三人いる
「ざけんじゃないわよッ!」
睦月花子はそう怒鳴ると、握り締めた拳を感情のままに振り下ろした。肌に浮かんだ青黒い血管は尾の長い龍が如きである。その額と両腕に無数の雷の紋様が刻まれている。
「こっちのセリフですけど?」
三原麗奈は唇を縦に動かした。空色の瞳がゆらりと夜に揺らめいている。左手の中指をピンッと真上に立てている。さらに麗奈は、その空色の瞳で花子を冷たく見据えたまま、壁際で茫然と立ち尽くしていた二人の青年に向かって、氷床の底を流れる清流が如き凍えるような吐息を伸ばした。
「せっせ」
水口誠也と山田春雄は木枯らしに吹かれたキリギリスのように飛び上がると、廊下を転がるようにして、人形を並べる作業に舞い戻った。そんな二人の側では、長い白髪を後ろで結わえた老齢の巫女が鋭い目をさらに鷹が如く細めている。姫宮詩乃の空色の瞳は、少女たちの喧騒とも、せっせと働く二人の青年とも違う、あらぬ方向を漂っていた。
「このクソ発情モブクソウサギと協力しろですって? はんっ! ふざけんじゃないっつーの! そもそもこのクソオブクソモブクソ女が全ての元凶じゃないのよ!」
「うわぁ、部長さんってやっぱりマジキモーい。語彙が貧弱な上に顔面偏差値以下全てがゴリラ並みに下品過ぎて全身に鳥肌立ちまくりなんですけどー? てか、何も知らないミジンコ以下の脳筋不細工ウホ女が私の舞台を滅茶苦茶にしてくれちゃったおかげでこんな最悪の事態に陥っちゃったんですけど? 端役ですらない低脳部外者筋肉バカ女が私の舞台の上で存分に暴れ回ってくれちゃったおかげで演目どころか緞帳まで燃え上がっちゃったんですけど? ねぇ、ほんとお願いだから責任取って自殺してくれないかな? かな? なるだけ無様にもがき苦しんで死んで欲しいなー」
花子と同様に、麗奈もまたピキっているようだった。額に青筋こそ浮かばないものの、その見開かれた空色の瞳がキメの細かい白い肌に浮かび上がっているようである。
「いいこと、クソモブ女。アンタのせいで警察に追われる羽目になった可哀想な吉田少年を救うために私はまたここを訪れたの。つまり私の敵はアンタなのよ! それなのに、本来なら吉田少年を救うために吉田ママと手を組んで悪逆非道なクソ・ド・モブを成敗する立場にある私が、どーして年がら年中発情してるザ・クソウサギと手を組んで吉田ママを成敗しなくちゃならないってのよ? どー考えてもあべこべでしょーが!」
「はいはい、あー、はいはい! もーっ、この何も知らないミドリムシ以下の脳筋単細胞! 不細工過ぎてマジ話にならないんですけど! てか、誰も協力するなんて言ってないし? てか、言うわけないしー! もう、しっし! 早くどっか失せろバカー!」
イーッと睨み合う。
麗奈はなんとか花子の弱点を探ろうと、その瞳の奥の奥へと空色の光を伸ばしていった。だが、無駄であった。花子の心は渓谷の急流のように清らかに、常に激しく流れ続けており、魂を惑わせられるような澱みは何処にも見られなかった。麗奈は悔しげに歯軋りすると、ならばせめて眩しがらせてやろうと、瞳をさらに澄み切った朝空の光へと薄めてやった。
因みに花子はただ普通にガンを飛ばしていただけである。
「動いた」
掠れた声が落ちた。
睨み合っていた二人の視線が外れる。
白髪の老婆を振り返った花子は怪訝そうに眉を顰めた。
「何が?」
「夜じゃ」
「ヨルジャ?」
「もう長くは持たんじゃろうて」
姫宮詩乃は至極落ち着いた態度でそう言った。ただ、いつもの如く目付きは険しい。
対して麗奈はひどく焦ったようにアッシュブラウンの髪を靡かせると、空色の瞳を見開き、顔のない人形の一つを天井に向かって振り上げた。
「早くして!」
「もう全て配り終えたと思うが……」
山田春雄は恐々と肩をすくめた。「生徒会室がまだじゃん!」と麗奈の投げ付けた人形が水口誠也の顔面に叩き付けられる。「ストライク!」と誠也は親指を立てた。
「ねぇ、戦前の校舎に生徒会室なんて無かったと思うけど?」
「そっちの方がまだって意味!」
「ああ、そういう……。因みにその生徒会室はいずこに……?」
「急げバカ!」
「イエッサー!」
誠也は取り敢えず全力で駆け出した。そうして数歩の後、チラリと後ろを振り返る。また顔面に人形をぶつけられると、誠也は、左手で、オッケーと合図を送った。方向は間違っていないようである。サッと人形を三体、胸に抱いた誠也は、いずれ生徒会室が創られるという校舎の端に向かって、せっせ、と駆けて行った。やれやれと頭を掻いた山田春雄がそんな彼の後を追いかける。
「てーか、吉田ママって今どこに居んの」
花子は苛立たしげに腕を組むと、窓際の壁にドスンと背中を預けた。
「この校舎で出会える確率が天文学的だの何だのとほざいてやがった骸骨が知り合いに居るけれど、そもそも吉田ママに会えなきゃ何も始まらないじゃないのよ」
「ワシにはあの子の姿が見えておる」
「どういう意味?」
「眼じゃ」
「メジャ?」
「巫女の眼は精神を見通せる。じゃからこのヤナギの精神空間内であらば、あの子を見失うことはまずない」
「へぇ、なんかよく分かんないけど便利な目ねぇ。じゃあ新九郎たちが何処に居んのかも分かるのかしら?」
「分からん」
「何でよ! 全部見通せるんでしょ!」
「あくまでも見通せるのみ。当然ながら認知出来るものの数は限られておる」
「はあん?」
「ビルの屋上から街ゆく人々をそれぞれ認知してゆくなどと、お主にも無理な話じゃろうて」
姫宮詩乃はそう言って、空色の瞳を真下に落とした。花子も釣られて、老婆の足元に視線を送る。
「確かにこの精神空間は、それがヤナギの木のものである為か、人のそれとは違い、安定しておる上に範囲も限られておる。が、年月が果てしない。さらに、あまりにも人の存在が重なり過ぎておる。ワシはただ、あの子──吉田真智子ただ一人に焦点を絞ることで、どうにか見失わずに済んでおるだけなんじゃ。こうしてお主らを前にしつつ、あの子の影を追い、さらに他の者の姿を同時に視認するなどワシには到底不可能に近く、果てにそれが知らぬ者であるというのならば、もはや分からんと答えるほかあるまい」
花子は憮然とした表情でため息をついた。面倒くさい話はもう懲り懲りだと肩を落とす。
「まぁいいわ。とにかく早く私を吉田ママのところへ連れて行ってちょうだい」
「お主一人では無理であろうと、先ほど話したじゃろうて」
「もう一度だけ言ーっとくけどね、このクソモブウサギと協力するつもりなんて一切ないから。そんな無様晒すくらいなら玉砕覚悟でバンザイ突撃してやるわ」
「これ、いい加減仲直りせんか。お主らは同級生じゃろう」
「そんなレベルの話じゃないっつの! 殺されかけてんのよ、私?」
「じゃがこうして生きておる。許してやるというのもまた強さじゃ」
「どーだっていいのよそんな説教! とっとと私を吉田ママのところに連れて行きなさい! 間に合わなくなっても知らないわよー!」
「待て! 勝手に動くな!」
少女のよく通る怒鳴り声が加わる。
空色の瞳を見開いた麗奈は、顔のない人形を両手に、アッシュブラウンに美しい髪をふわりと逆立てていた。
「こっちには計画があるの! 今からあの化け物をここに誘き寄せるから、君らは大人しく席にでも着いてなさい!」
「一体どうやって誘き寄せるってのよ? まさかその人形でとかほざくつもりじゃないでしょうね?」
花子はコキリと首の骨を鳴らした。臨戦態勢である。
「あの女の目的は私。あの化け物は私のことが憎くて憎くて仕方ないの。私がそう仕向けたんだから。だからアレは未だに夜の校舎を彷徨い続けてるの」
「彷徨ってるってことは見つけられてないってことじゃない。まさかとは思うけれど、アンタ、吉田ママに直接会いに行ってここまでおびき寄せようとか考えてない? はん、言っとくけどそれは無理な話よ。アンタみたいな貧弱モブウサギが今の怒れる吉田ママの前に姿を見せれば、一瞬で、ポンッ、よ」
そう声を低くし、首を掻っ切る仕草をする。
麗奈は、薬指で左の頬を撫でると、視線を斜め下に落とした。すると、それまで澄み切っていた空色の瞳がどんよりと紺青に翳っていった──。
「君と一緒にしないでくれる」
まるで日が暮れていくかのようであった。
やがて冬の夜空の如く冷え切った漆黒の影が瞳を過ぎると、ゆったりと、朝日を浴びた亜麻糸のように、彼女の瞳は鮮やかなブラウンへと様相を変えてしまった。
「今」
よく通る声が落ちる。
花子は首を傾げた。
「何がよ」
「吉田真智子が来る」
瞳の色がまた空色に向かって薄れていく。
花子はイライラと足を揺らすと、白髪の老婆を振り返った。
「嘘よね」
「来ておる」
「何でよ? 目の色変えただけじゃない?」
「私の姿を見せてあげたの」
麗奈の視線が窓の外に向けられる。煌々と青い望月が薄い雲に霞んでいる。
「ヤナギの霊である吉田真智子もこの夜全体を見渡すことが出来るから」
麗奈はそう言って、唐突に、やがて旧校舎となる西の校舎に向かって歩き始めた。
「ちょっと待ちなさいよ! アッチからも見えてるってんならとっくにアンタの存在に気付いてるはずでしょーが!」
「今までは青い光を見せてた。だから吉田真智子は来なかった」
「青い光なら今も見せてるじゃない」
「瞳の色を一旦元に戻したじゃん。アレでこの光が私のものだってことを教えてあげたの」
「だから意味が分からないっつの! そもそも青い目してんのってアンタとお婆ちゃんの二人だけでしょーに。たったの二択よ!」
「三択だよ」
「はあん?」
「三人いるから」
麗奈は足を止めた。いつの間にか眩い朝の光が廊下に差し込んでいる。
「三人ってアンタ、そんな青い目した女がまだ他にもいるっての?」
花子もまたムスリとした表情で立ち止まった。そうして青い日差しに目を細める。見覚えのない木造の家々が窓の向こうに広がっている。まるで風景画のようだった。遠くの山々から伸びる薄い影がビルのない街を覆っていた。
「てか、たとえ三人居たとしてもよ。そんなの別に大した問題じゃないと思うけど? ただしらみっ潰しに叩き潰していけばいいだけの話じゃない」
「あの女にとっては大した問題なんだよ。何故かは分かんないけど、あの女、吉田真智子は感情の暴走と共に、この青い光を避けるようになった。それは恐らく、私たち三人のうちの一人に会いたくなかったから」
「誰よその一人って?」
「山本千代子」
「千代子ってまさかあの千代子? あの真っ黒な、ちんちくりんの?」
「そう」
花子の黒い瞳がくるりと丸くなる。
「そうだったかしら、確か黒い目をしてた筈だけれど……。てか、どうして吉田ママはその千代子を避けてんのよ?」
「知らない」
「罪悪感からじゃろうて」
掠れた声が落ちた。
シンと朝の空気が冷たくなる。
空色の瞳を細くした姫宮詩乃の表情は変わらず険しかった。
「まさか──」
麗奈はそう蔑むように微笑んだ。冷酷な表情である。右手の薬指はいつもの如く左の頬に当てられている。
そんな彼女をギロリと睨んだ花子は首の骨を鳴らすと、血管の浮かんだ腕を組み、人形の並んだ朝の校舎を見渡した。




