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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章

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カスミソウ


 水口誠也は暗い階段を一目散に駆け降りていった。

 颯爽と一階に降り立つと、二、三歩ヨロける。右手はしっかりと握り締められている。

 そんな彼を待ち構えていたかのように、三原麗奈がヘソの前に腕を組み、壁に背中を預けていた。

「ほらこれ!」

 誠也はそう嬉々とした声を上げ、右手を前に差し出した。

 麗奈の空色の瞳がジッと細くなる。誠也がさらに右手を彼女の眼前にまで近付けると、ちょっとだけ寄り目になった。

「何?」

 麗奈の首が横に倒れた。困惑している様子である。

 誠也は「あっ」と慌てて手を開いてみせた。

「青い花だよ!」

 現れたのはてんとう虫ほどの小さな青い花だった。くてんと力無い花びらが彼の手のひらの上に横たわっている。

 麗奈は首を傾げたまま、ギロリと誠也の顔を睨み上げた。

「何これ?」

「オオイヌノフグリだよ。春の代名詞みたいな野花でね、果実が犬のキンタマみたいだからオオイヌノフグリって名前が付けられたらしくって……」

 麗奈は、ふっ、と誠也の手のひらに息を吹きかけた。すると青く可憐な花びらは無情にも闇夜に飛ばされていってしまう。「ああぁ」という誠也の情けない悲鳴が花びらの後を追った。

「全然ダメ」

「そんなぁ」

「君さ、そんな青いてんとう虫みたいなの貰って喜ぶ女の子がいると思ってるの?」

「青いてんとう虫だなんて酷いよ! ……え、てかこれって女の子にあげるための花だったの?」

 誠也は驚いたように顔を上げ、キョロキョロと辺りを見渡した。一階の校舎には簡素な人形が所狭しと並べられている。もしやこの人形の群もプレゼント用に作られた物なのだろうか。そんな事を考えると、誠也は何やら納得したような、呆れ返ったような気持ちになり、やれやれと首を振った。

「麗奈ちゃんって意外と古風なんだね。でも今どき、人形とお花じゃあ誰も喜ばないよ」

「今どきの子じゃないから」

「へ?」

「いいから早くプレゼントに丁度良さそうな花を探してきて」

「いや、でも校舎の中だし……」

「もうこの際、黄色でも白でも何でもいいから。ほら、せっせ!」

「そ、そんなに都合よく花なんか見つけられないよ!」

「花瓶があるじゃん。職員室とか保健室とかの。そこから抜き取ってくるだけの簡単なお仕事だよ」

「ああ、そっか。でも……ほら、あんまり動き回るとヤナギ霊が……」

「ねぇ君さ、私とヤナギの霊、どっちが怖いと──」

 麗奈はそこでピタリと言葉を止めた。空色の瞳を見開くと、ジッと視線を斜め上に、一階の天井を凝視する。

「どうしたのさ?」

「ヤバイかも」

 そう一言、麗奈は声を落とした。唖然とした表情だった。

 てんとう虫サイズの野花を拾い上げた誠也は怪訝そうに眉を顰めた。

「今度は何がヤバイって?」

「世界が」

「それはまた壮大な話だねぇ」

「急いで人形を仕上げないと……。ほら、何ボケっとしてるの! 早く人形を配って!」

「配るって何処に?」

「学校中に!」

「ちょっと待て。まだ全然足りないぞ」

 廊下の東側の被服室から、山田春雄がひょっこりと顔を出した。その手には縫い掛けの簡素な人形が抱かれている。

「一階の人形を減らせば足りるでしょ! そもそもこんなに引き詰める必要なんて無かったんだから!」

 麗奈はそう声を上げると、手近な人形を数体、誠也の顔面に押し付けた。

「とにかく急いで。このままだと本当に全てが終わっちゃう」

「世界がそんなすぐに終わるとは思えないけど……」

「先ずはこの校舎が終わる」

「ええっ! ……あれ、でもそれって良いことなんじゃ?」

「そうなる前に始末しなきゃいけないことがあるの! これはその為の罠なんだから!」

 そう叫び、人形を次々と誠也の顔面に押し当てていった。誠也は懸命に顔を振りながら、人形の一体を麗奈の顔面に押し返した。窮鼠猫を噛む。してやったりと頬を緩めた誠也だったが、人形の裏から現れた空色の光の冷たさに、すぐに青ざめてしまった。

 そんな二人を横目に、被服室を出た春雄は、縫い終えた人形を階段の一段目にそっと寝かせた。



 香ばしい匂いが漂っていた。

 日暮れ時の家庭科室には紅く暖かな光が溢れていた。

 コポコポとサイフォンに湧き上がる泡の音が心地良い。カップに満たされたコーヒーは月夜の泉のように艶やかである。斜陽にゆるやかな線を描く白い湯気。鈴木英子の小気味良い鼻歌が穏やかな空気に微かな模様を添えている。

 まさに落ち着いた午後に相応しいコーヒーブレイクであろう。だが、そんな麗しの香りに手を付けようとする者は誰一人としていなかった。

 早瀬竜司はもうその匂いを嗅いだだけで苦虫を噛み潰したように顔を顰めてしまい、山本千代子はちびちびと牛乳を飲むのに忙しそうで、吉田障子は大きな飴玉を頬の袋に心ここに在らずといった様子である。ここを訪れようと提案した鈴木英子もまた一向にカップに唇を近づける様子はなく、鼻歌まじりにコーヒーを淹れるばかり。やがて机の上が白い湯気の立つコーヒーカップに埋め尽くされていくと、さすがに無視出来なくなった竜司は「誰がそんなに飲むんだよ!」と鋭いツッコミを入れた。

「一人で楽しむコーヒーも素敵だけれど、やっぱりお友達と味わう時間は格別ね」

「飲んでねぇよ。誰もコーヒーなんざ味わってねぇよ」

 英子はルンルンと肩を弾ませながら、純白のカップなみなみにコーヒーを注いでいった。オレンジ色に焦がれた夕暮れが彼女の影を透かしている。そんな光景が、何故だか、どうしようもなく眩しい。

 しばらく彼女の姿を見つめていた竜司は、僅かばかり気まずい思いがして、ほんの少しだけ視線を逸らした。気怠げに足を伸ばしてみる。

「こんなにも沢山のお友達。とっーてもお久しぶりだわぁ」

「なぁ、お前って昔からコーヒーが好きだったのか?」

「子供の頃は飲めなかったわ。でもこうして大人になってみると美味しさが分かるのよ」

「まだ子供じゃねぇかよ」

 そしてもう大人になる事は叶わない。

 竜司はガシガシと頭を掻くと、おもむろに立ち上がった。隣で牛乳を舐めていた山本千代子が顔を上げる。そんな少女の煤けた頭をガシガシと撫でてやる。竜司は、一口くらいなら付き合ってやってもいいか、と英子の薄い影を透かす陽射しに目を細めた。日暮れの空は赤く焼けた雲に穏やかである。

「あのさ」

「なぁおい」

 男の声だった。

 竜司の声に重なる様に、低い男の声が、家庭科室の空気を震わせた。

「俺の一番嫌いな野郎がどんな野郎か教えてやろうか」

 気配はなかった。

 ただ低い声のみが、イヤホンを通して聞こえてくる音のように、耳の奥を木霊した。

 竜司は飛ぶようにして身を翻すと、家庭科室の扉を振り返った。

「テメェみてぇな何もかも半端なクソ野郎だ」

 竜司の目に映ったのは肩の広い、長身の男だった。

 傲岸不遜。唯我独尊。不撓不屈。眉目秀麗。晴明強幹。

 天性にして人の上に立つ資質を備えた王。

 小野寺文久の右手には白銀の拳銃が握られていた。

「哀れな女だぜ」

 その声が、その視線が、その怒りが向けられた先には猫っ毛の少年の姿があった。だが、その銃口が向けられた先に少年の姿はなかった。

 王の銃身が赤い陽差しを反射させる。

 屈折を知らない白い光の先。彼の標的は黒い影である。おかっぱ頭の少女はキョトンとした表情で白銀の銃口に向かって首を傾げていた。

 竜司は本能のままに拳を握り締めると、黒く煤けた少女を守るように、凄まじい怒鳴り声と共に、傲慢な王に向かって飛び掛かった。

 


「で、何だっつーのよ」

 睦月花子は白い包帯を片手に空色の目をした老婆を振り返った。保健室の夜は何処か寒々としており、されど空気は穏やかで、微かな消毒液の匂いが心地良い。青々と美しく染められたカスミソウが窓辺で月の光を浴びている。

「お主にあの子を任せたい。ただ押さえておいてくれるだけでよい」

 姫宮詩乃はそう言って、青い花を見下ろした。カスミソウの小さな花弁をそっと撫でる。老婆は暗い空に浮かんだ月を見上げた。

「あの子って誰よ」

「吉田真智子じゃ」

「初めからそのつもりだったけど?」

「お主一人では流石に無理じゃろうて。そう思うたからお主をあの子から引き離したんじゃ」

 花子はチッと舌打ちをした。太ももの火傷痕を包帯で覆い、ムスリと腕を組む。確かに老婆の云う通り、あのまま戦闘を続けていても埒が明かないどころか、やがてはやられてしまっていた可能性すらあり得た。

「はん、つまりお婆ちゃんと私の二人で吉田ママを押さえようって話かしら?」

「いいや。ワシにはやる事がある」

「じゃあどうしろっつーのよ! 分かってるとは思うけれど、今の怒れる吉田ママを上から押さえ付けようなんて、そんな簡単な話じゃないのよ。触れることさえ出来ないんだから!」

「分かっておる。じゃから今からその対抗手段を知るであろう者の元へお主を連れていく」

「そんな奴がいるの?」

「ああ。お主と其奴の二人、もしくは三人、或いは四人であの子を押さえてくれ」

 老婆の視線が天井付近を泳いでいった。花子は怪訝そうにその視線の後を目で追った。

「ともかく押さえるだけでよい。後の始末はワシがやる」

 老婆は相変わらず険しい表情を崩さなかった。ただその最後の一言のみ、ズンと生々しい重みを感じた。花子はため息をつくと、コキリと首の骨を鳴らした。

「わーったわよ。押えろっつーんなら幾らでも押さ付けといてやるわ」

「すまぬ」

「そもそも私ってただ吉田ママと面と向かって話がしたかっただけなのよね。まぁこれもちょうどいいチャンスかしら」

 カスミソウの花びらが揺れる。老婆の乾いた指先が窓際から離れる。その手には青い花の束が握られていた。

 花子は「うーん」と背筋を伸ばすと、余った包帯をゴミ箱に放り投げた。



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