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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第一章

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黒い女生徒


 中国語で素早く何かを呟いた田中太郎は発狂する三原麗奈の目を両手で覆った。夜闇の理科室に反響する呻き。悲鳴。絶叫。全身を激しく震わせて嗚咽する麗奈と共に座り込んだ太郎は、黒い部屋の向こうにジッと目を凝らした。

 無音。叫び。無言。騒音。

 何かが壊れていくような轟音を追うように睦月花子の怒鳴り声が暗闇に響き渡る。複数の足音が遠くに走り去っていくと重苦しい静寂が理科室を包み込んだ。少しずつ暗闇に目が慣れていった太郎は激しく鼓動する心臓を鎮めようと何度も深呼吸を繰り返した。

 ヤ、ヤバいぞ……。早く、ここから抜け出さないと……。

 意を決して立ち上がった太郎は泣きじゃくる麗奈をそっと抱き起こした。

「麗奈さん、歩けるかい?」

「ひっ……ひっ……」

「麗奈さん、大丈夫だから、落ち着いて。ここはマズいんだ、早く逃げよう」

「ひっ……ひっ……だ、誰っ?」

「僕だよ、田中太郎さ。憂炎と呼んでくれてもいいよ」

 そう暗がりでニッコリと微笑んだ太郎は、麗奈の茶色い髪を優しく撫でると、白い衣装に身を包む彼女の手を強く握りしめた。

「さ、もう大丈夫だからね、行こう、麗奈さん」

「ひっ……ひっく……だから、誰、なの?」

「大丈夫、大丈夫。僕だから安心して」

「……ひっ……王子、じゃない、です」

「麗奈さん……?」

「いや……ひっ……いやあっ、だ、誰なの? ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 麗奈の様子が明らかにおかしい。ほっそりとした肩をガタガタと震わせた彼女は何かから逃れようと体を捻っていた。

 ま、まさか……。でも、何故、彼女に……?

 心臓が締め付けられるような恐怖心を覚えた太郎は、恐る恐る、ゆっくりと視線を上に向けていった。暗闇に慣れた彼の目に廊下の影からこちらを覗く短い髪の女生徒の笑顔が映る。左右に分けられた前髪。黒いセーラー服から伸びる黒い手足。横に開かれた口から覗く異様に白い歯。

「な、何でだよ……」

 太郎の全身を悪寒が走った。目を開いた麗奈は鋭い絶叫と共に気絶してしまう。気を失った麗奈を抱きかかえたまま太郎は震える膝に力を込めてゆっくりと後ずさっていった。

「れ、麗奈さん、それに田中くん、大丈夫かい?」

「し、新九郎か!」

 何故か床に倒れていた超研副部長の鴨川新九郎はボンヤリと視界の揺れる目を右手で押さえると、膝をついてフラフラと立ち上がった。

「た、田中くん、何が起こったんだい? 何で、こんなに暗いんだ?」

「説明は後だ! 逃げるぞ、新九郎!」

 怒鳴り声を上げた太郎は麗奈の体を持ち上げると、理科室の反対側の出入り口に走り出した。慌てて新九郎がその後を追う。廊下に出た太郎は中国語で何かを叫ぶと、割り箸で作られた木剣のようなものを黒い女生徒に投げつけた。

「ヤバイぞ、クソッ! 新九郎、部長は何処だ!」

 黒い女生徒の視線が意識のない麗奈のアッシュブラウンの髪を追う。新九郎には黒い女生徒が見えていないのか、気を失った麗奈の横顔ばかりを心配そうに見つめていた。

「部長はいつも通り、一人で何処かに行っちゃったんだと思うけど……。それより、麗奈さんは大丈夫なの?」

「わ、分からん。き、気絶しただけだと願いたいが、ヤバいかも知れん」

「ヤバいって、何が?」

「ヤ、ヤナギの霊に、目、付けられてるんだよ、この子」

「ええっ!? なんで?」

「し、知るか! は、はぁ、ダ、ダメだ、新九郎、変わってくれ」

 麗奈を背負って階段を駆け上がった太郎は崩れ落ちるようにして踊り場に膝をつくとハアハアと肩で息をし始めた。麗奈を軽々と肩に抱えた新九郎がそんな太郎の背中を摩ってやる。

「田中くん、取り敢えず外に出ない?」

「ダ、ダメだ、俺たちだけで出るのはマズい」

「ああ、部長たちも一緒にって、こと?」

「違う、先ずはあのガキを出すんだ」

「あのガキって?」

「さっき理科室に来た、吉田っていう一年だ。アイツを見つけ出して、学校の外に出すぞ」

「……相変わらず意味が分からないけど、こんな状況だし、君を信じるよ」

 新九郎はやれやれと肩をすくめて微笑んだ。階段の踊り場に膝を付いた太郎の手を取った新九郎は、麗奈を肩に抱いたまま、背の高い太郎の体をグッと上に持ち上げる。

「田中くん、取り敢えず部長を探そうよ。ヤナギの霊なんて聞いたら、部長きっと飛び上がって喜ぶよ?」

「ああ、だろうな」

 やっと落ち着きを取り戻した太郎は階下の暗闇を睨んだ。



 睦月花子は吉田障子を追って階段を駆け上がった。右手に引き摺られる理科室のドアが段差で大きく跳ねる。

 あのクソガキ、見つけたらタダじゃおかないわよ……。

 三階の廊下に灯りはない。理科室のドアを壁に立て掛けた彼女は警戒したように周囲を確認すると、火傷した左手に唾を吐いた。

 火、じゃないわよね? 焼けた鉄、いえ、硫酸かしら?

 左手の痛みが血流に合わせて振動を続ける。気にせず顔を上げた花子はドアを左手に暗い三階の校舎を歩き出した。

 それにしても、これ、ちょっと普通じゃないわね……。

 暗い廊下の向こうに花子は目を細める。突然訪れた夜の校舎に戸惑いながらも、花子は期待と興奮に高鳴る胸の鼓動が抑えられなかった。

 明らかにこれは心霊現象的な何かね……。なんでこんなことになったのかは分からないけれど、超自然現象研究部部長の名にかけて、この怪奇現象を解き明かす必要があるわ。全く腕がなるじゃないの。

 ふふんっと鼻で息を吐いた花子は興奮のあまり勢いよく肩を回してしまった。花子の腕に引っ張られた理科室のドアが宙を舞うと、廊下の窓が激しい音と共に粉砕される。

 あちゃあ、と眉間を押さえた花子は取り敢えず空いた教室に身を隠すと、静寂の闇に耳を潜めた。

 

 






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