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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章

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209/255

白い垂れ幕


 夜の校舎はゆったりと、されど目で追うことの許されない速度で、天体写真を流れる星の軌跡を眺めるが如く、さまざまと移っていく季節が滑らかな放物線状に、彼らの視界を通り過ぎていった。

 八人の男女が歩いていた。

 乾いた木造の、ギシギシと古びた、広い旧校舎の廊下である。

 八人は戦中の校舎を目指して時間を遡っていた。

 その術を知る者は先頭を歩く姫宮玲華のみである。なお、実際のところ彼女自身でさえも、自分がいったいどうして夜の校舎を支配できる立場にあるのかは分かっていなかった。彼女はただ何となく、それは言ってみれば生活の中で呼吸や歩行を意識しないのと同じように、とにかく古い方へ古い方へと歩みを進めていった。古い方とは、つまり、彼女にとっての古い記憶である。

 玲華はヤナギの霊だった。尤も、その事実を今や当の本人でさえも否定している。ヤナギの霊とはそれほどまでに、まさに夜闇に霞んだ亡霊が如く、曖昧なものであった。

 八人の男女のちょうど真ん中では、おかっぱ頭の小柄な少年が小刻みに肩を震わせていた。超自然現象研究部一年生の小田信長は元来そういったオカルトの類のファンであった。ただ、それはあくまでも第三者としての立場で、体験談や映像等に心弾ませたり、温かな布団の中で本の虫になるのが好きだったというだけであって、確かにそういった現場で主人公として悪霊と立ち向かい謎を解き明かす妄想に関していえば数限りなかったが、実際に巻き込まれた際には心身を衰弱させてしまうほどに彼は臆病な性格であった。いいや、あるいは極端というほどでもないだろう。普通に怖がりな方だと云った程度である。が、何にせよ、そんな彼にとってはもはやこの夜の校舎での歴史巡行は限界に近かった。戦中の校舎など絶対に行きたくないと、だが、こんな夜の校舎での単独行動など不可能であると──。さらには出口も分からないのである。もはや震えを隠そうともせず、最も信頼する先輩である鴨川新九郎の広い背中にピッタリと張り付いたまま、信長はジッと目を瞑っていた。

 ちなみに、そんな彼よりも一つ年上の宮田風花も同様の状態である。信長の真横で新九郎の赤黒い特攻服にガッチリとしがみ付いている。

 人一倍身体の大きな新九郎ではあったが、流石に歩きづらく、ほとんど足の止まった二人を引き摺り続ける行為にはほとほと辟易させられていた。新九郎はチラリと後ろを振り返ると、赤と黒の特攻服をガッチリとホールドし、下を向いたまま全身をガチガチと震わせる二人に向かって、呆れ返ったような声を落とした。

「なぁ服が伸びちまうぜ?」

「ひいぃ! あぅあっ……あっ……! あうぅ……あっ、すいませんでしたっ……! すいませんでしたっあああっ……!」

「きゅ、きゅ、きゅ、きゅッ……! きゅ、急に話しかけないでよッ……! ふ、ふ、ふ、服っ、くらいでっ……そ、そんなもの、いくらでも伸びるものじゃないんでしょうかああッ……!」

 途端に阿鼻叫喚となる。

 もはや失神寸前の二人の背後では、頭に白い包帯を巻いた長谷部幸平が校舎の隅に向かって一人ブツブツと何かを唱えており、さらにその後ろでは、親の仇のように黒縁メガネのレンズを拭き続ける徳山吾郎の姿が──。最後尾では、いったい何処から拾ってきたのか、一メートルはあろう竹尺を田中太郎がブンブンと熱心に振り回していた。

 新九郎はポリポリと頭を掻くと、諦めたように前を向いた。彼のすぐ前を闊歩する野洲孝之助は普段よりも一層厳格な表情で、それでも普段通り颯爽と純白の特攻服を旗めかせている。先頭を歩く姫宮玲華はいつの間にやら機嫌を取り戻していたようで、鼻歌まじりに「しょう子ちゃん、千代ちゃん、なっちゃん」と肩を弾ませていた。

 やたらと長い廊下を歩き続け、そうして旧校舎の古びた理科室の前を過ぎると、シダレヤナギの黒い影が月の光を覆ってしまった。ざわざわと柔らかな枝が薄い影と落ち、校舎のあちこちにその細かな触手を蠢かせている。

「なぁ玲華ちゃん、本当にこんなんで戦前の校舎に辿り着けんのかよ?」

 新九郎は暗い窓の外を見上げた。

「戦中の校舎だってば! 皆んなを助けに行くの!」

「さっきから同じようなとこ歩き廻ってるばっかじゃねぇか」

「いいや、よーく目を凝らせ、鴨川新九郎。確かにこの夜の校舎は変化を続けている。季節の香の移り変わりと共に周囲の様相が一変していくのが手に取るように分かる」

 唐突に、目付きを険しくした野洲孝之助が振り返った。純白の特攻服がバサリと威厳ある音を立てる。

「見てみろこの校舎の腰高窓と欄間を支える長押を! 先ほどまでの渋く燻んだ錆利休とは打って変わって、楊梅の薄い黄褐色に、ヒノキ材特有のほんのりとした淡紅色が浮かび上がっているではないか! どうやら我々は本当に過ぎ去った過去に向かって時間を遡っているようだぞ! これは歴史上類を見ない快挙ではあるまいか! まさに驚天動地! ならば勇往邁進! そして永垂不朽! うっはっは!」

 どうやら興奮しているようである。

「だから言ったじゃん! だから言ったじゃん!」と玲華がほっそりとした腕を振り上げた。その手に向かって「貴様がナンバーワンだ!」と孝之助は小気味よいハイタッチをかました。

 新九郎はため息をつくと、肩に掛かった長い金髪を無造作に払い除けた。どうにも邪魔くさいと、自分の格好に違和感を覚え始める。そうして「部長はいったい何処で何してんだ」と一人呟いてみる。どんな時でも頼りになる睦月花子の自信に満ち溢れた声が恋しかった。新九郎は“火龍炎”の総長である記憶よりも前の、何処か色褪せた映像のような、超自然現象研究部の副部長だった頃の記憶を懐かしく思った。

 旧校舎の廊下は異様に長かった。

 それは彼らの目的地がはるか過去にあった為である。

 それでも少しずつ校舎の端に近付いていく。

 旧校舎の大広間へと繋がる扉がうっすらと見えてくる。

 玲華はふんふんと肩を弾ませながら、おや、と廊下の隅に視線を落とした。小さな影が視界に入ったのだ。気が付けば廊下のあちこちに赤子ほどの大きさの人形が並べられている。人型に縫い合わせた布に綿か何かを詰めただけであろう人形は簡素で、不格好で、ただ、校舎に不釣り合いなそれらは目に付きやすかった。新九郎もまた怪訝そうに廊下の隅を見下ろしている。信長と風花のみが、ずっと目を瞑っていたが為に、人形の存在に気が付かなかった。

 玲華はキョトンと唇を上向きにするも、それ以上は特に気にすることなく、大広間──戦中の講堂へと繋がる引き戸にスッと手を伸ばした──。

「あれっ──」

 宮田風花は驚き、息を詰まらせた。

 突然、体が軽くなったのだ。

 二、三歩ヨロけた彼女は前のめりに立ち止まると、オロオロと手を漂わせた。つい今ほどまでガッチリと掴んでいたはずの特攻服の温もりが消えてしまっている。まるで霧となったかのように。恐る恐る目を開いていった風花は瞼の隙間から染み込んでくる茜色の光にうっと体を硬直させた。それでもゆっくりと震える腕を下ろしていった。

「ここは……?」

 そこは広間のようだった。木目の荒い床に光沢はなく、壁や、それほど高くない天井はざらざらと乾いているようで、全体的に黒く霞んでいる。風花は廃校の体育館を連想した。ただ、空気は爽やかだった。高窓から降りてくる日差しはほんのりと温かく、何処からか小鳥の囀りが聞こえてきそうな程に、古ぼけた広間の雰囲気は穏やかであった。

 背もたれのない椅子が広間の中央に並べられていた。

 さらに簡素な舞台がひっそりと日差しの向こうに佇んでいた。

 腰ほどの高さの舞台に丸みはなかった。巨大な木箱が無造作に置かれているだけのように見えなくもない。実際のところそれが舞台であるかどうかの判断は難しい。ただ、その前に整然と並べられた椅子と、陽光による白い垂れ幕、そして舞台の奥に堂々と掲げられた国旗や校章から、何となく、それが舞台であるような気がしたのみだった。

 風花は気が抜けたように舞台を眺めていた。そうしてしばらくすると、その端の影に、一人の女生徒が腰掛けていることに気が付いた。短い前髪を左右に分け、長い足を前に折り曲げ、静かに首を傾げている。人形かと見間違えてしまうほどにその女生徒は整った顔立ちをしていた。そしてまさに人形であるが如く、ほんの僅かにも体を動かさなかった。ともするとその場にいるはずの彼女の姿を見失ってしまいそうなくらいに、女生徒はその容姿にも関わらず、どうにも影が薄かった。風花は何度も瞬きを繰り返し、ジッと目を細め、彼女が夢や幻でないことを確かめようとした。

「僕らだけのようだね」

「ぎゃあっ!」と風花の体が真上に飛び上がる。それは真後ろから声だった。あわあわと視線を動かしていった風花は、すぐ真隣にいた小田信長と視線が重なると、驚きのあまり呼吸を忘れてしまった。信長も同様に驚いている様子で、静止画のように固まってしまっている。

「こうしてエデンを訪ねられたのは」

 風花と信長は目を丸めたままコクリと頷き合った。意を決すると後ろを振り返る。そうしてそこに居たのが包帯を頭に巻いた長谷部幸平であると分かると、緊張感の喪失から、膝から崩れ落ちそうになった。

「他は囚われてしまったようだ」

 幸平は淡々とした口調で、ゆったりと話を続けた。

「つまりは罠だったわけさ。空襲のあったあの日は人形という檻の中だった。不用意に足を踏み入れれば記憶に囚われてしまう。ただ、あくまでもそれは無理やり組み込まれただけの他人の記憶であって、さらには穴だらけで、それを意識から外すことさえ可能であれば、或いは僕たちのように素通りすることも出来る。まぁこれが神の予定調和であるか否かは議論の尽きないところだけどね」

 全く意味が分からない。

 とりあえずギッと彼を睨み付けた風花は舞台を向き直ると、白い陽の垂れ幕に隠れた女生徒に向かって首を傾げ返した。さらにぎこちなく微笑んでみる。おずおずと片手を上げてみせる。だが、人形のような女生徒は一切の動きを見せず、よくよく見てみれば何やらボーッとした表情で、何時迄もそこに佇んだままであった。

「君もこれを偶然だと思うかい?」

「ぎゃっ!」と再び飛び上がる。包帯を巻いた男の顔がニュッと真横に現れたのだ。

 咄嗟に肘で男の顎を殴った風花は、流れるような動作で裏拳をかますと、追い打ちをかけるように、男の首にハイキックを入れた。ガクリと幸平の体が床に崩れ落ちる。そんな彼に向かって風花は正拳突きの構えを崩さない。残心である。

 体育館の空気が微かに揺れた。

 それまで人形のように佇んでいた女生徒が動きを見せたのだ。

 彼女は何やら慌てた様子で立ち上がると、そのバランスの良いスタイルにも関わらずヨタヨタと転びそうになりながら、床に伸びた幸平の元へと走り寄ってきた。そうして幸平の額に巻かれた包帯に手を重ねる。どうやら彼のことを心配しているようである。やがて幸平の呼吸が落ち着いてくると、女生徒は目を細くしながら、風花の顔をじっと見上げた。特に怒っているようには見えない。どうにも表情を作るのが苦手なようである。ただ、神秘的な迫力が備わっていた。

「夏子ちゃん!」

 甲高い叫びが茜色に明るい体育館に響き渡った。

 舞台の上からである。

 風花は驚いたように丸メガネの縁に指を当てた。

「お、大野木さん……?」

「ごめんね! ごめんね!」

 濃い影が焦げ色に荒れた床を走った。

 大野木紗夜は体を震わせながら、大粒の涙で頬を濡らしながら、それでも力強く女生徒に抱きついた。

 女生徒の目がくるりと丸くなる。うっすらとした空色に瞳が薄らいでいく。

 鈴木夏子は困惑したように首を傾げるも、すぐにそっと紗夜の乱れた髪を撫で始めた。



 赤い──と思った。

 熱い──とは思わなかった。

 それは荒れ狂う炎の海だった。

 目の前に現れた光景に彼らは呆然と立ち尽くしてしまった。

 自分たちまでもが炎の海に呑まれてしまっているという現実には、なかなか気付かなかった。

「千代ちゃん……?」

 姫宮玲華はそっと首を傾げた。

 長い黒髪が炎の波に舞い上がる。

 激しい轟音とうねりに世界が巻き上がり潰れ弾け散る。

 そんな赤い海を必死に泳ぎ続ける黒い何かがあった。玲華は何となくそれが山本千代子であろうと判断した。ただ、千代子にしては背が高く、痩せ過ぎているような気もする。そんな何かが炎の中をズルズルと這いずり回る姿は異様に不気味であった。どうにも夢の中にいるような感覚が抜け切らない。玲華はいつまでも炎の中を立ち尽くすばかりだった。

「おい」

 低い声を耳にした。玲華と同様に呆然としたような声色である。

 玲華は炎を泳ぐ黒い何かを見つめたまま、一向に体を動かさなかった。

「おい!」

 強引に肩を引き戻される。

 玲華はされるがままに後ろを振り返った。

 鴨川新九郎は鬼の形相で、額の汗に燃え盛る炎を反射させながら、玲華を睨み下ろしていた。

「え……?」

「え、じゃねぇよ! なに止まってんだ!」

「だって……」

「早く進めって! ここはヤベェだろ!」

 地を揺るがすような焼夷弾の絶叫が大炎をさらに赤々と唸らせた。

 新九郎は咄嗟に玲華の体を庇うと、そのほっそりとした両肩を焦ったように揺すり、彼女の宝玉のような黒い瞳を真上から覗き込んだ。

「頼むから目を覚ませ! このままじゃ皆んな死んじまうぞ!」

「す、進めない」

「はあ?」

「これ以上前に進めない」

「な、なら一旦戻るぞ!」

「戻れない」

「何でだよ!」

「分かんないよ!」

「分かんないで済むかよ! ここまで案内してきたのはお前だろ!」

「道がなくなっちゃったの! 前にも後ろにも進めないの!」

 赤い龍が長い尾を振るう。黒い影が赤い光を押し潰す。天井が崩れたのか、壁が倒れたのか、床に穴が空いたのか。もはや荒波の内側からは判断が付かない。大炎がさらに勢力を増していく。本来あるべき灼熱がゆっくりと彼らの肌を焦がし始める。数百万からなる火の粉の群が彼らの涙を奪っていく。

「戻れ!」

 野洲孝之助は怒鳴った。

 後ろを振り返った新九郎は、魂が抜けたように固まってしまった徳山吾郎と、彼を取り囲む炎の龍に向かって必死に木剣を振り回す田中太郎の姿を見た。

「東だ!」

「待て! のぶくん達は何処だ!」

「小柄な少年とメガネの女ならばここにはいない! 恐らく途中で逸れたのだ! とにかく俺たちも東に逃げるぞ!」

 そう叫び、純白の特攻服を脱いだ孝之助はそれを盾に、今や炎の壁となった広間の出入り口に突進した。

 新九郎は慌てて玲華の細い腕を掴むと、徳山吾郎の襟首を掴み、田中太郎の背中を前に押しながら、孝之助の後を追って走り出した。



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