夢の終わり
夏子ちゃんが羨ましかった。
舞台の上でしょう子ちゃんの隣に立てる夏子ちゃんが羨ましかった。
その声が、その容姿が、その細やかな肌が、その滑らかな黒い髪が、その春風にそよぐ野花のような匂いが、その星々の瞬く夜空のように澄み渡った瞳が──その何もかもが、羨ましかった。
嫉妬ではない。羨望だ。ただ、羨ましかった。
あたしは自分が嫌いだった。
だから夏子ちゃんに憧れた。
夏子ちゃんに生まれ変わりたいと、そんな夢を見ていた。
泥水の巻き上がった水面のように空が暗く濁っている。
曇天に嘆くクジラのようなサイレンが地上を震わせている。
そんな黒い水面に、時折、青い水滴が落ちた──暗い空に焼夷弾の透き通った波紋が広がった。
そんなサイレンの嘆きに、時折、風の刃が重なった──低い地鳴りが戦闘機の鋭い旋風に巻き上がった。
それらはある意味で、光と影のように対立し合うものだった。
それらは同様に、人の心を脅かす厄災であった。
「あ、あ、あ……あ、貴方も……貴方も死ぬわよ……!」
やっと絞り出せた言葉がそれだった。
吉田真智子は何度も何度も呼吸を重ね、呼吸を数え、呼吸を考え、そうしてやっと、僅かながらに、窓の向こうのどんよりと濁った黒い空から視線を逸らすことが出来た。そうしてやっと、古ぼけた木造の廊下の向こうに立つ少女の、その寒々しい青い目を睨み返すことが出来た。
「じゃあ一緒に死のうよ」
三原麗奈は微笑んでいた。薄桃色の唇を小さく伸ばし、少し垂れた目の奥を澄み切った空色に煌めかせ、客席から舞台の上の悲劇でも眺めるかのように、薄っすらと笑っていた。他人の不幸のみを密かな生きがいとする淑女のような表情である。その言葉とは裏腹に、彼女の声色は他人事のように冷たかった。
「しょ、正気なの……?」
「ああ、そうだった。忘れてた」
「はい……?」
「私は大丈夫だった。だって別の器があるから」
「な……」
「君の息子の身体はそれなりに大切に使わせてもらうよ。何一つとして魅力のない貧相な器だけどね」
真智子は一瞬唖然として固まってしまった。そして徐々に顔を憤怒の形相に歪ませていくと、左の頬に薬指を当てた麗奈に向かって大きく一歩足を踏み出した。
「貴方!」
「はい、開演」
麗奈の細い足がつっと前に動いた。
同時に凄まじい爆発音が校舎に響き渡る。
焼夷弾の一つが校舎西側の講堂を焼き飛ばしたのだ。その衝撃に校舎全体が真横に揺れた。
真智子は咄嗟に両手で頭を覆った。声が潰されると、一瞬、上下の感覚を失う。それでも怒りの籠もった視線だけは外さなかった。
「許さない」
衝撃は一つでは終わらなかった。小石の散弾が鉄板を弾くような濁音、曇り空から響いてくる重低音、絶え間ない爆発音が重なり、揺れる。校舎は既に大炎の中だった。
真智子はゆらゆらと揺れ動く視界の中心に女生徒の空色の瞳を捉えた。そうして、か細く薄れ消えかかった声を落とした。
「あたしは──」
斜め後ろの教室の窓が破裂した。爆風とガラスの絡み合った炎が真智子の背後で弾けた。
さらに真横の教室から火の手が上がる。今や校舎はそこかしこが赤く黒く歪んだ地獄絵図へと変わってしまっていた。それでも何故か、校舎は未だにその原型とも呼べる長い廊下と、生徒の声のない微小な静寂を保ち続けていた。校舎の隅には依然として顔のない人形が並んでいた──。
真智子は大きく腕を振った。すると、くの字に折れ曲がった光の槍が数本、何もない教室の壁にぶつかる。息を詰まらせながら呻き、苦しげに咳き込んだ真智子は、足元に横たわっていた人形の一体を真後ろに蹴り上げた。
ふわりと浮かび上がった人形が炎の渦に飲まれていく。
真智子は僅かに頬を緩めた。が、すぐにまた、苦しげな咳きと共に顔を強張らせてしまうのだった。炎に呑まれたはずの人形が足元に転がっていたのだ。
「あーダメダメ、無駄だよー」
無邪気な少女の声が空襲の合間を縫って真智子の耳に届いた。よく通る声である。だが、その透き通るような空色の瞳には冷たい憎しみの影が宿っていた。
「それ、私の記憶だから」
麗奈はそう言って、ローズピンクの唇をニッコリと横に広げた。
真智子は憎々しげに口元を歪めると、そんな少女の瞳から目を背け、鳴り止まぬ爆発音に背中を丸めながら、転がるようにして、炎の渦巻く校舎の西側へと走り出した。
「夏子ちゃんっ、ごめんね、ごめんねっ……!」
吉田障子は声を詰まらせながら、何度も何度も、黒く煤けた小柄な女生徒に向かって謝罪の言葉を述べた。今や彼の目に映る景色はいつかの記憶と重なった薄暗い木造の校舎であり、浮かび上がる感情は誰かの想いと重なった目の前の女生徒への憐憫の情である。およそ七十年ものあいだ入れ替わったままだった鈴木夏子と、それを心の奥底から望み、懇願し、叶え、そうして背中を向けてしまった山本千代子という女生徒の物語を、或いは自らが辿ったルートを思い返すが如く、或いは二人のルートを真上からなぞるように、重ね合わせて見ていた。つまるところ彼はそれまでの一連のストーリーの中で、彼女としてではなく、彼としての客観性を保っていた。
障子は目の前の黒く煤けた女生徒──鈴木夏子をただ憐んでいた。
「出口──」
鈴木夏子──千代子はといえば、ただひたすらに困惑しているようだった。
体育館の床に膝を付き、正面から抱き付き、そうして耳元でわんわんと涙を流す少年に、千代子は首を傾げていた。それはなにも少年の存在を知らなかったからというわけではない。この精神空間の根幹にあるとも云える山本千代子には、この学校に通う吉田障子が誰であるかも、彼の魂に抱き付くようにして寄りかかった少女が誰であるかも、ただ巻き込まれるばかりであった彼の哀れな現状も、その全てを記憶として把握していた。ただ、それはあくまでもそういった情報として覚えていたというのみであり、この生まれながらにして純粋で、さらには途方もなく膨大な時間を記憶させられた少女は、他人の心の動き、そもそも感情そのものに対して、多分に疎くなっていた。稀に人としての根源的な感情を本能で思い出すこともあったが、大抵はその状況に合わせて、およそ最適と思える行動を膨大な記憶の海から掬い出し、それを真似てみるといった機械的な動きしか出来なかった。そのため、想定外の事態には上手く対応できなかったのである。
「あっち──」
彼女──山本千代子は取り敢えず、泣き喚く吉田障子の頭をヨシヨシと撫でてみた。記憶から推定するに、それがこの場における最適解であろう、と。すると何故だか彼女の方がホッとするのだった。千代子は黒く煤けた頬を緩めると、何度も何度も、大粒の涙を流す少年の頭を撫でまわした。
「夏子ちゃん……夏子ちゃん……」
と、障子は喉を震わせていた。
思考はほとんどが損なわれている。誰かの感情ばかりが溢れ出してくる。それでも障子は自分が何をすべきか、何を言うべきか、その時にどうするべきであったかを覚えていた。そう、覚えていた。自分の記憶ではない。それは死に際の、或いは死んだ後の、山本千代子の記憶──。
誰もいない広場。隅に転がる赤いボール。
彼女は一人ぼっちだった。
爆炎と衝撃の鳴り止まぬ街の中心で、彼女は一人おろおろと辺りを見渡していた。
おかしいと思った。
何故ならば今の今まで確かに二人きりだったから。
そう、二人きりだった。
彼女は彼女が夢にまで思い描いた姿で、彼女の想い人であった田村しょう子と二人、血と悲鳴と炎と噴煙の中、明るい未来に向かって駆け抜けていた。
だのに、どうして一人ぼっちなのか。
しょう子ちゃんは一体どこに行ってしまったのだろうか。
もしかして置いて行かれたのだろうか。
おろおろ。
何やら視界が妙だった──。
煙と炎にやられてしまったのだろうか。普段よりも何処かぼんやりと見えずらかった。
そこが広場だということは分かった。赤いボールが転がっているということも分かった。
まるで別の、目の悪い人の体に入ってしまったかのように、ただ世界がぼんやりと見えずらかった。
しょう子ちゃんは一体どこに行ってしまったのだろうか。
もしかして置いて行ってしまったのだろうか。
何やら体が妙だった──。
恐怖と後悔にやられてしまったのだろうか。どうにもうんともすんとも動かせなかった。
と、足が勝手に前に動いていく。
まるで別の、意志の強い人の体に入ってしまったかのように、自分の体を思い通りに動かせなかった。
何やら思考が妙だった──。
親友の身体を奪った罰なのだろうか。別の思考が頭の中を流れて止まなかった。
いいや、これは誰かの声だ。
聞き覚えのある少女の声だ。
それは言ってみれば、まるで彼女の想い人である田村しょう子の背中に抱き付き、そうしてしょう子の声を耳元で聞いているかのような、そんな感覚だった。
おかしいと思った。
どうして一人ぼっちなのに、しょう子ちゃんの声が聞こえてくるのか。
おろおろ。
足が一人でに動いていく。赤いボールに向かって体が進んでいく。
おかしいと思った。
彼女は焦っていた。
とにかく、とにかく、とにかく、夏子ちゃんに会わないと、しょう子ちゃんを探さないと──。
甲高い悲鳴が上がった。
それは田村しょう子の悲鳴だった。
そしてそれは彼女の悲鳴でもあった。
赤いボールの正体が分かったのだ。
それは彼女の顔だった。
血塗れの彼女──鈴木夏子の生首が火と煙に薄暗い公園の隅に転がっていた。
おかしいと思った。
どうして彼女が夢にまで思い描き、そうしてやっと、最悪の裏切りをしてまで手に入れた理想の体が、こうして醜い生首となって目の前に転がっているのか。
おかしいと思った。
気が付けば走り出していた。
気が付けば体だけが前に走り出していた。
気が付けば彼女は置いて行かれていた。
なにも知らない田村しょう子は、ただフラフラと全身を震わせながら、恐怖と絶望に打ちひしがれながら、涙に濡れ、悲鳴に枯れ、見えない彼女を置いて、血と噴煙の彼方へと走り去ってしまった。
そうして彼女は本当に一人ぼっちとなった。
いいや、もはや人ではなかったのかもしれない。
何故なら彼女はとうに体を失っていたのだから。
彼女は魂のみで、それでも溺れまいと必死に抱き付いていた田村しょう子の体も離れてしまい、もはや誰にも見られることのない、もはや誰にも聞かれることのない、夜の影のような、虚ろな、亡霊となってしまった。
彼女は一人ぼっちだった。
それでもその想いは続いていた。
とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと、あの子を探さないと──。
魂が何処かへと引っ張られていく。
体が壊れ、精神が薄れ、魂のみとなった彼女の想いが何処かへと導かれていく。
いったい何処へ。
おかしいとは思わなかった。
何故ならば彼女は山本千代子なのだから。空襲により学校で焼け死んだ鈴木夏子と、その魂が繋がったままなのだから。
彼女の魂が夏子の元へと引っ張られていく。
彼女の魂が夏子の待つ学校へと引っ張られていく。
とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと、あの子を探さないと──。
そうして謝らないと──。
また昔のように、三人で一緒になって、そうして──。
「ごめんね……! ごめんね……!」
障子は喉を震わせた。
或いは彼の記憶ではなかったのかもしれない。
それでも障子は自分が今、何を言うべきかを確かに覚えていた。
「夏子ちゃん、ごめんね……! わがままばかり言ってごめんね……! 嘘ついちゃってごめんね……!」
千代子はふるふると首を横に振った。そうしてよしよしと障子の頭を撫でた。何故かは分からなかった。が、とにかく彼には笑っていて欲しかった。とにかく泣き止んで欲しかった。
「夏子ちゃん……!」
障子はそう叫ぶと、千代子の瞳を真正面から覗き込んだ。
「元に戻して……! 僕を、僕たちを、元の体に戻して……! ごめんね、夏子ちゃん、今まで、本当に、ごめんね……!」
精一杯の叫びだった。それが今の障子に出せる精一杯の言葉だった。
だが、千代子は首を横に振った。
その丸々と煌めく瞳を斜め上に向けると、黒く煤けた唇を僅かに縦に動かしてみせるのだった。
「まだ──」
よしよしと頭を撫でる。
そうしてピョンと跳ねるように、障子の体から離れてしまう。
「ちょっとだけ──」
千代子はそう言葉を落とすと、トコトコと渡り廊下に向かって走り出した。その視線は斜め上の校舎に向けられたままだった。
「待って!」
障子は叫んだ。
だが、千代子は立ち止まらなかった。




