上がって止まない憎しみの感情から、ひと思いに彼女を殺してしまうという行為を躊躇っていた。
「さぁ答えなさい! 貴方は誰! 誰なのよ!」
「だーから私は私だっつってんの。ほんと面倒臭い女ね」
「絶対にあり得ない! だって、だって貴方が死んだら……あの邪悪な小娘は……」
真智子はハッとした。単純な事実に気が付いたのだ。そうであるのならば、やはり入れ替わりはあり得ないと、真智子はイヤらしく口を横に開いていった。
「そうよ。そうよ。やっぱりあり得ないわ」
「はあん?」
「だって貴方が死んだら、その器も同じように亡くなってしまうから。そうよ。だから絶対に入れ替わりはあり得ない。中の器と外の器を繋ぐものは精神だから。それによって魂の抜けた外の器はかろうじて崩壊を免れている。この世界での仮の器が死ねば、そうよ、精神の繋がりが途切れ、外の器もすぐに死んでしまう! 貴方が死ねば、その少女の器も死んでしまうの! それをあの青い瞳の女が知らない筈がない。あの邪悪な女が許すはずがない」
「あのねぇ……」
麗奈は本当に呆れ返ったように左の頬を掻いた。
「そうよ。そうよ。そうよ。そうよ。貴方、そうよ、あり得ないわ。そうよ、ねぇ、そうでしょ?」
「なーんつうか……よく分かんないけど、アンタの云うあの女、ほら、他人と入れ替われるじゃない」
「だから!」
「私と入れ替わる前にアイツ言ってたのよ、別の器があるから大丈夫だとか何とか」
「は……?」
「確かアンタの息子じゃなかったかしら? 吉田障子って男の子」
真智子の頬がサッと蒼ざめた。完全に血の気が失われてしまった。
血管が膨張し、心臓が一瞬動きを止め、呼吸を忘れる。
気が動転したようにアワアワと腕を揺すった真智子は、黒く暗く歪んだ視線を必死に持ち上げると、夜の何処かを彷徨っているであろう睦月花子の影を追い始めた。
「あ、あ、あ……! で、でも……でも、でも、でも、でも……! そ、外には出られない……!」
「出られるっつう話だけど?」
「出られない! ここに外への出口はない!」
「出口っつうか、確かコーヒーだったかしら?」
「コーヒー……?」
「それを飲むと悪い眠りから覚めるらしいのよ」
幾重にも折り重なった記憶が解けていく。
記憶の汚泥の底から誰かの声が浮かび上がってくる。
悪いお化けはコーヒーを嫌うんだ──。
確かそんな、そんな事を言っていた男が、はるか昔に居たような──。
「つまりコーヒーさえ飲めば、いつでもここから出られるってわけ」
真智子の瞳が、その視線の先に、夜を蠢く睦月花子の姿を捉えた。
そこは空き教室のようで、彼女はゴソゴソと何かを探すように右手で棚を漁っていた。
「障子ッ!」
真智子はそう絶叫すると、もはや炎の消えた教室を転げ出るようにして、睦月花子の元へと痩せ細った足を踏み出していった。




