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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章

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202/255

余韻


 早瀬竜司の拳が日暮れの影を切り裂いた。

 向けられた拳銃など彼の視界に入りすらしない。少年の雄叫びが家庭科室に響き渡る。ただ本能のあるがままに、竜司は傲慢な王の前に立ちはだかり、その拳を横に振った──。

「……あ?」

 振り切った拳が夕焼けに照らされる。

 竜司は唖然として口を開き、そうして目の前の男を見上げた。勢いのままに放った拳は、それでも確実に、目の前の男の頬を貫いたはずだった。にも関わらず感触が無かった。本来であれば骨に伝わるはずの衝撃も、鼓動と合わさるはずの振動も、拳の向かう先に弾かれるべき男の表情も、何もなかった。

 男は広い肩を聳えさせたまま、何事もなかったように、白銀の拳銃を前に構えていた。目の前の少年の姿など視界に入れすらしない。その傲慢さに一切の翳りはない。ただ、何故だか、男もまたその動きを止めてしまっている。別に誰に狙いを定めているというわけでもなさそうだった。予想もしなかった何かと出くわし、そうして唐突に考え込んでしまったような──男はそんな表情をしていた。

 いったいその視線の先に何があるのか。いいや、誰がいたのか。それを確かめてやる余裕など竜司にはなかった。やっと凄まじいばかりの感情が本能に追い付くと、激しい怒りに身を震わせた竜司は、野良犬のような怒号と共に、目の前の男に飛び掛かった。

「うぜぇ」

 王の意識が怒れる少年に向けられる。ただ一言である。

 気が付けば竜司は天井を見上げていた。床の上に仰向けに倒されていた。いったい何をされたのかも分からない。ただ全身が焼けるようである。呻き声を上げながら体を起こした竜司はジッと陽の光に目を細めた。そうして扉の前に立つ肩の広い男を睨み上げる。ペッと彼の足元に血を吐き出した。

「お前──まさか鈴木英子か?」

 小野寺文久はそう言うと、拳銃を前に構えたまま、微かに首を傾げてみせた。

 そんな彼と視線を重ねた英子は、恐々と肩を縮こめながら、細い首を傾げ返した。

「あたしですか……?」

「テメェ以外に誰がいんだ」

「ええっと、はい、そうですけれど……」

 銃口が僅かに下がる。鈴木英子は何が起こっているのか分かっていない様子であり、ただオロオロと、小野寺文久の構える拳銃に口を丸くするばかりだった。

「はっ」

 文久の表情が変わった。多少の感慨を抱いたのだ。

 彼は、いわゆる二人目のヤナギの霊である鈴木英子とは、一切の面識がなかった。それは単純に興味が無かったからだ。一目見ようとさえ思わなかった。

「そうかよ。お前が鈴木英子か」

 一人目の山本千代子から始まり、四人目の吉田真智子、そうして五人目となった大野木紗夜まで連なるヤナギの記憶の器の中で、二人目の鈴木英子が最も価値のない存在だと、文久は考えていた。こうして偶然出会ってみても、その考えはやはり変わらない。鈴木英子という女生徒は、その容姿はさておいて、やはり平凡といった以外の表現を探すのが困難なほどに影が薄く、哀れという感情さえ覚えないほどに無価値な存在に思えた。

「逃げて──」

 小さな声が落ちる。

 山本千代子が傲慢な王の真正面に立ち塞がった。千代子は、二人の少年を守るようにして、その黒く煤けた体を精一杯大きく逸らした。

 白い布が赤い陽に照らされる。

 何処からともなく現れた無数の千本針が王の身体に巻き付いていく。

「思った通りだ」

 陽の光が強くなった。すると、千本針が薄い火に覆われてしまう。白い布はすぐに黒い塵となって、夕陽の中を舞い落ちていった。

 山本千代子は幾度となく王の拘束を試みた。だが、結果は同じである。その傲慢な視線すらも動かすことは出来なかった。

 王の口元に皺が寄った。それは相手を小馬鹿にするような笑みであった。

「如何にも愚鈍そうな女だぜ」

 何の因果か。

 最後の瞬間だった。

 こうして予期すらもしていなかった女生徒の顔を拝むことが出来たのだ。

 王はそれを面白いと思った。

 何の因果か。

 偶然の出会いだった。

 自分よりも一つ上の世代の、あの戸田和夫や八田弘と繋がりがあった女生徒と、言葉を交わすことが出来たのだ。

 王はそれを面白いと思った。

 何の因果か──。

「因果……?」

 王の表情が変わる。左目が鮮やかな空の色に薄れていく。

「鈴木英子」

 そうして文久は、唐突に、窓辺に立った影の薄い女生徒の額に銃口を向けた。

「お前──どうやってここを知った?」

 頑強な体躯。空色の瞳。耽美な表情。白銀の銃口。

 おおよそ人の目を奪うような装飾ばかりだった。

 だが、何よりも、その深淵から遠く轟いてくるような低い声が人の意識を奪った。王の声を聞き逸らすという行為は、その瞳の色や、拳銃の煌めきから目を背けるという行為よりも、遥かに難しい事であった。

 英子は恐々と肩をすくめた。そうして困惑したように小さく首を傾げてみせた。

「いったい、何のお話しかしら……?」

「どう知り得た。いいや、誰に聞いた。この永遠の校舎の話しだ。答えろ」

「この夜……? 誰に聞いた……?」

「頭の遅ぇ愚図が! テメェらが一体どうやってこの夜について知りやがったかを聞いてんだ!」

「こ、怖いわ……! その物騒なものを、どうか、どうかお下げになって……!」

 英子はやっと拳銃の存在に気が付いたかのように、肩を震わせ、両手を前に出した。

「一人目の間抜けにこの夜を知る術はなかった。それは頭の弱ぇ魔女も同様だ。何たってここは奴らの死後に生まれた偶然の産物だからよ」

 山本千代子は必死に、二人の少年の前に立って、白い布を動かし続けていた。だが、そのどれもが、ただ焼け焦げた炭となって、床に舞い落ちるばかりだった。

 そんな少女の煤けた顔を冷たく見下ろした文久は、左の瞳をさらに透明に近い青に澄み切らせると、スッと銃口を斜め下に動かした。

 銃声が白い煙を揺らめかせる。白銀の光が茜色の影を貫く。

 サイフォンに浮かんだ泡が弾けると、そのガラスの球体が白銀の銃弾によって粉々に砕かれた。遅れてきた発砲音と重なるように、英子の甲高い悲鳴が校舎に響き渡る。

「たとえ戦前の記憶を持って生まれようとも、テメェらみてぇな愚図にこの夜を知る術はねぇ。何故なら、すでに死して永遠の夜に囚われた後の千代子の記憶は共有されねぇからだ」

 文久は静かに話を続けた。

「つまりは千代子──いいや夏子か──。まぁ、この際どっちだっていい。重要なのは、鈴木英子、テメェがテメェ自身を単に前世の記憶を持った稀有な存在としてしか認知していなかったって事だ。ああ、そうさ。あのお花畑、ブサイクなお姫様、村田みどりも同様だ。テメェが死んだ後の記憶がお花畑に共有されることはねぇ。前世のさらに前世の記憶を持つってのがどんな感覚かは想像も付かねぇが、あのお花畑にはそれを思い悩むほどの知能がなかった。それが──ああ、やっぱり妙だ。どうにもおかしい。いったいテメェらはどうやって、この永遠の夜の存在を知り得た。まさか自力で探り出したってか? バカが、それこそあり得ねぇ笑い話だぜ。それほどの人間らしさがありゃあ、テメェらの哀れで間抜けな人生をこそ、もっと上手く締めくくれただろうがよ!」

 少しずつ、その語尾に、荒々しい傲慢さが宿っていく。

 英子は両手で頭を押さえると、未だ耳の奥を離れない銃声に体を震わせながら、必死の懇願を始めた。

「わ、分かりません……。あ、わ、分かりませんの……。ああ、どうか……お止めになって……。どうか、どうか、誰も撃たないで……」

「ああクソが! 思えんば王子ってのも妙な話だったぜ! お花畑の妄言だと聞き流しちまった昔の自分に腹が立って仕方がねぇ。なぁおい、テメェらが王子とやらにイカれてた理由は何だ? どうしてその間抜けな呼び名に固執してやがった?」

「あ、あたしには……あ、貴方のお話しが全く理解出来ませんの……。どうか……ああ、どうか、もう、お許しになって……」

 雄叫びを上げた少年が王に向かって飛び掛かる。

「オラァ!」

 早瀬竜司の拳が再び文久の顔面を捉えた。

 だが、やはり感触がない。まるで初めから誰もそこに立っていなかったかのように──。

 竜司は素早く腰を捻ると、口から零れ落ちる赤い血に構わず、文久の首元にハイキックを入れた。しかしそれも当たらない。王の視線は動かせない。

 竜司の体が床に崩れ落ちた。今や口からだけでなく、目、鼻、耳、爪の付け根、全身から血が止めどなく溢れ出していた。

「あっ……がっ……。ク、クソッ……! 何だっ……てんだ……!」

 白い布が血みどろとなった竜司の体を優しく包み込んだ。さらに別の布が、白い蛇のように、文久の体を拘束する。が、すぐに黒い灰となって舞い散る。千代子は懸命に小さな腕を振り続けた。そんな煤けた少女に視線を戻した文久は、軽くため息をつくと、拳銃を千代子の額に下ろした。夕焼けが白銀の銃身に反射する。まるで地を這いずる羽虫の矮小さを哀れむが如く、冷たい視線である。

「まぁいいさ。物語に余韻は付きものだ」

 英子の金切り声が響き渡った。テーブルに並んだコーヒーに黒い波紋が広がる。家庭科室の空気が揺れると、日暮れの赤い光が振動する大波となって、文久に襲い掛かった。

「哀れな女だぜ」

 王を取り巻く茜色の校舎の平穏は揺るがない。

 英子がどれほど悲鳴を上げようとも、その悲痛な想いが王の元に届くことはなかった。振動する赤い波は砂浜に打ち寄せる潮のように穏やかに影に沈んでいってしまい、王の髪の一本すらも震わせることは出来なかった。

「だが、まぁ、それも人か──」

 文久は口元に皺を寄せると、引き金を手前に引いた。同時に、軽い衝撃が文久の体を横に揺らした。

「あ?」

 放たれた銃弾は僅かに千代子の頭を逸れ、背後のテーブルに並んでいたコーヒーカップの一つを弾き飛ばした。英子の鋭い悲鳴が銃声の残響を抑え込む。

 銃口はそのままに、視線を下ろした文久は僅かに目を見開いた。吉田障子が小さな呻き声を上げながら腰にしがみ付いていたのだ。暫し呆気に取られていた文久は、すぐに憤怒の形相に顔を歪めると、少年のふわりと柔らかな猫っ毛を左手で掴み上げた。そうして少年の首元に右手を寄せる。気が付けば拳銃は白い光に妖しいナイフへと姿を変えていた。

「何のつもりだ、テメェ?」

「も、もうっ……あっ……や、やめて……!」

「だから終わらせてやるっつってんだろ! この半端者のクソ野郎が!」

 少年の髪をさらに強く引き上げる。白い布も、赤い波も、届かない。悲痛に濡れた障子の瞳を睨み下ろした文久は、その無防備となった首筋に無情の刃を振り下ろした。

「……チッ」

 夕陽に照らされたナイフが煌々と妖しい熱を放つ。

 文久は舌を打ち鳴らすと、荒い呼吸を繰り返す吉田障子を乱暴に突き飛ばした。怒りのままに奥歯を噛み締め、床に蹲った彼を冷たく見下ろす。そうして文久は窓辺に立った影の薄い女生徒に視線を戻した。

 校舎が一瞬にして静寂に呑まれてしまう。手で顔を覆い隠していた英子は、恐る恐る周囲の様子を伺った。

「お前」

 文久は視線のみを僅かづつ動かしていった。夕陽を背景にした鈴木英子の暗い瞳から、割れたサイフォンの破片、そうしてテーブルに並んだコーヒカップの、その黒い水面から浮かび上がる滑らかな白い湯気へと──。右手のナイフは再び、白銀の拳銃へと姿を変えてしまっている。

「いや、まさかな」

 そう呟き、口元に手を当てた。

 もはや二人の少年の姿も、黒く煤けた少女の影も、窓辺に立った女生徒の表情も、王の視界には入っていない。文久はただその青く澄み切った片方の瞳で、白い湯気の立つコーヒーの、黒く艶やかな表面を見据えていた。

「なぁおい」

 英子はチラリと視線を上げるも、文久と目が合ってしまうことを恐れ、すぐに下を向いてしまった。だが、すぐに、文久の低い声に引き寄せられてしまう。

「テメェだ、鈴木英子」

「え……?」

「お前、木崎隆明って男を知ってるか」

「は、はい……?」

「陰気な顔した気色悪ぃ根暗野郎だ」

「キザキ……」

「お前、そのコーヒー、まさか──」

 太ももから血が吹き出した。

 王の目が見開かれる。

 そうしてやっと銃声が王の耳に届いた。

「あ……?」

 広い肩の肉が弾ける。さらに膝の骨が裏側から砕け散る。

 銃声。血飛沫。衝撃。

 体の力が抜けた。痛みを感じる間もない。拳銃を握り締めていた右手までもが弾き飛ばされてしまう。さらに凄まじい衝撃が脳髄を揺らすと、気が付けば文久は仰向けに倒され、首を締め上げられていた。大蛇が如き圧倒的な力である。

 文久は思わず「はっ」と小さな笑い声を漏らした。何やら懐かしい想いがしたのだ。

「めんどくせぇ野郎が来やがったぜ……」

「お前のような男が一体ここで何をしている」

 荻野新平はそう声を落とすと、三角絞めの形で真下に締め上げていた文久の額に、グロッグ17の銃口を押し当てた。

「答えろ」

 野獣が唸るような獰猛な吐息である。一切の迷いない残忍な声色である。

 ただ、思いの外、高かった。

 新平は今や、家庭科室に蹲った二人の少年と変わらぬほどに、幼い見た目をしていた。

「クック、前回とは逆だなぁ、おい」

「もう一度聞く。小野寺文久。お前はここで何をしていた」

「なぁ荻野、テメェ──」

 銃声が轟く。

 王の頭蓋が弾ける。

 赤黒い飛沫が跳ね上がる。

 頬に掛かった血を片手で拭った新平はゆっくりと立ち上がった。そうして茜色に焼けた家庭科室を見渡す。静寂がまた校舎を包み込んでいく。

「おいお前ら、一体ここで……」

「あん時はよくも殴ってくれたな──」

 新平は咄嗟に体を捻った。だが、全く予期していなかった背後からの攻撃である。文久の拳が新平の頬を捉えると、今や少年の姿である彼の柔らかな体はいとも容易く、赤く焼けた窓辺のテーブルに殴り飛ばされてしまった。

「死ねや」

 白銀の銃口が火を吹いた。

 鈴木英子の悲鳴が木霊する。

 殴り飛ばされた勢いのままにテーブルの下に身を屈めた新平は、ふっと一息、呼吸を整えた。そうしてジッと耳をすませる。素早く左右に視線を送ると、天井に向かって拳銃を構える。グロック17が火を吹くと、同時に、床を蹴った。砕け散った蛍光灯の破片がパラパラと文久の眼前に舞い落ちていった。

 王は次々と引き金を引いた。

 標的は少年の姿である。狭い家庭科室の中である。少年は頬を赤く腫らしている。

 だが、追い付かない。

 その影すらも捕らえられない。

 荻野新平は変わらず不鮮明な陽炎の如く、突風に舞う木の葉のように不規則な速度で、気が付けば文久の顎の下に黒い銃口を合わせていた。

 文久の口元に皺が寄った。その瞳はいつの間にか黒々と澄んだ夜空の色に戻っている。

「このクソ野郎が」

 銃声が再び文久の体を貫いた。確実に、顎の真下から──。

 新平は僅かに表情を変えた。

 確かに撃ち抜いた感覚はあった。にも関わらず、王は変わらず傲慢な表情で、少年となった新平を冷たく見下ろしていた。

「ここじゃあ俺には勝てねぇよ」

 それは何処か、ほんの少しだけ、退屈そうな声色だった。

 新平は引き金に指を当てたまま、その言葉の意味を考えた。

「まさかお前、もう死んでいるのか?」

「いいや。俺は生きてるぜ」

「だが、殺せない。つまりお前は、いいや、そうか、今の俺たちには肉体が無いというわけか」

「そういう話じゃねぇよ」

 文久は頭を掻くと、新平の構える拳銃の前に無防備に首をさらけ出したまま、白銀の銃口を少年の額に構え返した。

「俺の方が強者だって話だ」

 銃声が鳴り響く。 

 素早く身を屈めた新平は、斜め上に銃口を構えると、背後に向かって声を轟かせた。

「行け!」

 山本千代子が動き出す。

 二人の少年と、窓辺で腰を抜かしていた女生徒を白い布で包み込んだ千代子は、家庭科室の出口に向かって駆け出した。

 そんな煤けた少女に白銀の銃口が向けられる。

 小野寺文久は瞳を黒く沈ませたまま、山本千代子の額を狙って、引き金を引いた。



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