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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章

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天災


 睦月花子は負傷した左腕を押さえた。

 焼けた鉄が血管を流れるような激痛を覚える。それでも骨は折れていないようで、花子は暗い夜の校舎を駆け抜けながら、チッと背後を振り返った。

 不味いはね──。

 その光景はまさに天災であった。

 錆びた歯車が軋むような不快音と共に、天井、壁、窓ガラスが円形に捩れ、暗闇の中心に向かって潰れていった。まるで廊下がブラックホールに呑まれていくかのようだった。もはや攻撃などといった単純な言葉では追い付かない。神か悪魔の鉄槌が如き、それは人智を超えた殺意だった。

 花子はクッと喉を鳴らすと、迫り来る空間の歪みを尻目に、階段を駆け上がっていった。

「許さないから──」

 枯れた女の声が耳元で囁かれる。

 花子は前に倒れ込むようにして身を屈めた。

 無数の光が頭上を通り過ぎると、階段の前の壁が爆音と共に弾け飛ぶ。ハンドスプリングの要領で勢いよく腰を捻った花子は、黒い煙の吹き荒れる爆風の中、くるりと体を反転させた。そうして両足で着地すると、同時に、体勢を低くした。白い腕が眼前に迫っていたのだ。それは痩せた女の腕だった。息つく暇もない。まさに殺意の塊である。

 女の腕を避けつつ、左手を廊下に付いた花子は、右足を振り上げた。蹴りを入れるためではなく腰を捻るためである。その勢いのままに、右足を振り下ろした花子は、左回し蹴りを女の肩に落とした。到底反応など出来ない角度からの蹴りであり、受けることなどかなわない圧倒的破壊力だった。だが、それでも迫り来る殺意を止めることは出来なかった。痩せた女──吉田真智子は今やまさに夜を彷徨える亡霊であるが如く、その実体が無かったのである。

「あり得ないでしょーが!」

 花子はそう叫ぶと、下から突き上げるように、右の手刀を真智子の首に入れた。だが、やはり当たらない。喉をすり抜けたという感覚ではなかった。まるで初めからそこに何も無かったかのような──暗く膨大な影を相手にしているような感覚だった。

 真智子の左手が無防備となった花子の頬に添えられる。文字通り、そっと撫でるような仕草である。

 夜の校舎が横に震えた。それ程までに凄まじい衝撃だった。

「しまった」と叫ぶ間も無い。気が付けば花子の体は校舎の端の壁に叩き付けられていた。おおよそ数十メートルの距離を叩き飛ばされたのだ。

「ク……ソッ……」

 花子はペッと唾を吐いた。赤い血が廊下に落ちる。

「絶対に許さないから──」

 前方から痩せた女の影がゆらりゆらりと迫り来る。

 花子は「はん」と息を吐き出すと、おもむろに右腕を横に広げた。教室側の壁に指を食い込ませ、そうしてダンッと左足を前に出す。

「上等だっつーの!」

 壁を剥がす動作では無かった。重いものを前に引き摺るような体勢である。花子は額に青黒い血管を浮かばせると、壁を掴んだ右腕ごと、身体を前に倒した。

 ゴッ──という鈍い音が響き渡る。

 天井に無数の亀裂が走ると、壁の上下から砂埃が上がり、並んだ小窓のガラスが一斉に弾け飛んだ。

 そこは二階の校舎だった。その南側の壁全体が真横に動いたのだ。

 ガラスの破片がパラパラと雨のように夜を舞った。

 そんな煌めく雨の中を花子は駆け出した。

 一歩で教室を越える。ガラスの破片が花子の頬を切り裂いていく。だが、花子は惑わない。前方から迫り来る痩せた女もまた一切の躊躇を見せなかった。

 砕け散ったガラスが廊下を弾んだ。刹那の時。二人の女の腕が夜闇に交差した。花子の右拳が真智子の頬を捉える。真智子の左手が花子の頬に添えられる。そうしてそのまま二人の影が離れてしまう。花子の拳が真智子に当たることはなかった。そして真智子の左手もまた花子を捕らえられなかった。

 何か仕掛けがある──。

 花子はそう思った。

 月光を透かすガラスの雨が二人の影を乱反射させる。

 散らばったガラスを踏み締めるように、片足で体を反転させた花子は教室の扉を手を伸ばした。壁全体がズレてしまった影響だろう。力を入れずとも扉は簡単に外れてしまう。だが、それを構える暇はなかった。花子の体が後方に弾き飛ばされる。真智子の手が花子に触れる方が早かったのだ。

 蹴り飛ばされたボールのような勢いだった。花子は咄嗟に後頭部を押さえた。常人であらばとっくに死んでいるであろう衝撃が幾度となく花子の全身に襲い掛かる。視覚と聴覚と触覚の情報が右往左往する。それでも花子はハッキリと意識を保っていた。落ち着いた動作で壁を蹴り、窓枠を掴み、そうしてまた壁を蹴り──何とか体勢を立て直した花子は「不味いわね」と額から流れ落ちる血を拭った。吉田真智子は今や怨念の塊が如きであり、その殺意も悪意も感情も行動も、花子の手に負えるようなものではなくなっていた。

 轟音が迫る。暗闇を切り裂いてきたのは光の槍である。

 ギリギリのところでそれを避けた花子はグッと奥歯を噛み締めた。触れることすらかなわない相手であった。仕掛けが分からないことには立ち向かう術もない。

 花子は軽く舌打ちすると、揺れ動く怨霊の影に背中を向け、また夜の校舎を駆け出した。



 理科室は土の匂いがした。

 何処からかカエルの声が聞こえてきそうな、そんな静かな夜であり、窓の向こうは透き通った夜空に星々が瞬いていた。

「何も変わったもんはねぇな」

 鴨川新九郎はそう呟いた。田中太郎は「ああ」と相槌を打つ。そこが夜であるといった以外に理科室には何ら目新しいものはなかった。それはここに来る前から分かり切っていたことだった。

 窓辺に立った徳山吾郎と長谷部幸平が校庭のため池を覗き込んでいる。野洲孝之助は腕を組み、憮然とした表情で月を眺めている。姫宮玲華と宮田風花はいったい何処から持ってきたのか、実験台の上にトランプを広げて遊んでいた。

 吉田障子はといえば何をするでもなく、ひたすらに気の抜けたような表情で、暗い天井を眺めていた。そうしているとまた夢と現実の境界が曖昧になってくる。障子は徐々に自我を失っていき、そうして誰のものかも分からない記憶の中に迷い込むと、ブツブツと独り言を始めた。

 とにかく、とにかく、とにかく、あの人を──。

 それであたしは──。

「おい、大丈夫かよ」

 肩を揺すられ、ハッとする。

 目を見開いた障子は訳も分からず顔を赤らめた。

「寝てたのか?」

 障子はオロオロと肩に置かれた手に視線を落とした。そうして後ろを振り返る。すると心配そうに首を傾げた田中太郎と目が合ってしまう。さらに赤々と顔を茹で上がらせた障子は「あうぅ……」と唸りとも相槌ともつかない情けない声を漏らした。

「ね、王子はちょっと様子がおかしいんだよ!」

 玲華はトランプを顔の前に広げたまま、ふふん、と右手で注射を打つような仕草をした。自分の判断が正しかったとでも言いたげである。そんな彼女の態度が多少気になりはしたが、そんな事よりも障子は、どうにも熱くてたまらない顔の火照りに狼狽した。自分は男なのだと、初恋の異性である三原千夏の笑顔を必死になって思い浮かべる。同性である田中太郎の存在に心を乱してしまう自分がたまらなく嫌だった。

 そんな障子の葛藤に太郎が気付くことはない。「何かあったら俺に言えよ」と、まさにこの不幸の渦の中心にいるであろう哀れな後輩──吉田障子に向かって優しげな笑みを浮かべた。そうして太郎は理科室を見渡す。徳山吾郎と長谷部幸平はすでに窓辺にはおらず、何やら気怠げにビーカー等の並んだ棚を漁っていた。

「何か分かったか?」

 太郎はそう声を上げた。

 幸平は顔を上げると、腕でバッテンを作った。

「何も。ここからじゃ天使像は見えないし、職員室とかに行って昔の資料を探した方がいいかもしれない」

「いいや、これ以上動き回るのは得策じゃない」

「うーん」

「分かんねぇなら分かんねぇでしょうがねぇさ」

 幸平は曖昧な表情を返した。確かにその通りだと思う反面、やはり性分からか、謎を謎のままにしておきたくはなかった。

「ねぇ吾郎くん、さっきから何を探してるの?」

 玲華はそう首を傾げると、風花の手の中からトランプカードを一枚抜き取った。それがババだと分かると、ムッと眉を顰める。

「いや、何か記録でも残ってないかと思ってね」

「何の記録?」

「天使像の記録さ。七不思議の一つにその天使像の話が出てくるんだよ」

「ふーん」

 玲華はさも興味なさげに息を吐き出すと、唐突に、天井に向かってトランプを放り投げた。パラパラと白と黒の影が床に舞い降りる。風花は唖然として固まってしまった。

「なーんか飽きちゃった」

 そう言って玲華は立ち上がった。嫌がる障子の頭をヨシヨシと撫でると、理科室を見渡すように顔を上げる。そんな彼女の整った表情に皆の視線が集まった。

「ねぇ、そろそろ終わりにしようよ」

「トランプの話か?」

「この夜を終わらせるって話」

 玲華の紅い唇が横に広がる。

 長い黒髪がさらりと流れる。

 彼女らしくない妖艶な表情だった。

 新九郎と太郎は顔を見合わせた。

「どうやってだよ?」

「とっておきの秘策があるの」

 玲華は老獪な魔女であるが如く、いひひ、と不気味に微笑み、ほっそりとくびれた腰に手を当てた。雪原に散った鮮血のように唇が紅い。その表情には一切の揺らぎが見えない。夜空の星々を反射させたように黒い瞳が煌めいている。ただ、それでも彼女は彼女だった。

 太郎は「そうか」頭を掻いた。また突拍子もないことを言い始めたと何やら面倒臭くなったのだ。

「その……まぁあれだ。秘策があるってんなら何で黙ってた?」

「だって障子クンに王子ってあだ名をつけた人を見つけるのが先だし。でもそれって単なるあたしのエゴだよねって、ついさっき気付いちゃったんだよね」

「へぇ」

「そもそもあたしって自分のことをヤナギの霊だって思ってたわけじゃん? よほど王子の身に危険が及ばない限りは、この夜を終わらせるつもりなんてなかったんだよ」

「因みにその秘策って何だよ?」

「Bー29を撃ち落とすの」

「は……?」

「それで皆んなを助けられるでしょ?」

 絶句する。

 太郎はまた新九郎と顔を見合わせた。

 だが、新九郎は彼女の言葉の意味を理解していないようで、太い首を傾げたままだった。

 ゆっくりと視線を横に動かしていく。そうして理科室の棚の前にいた吾郎、幸平と視線を合わせた。コクリと意味もなく互いに頷き合ってみる。二人もまた彼女の秘策とやらに衝撃を受けているようだった。やっと開きっぱなしだった口を閉じた太郎はモゴモゴと舌を動かすと、紅い唇をキラキラと煌めかせる玲華に視線を戻した。

「どうやって……?」

 まともに聞き返す言葉が思い浮かばなかった。

 それ程までにとんでもない秘策だったのだ。

 彼女の云うBー29とはおそらく空襲の際の米軍の戦闘機のことだろう。それを何らかの方法で撃ち落としてしまおうというのだ。そうして戦中に起こったこの学校の悲劇自体を消し去ってしまおうと、それが秘策であると、そのくらいの想像は付いた。が、そもそもが常人の思考ではなかった。あまりにも発想が飛躍している。それが可能か否か。それが及ぼす影響は何か。咄嗟にそこまで考える余裕はなかった。

「地対空ミサイルだよ! 現代の技術力を持ってして鬼畜米兵をコテンパンにやっつけるの!」

「へぇ……」

 太郎はまた棚の前に視線を送った。吾郎もまた言葉を失っているようで、黒縁メガネを鼻の上でズラしている。

 幸平はといえば何やら耳の先を真っ赤にしていた。事情をよく知らないが為に、彼女の素っ頓狂な発言に、共感性羞恥を覚えてしまったのだ。そのままシンと理科室が静まり返ると、どうにも居た堪れなくなった幸平は、ウホンと咳払いをした。

「あー、玲華ちゃんだっけ? その……Bー29ってのは戦闘機のことだよね? 確か、大戦中の」

「うん! 空襲がそもそもの元凶なわけだからね。それ自体をなかったことにすれば、全てが丸く収まるってわけ!」

「へぇ……」

 幸平までも絶句してしまう。

 すると、それまで静観を決め込んでいた野洲孝之助が、ひどく呆れたような低い声を出した。

「そんな事、出来るはず無かろう」

「また君? もう帰っていいよ?」

「空襲を無かったことにするなどと、この大馬鹿者め。いったい何十年前の話だと思っている。お前は頭が逝かれてるのか」

「それが出来るんだけど? この夜の校舎は現代から戦前まで時間が繋がってるからね」

「はっ、馬鹿らしい」

「馬鹿は君でしょ。君こそ今まさに怪異の真っ只中にいるわけだけど、もしかして現実逃避してるの?」

 玲華は紅い唇に人差し指を当てると、純白の特攻服を着た堅物の男を小馬鹿にするように、半笑いに目を細めた。相当嫌いなようである。孝之助はカッと表情を変えるも、頭の弱い小娘相手にこれ以上感情をむき出しにするのは癪だと、唇を震わせながら深く息を吐き出した。

「たとえ……ああ、たとえだ。百歩譲って空襲の現場に行けたとしよう。それでも戦闘機を撃ち落とすなどと、素人には不可能な話だ。絶対にな。たとえ地対空ミサイルがその場にあったとしても不可能だ」

「部長がいればいけるんじゃね?」

 新九郎がそう呟く。

「流石に無理だろ」と太郎はやっと正気に戻ったように首を振った。

「君には無理でもあたしには可能だけど?」

「どうやって? Bー29は高度二千メートルから一万メートル上空を飛行しているのだぞ? その高さからの爆撃をどう防ぐ?」

「だからミサイルで撃ち落とすの!」

「撃ち落とすと簡単に云うが、相手は巡航速度おおよそ時速三百キロ、最高速度ともなれば六百キロ近くなる化け物だ。それほどの速さで、さらには二千メートル以上離れた上空を通過する戦闘機を、お前は地上からどう撃ち落とすつもりだ?」

「だから地対空ミサイルで……」

「そもそもその地対空ミサイルは何処にある?」

「それはこれから……」

「ああ、分かった。さらにもう百歩譲って撃ち落とすことが可能であったとしよう。それで、だ。どうしてわざわざ戦闘機を攻撃する必要がある? 生徒や教師を避難させた方が遥かに効率がいいではないか? そもそもその戦闘機にだって家族や恋人を待つ生身の人間が乗っているのだぞ。お前は先ほど、鬼畜米兵などと時代錯誤も甚だしい差別用語を吐き捨てていたが、よもや殺戮を楽しみたいだけではないのか? ミサイルで戦闘機を撃ち落とすなどと……全くもって馬鹿馬鹿しい! お前はいったい何処まで愚か者なんだ!」

「うえぇーん! 王子ぃ!」

 わあっと紅い唇が大きくなる。完膚なきまでに言い負かされたのである。

 あとはもういつもの彼女だった。ガバッと覆い被さるようにして障子に抱き付くと、おんおんと涙を流し始めた。

「皆んなを助けたかっただけだもん……。千代ちゃんと夏子ちゃんに幸せな大人になって欲しかっただけだもん……」

「ちょ、ちょっと、なんか重いって」

「ねぇ王子ぃ……。それってイケないことなの……?」

「知らないよ! とにかく一旦離れて!」

 グスンと玲華は喉を鳴らした。見かねた風花がヨシヨシと彼女を慰め始める。やっと彼女の胸の辺りの柔らかな何かが頬から離れると、障子はほおっと息を吐き出した。

「撃ち落とせるもん……。それで空襲を止められるんだもん……」

「ね、ねぇ姫宮さん」

 障子は思春期の動揺に気を付けながら、チラリと彼女の横顔を見つめた。少しだけ気になったことがあったのだ。

「その、千代ちゃんとか夏子ちゃんって、誰のこと?」

「千代ちゃんと夏子ちゃんはあたしのお友達……。皆んな、皆んな戦争で死んじゃって……。だから助けに行かなきゃいけないの……!」

「そっか……。ええっと、それで、二人の他にもう一人いなかった?」

「しょう子ちゃんのこと……?」

「たぶん」

「千代子ちゃんと夏子ちゃんとしょう子ちゃん、そして、あたし。戦中のあたしたちはね、もうね、本当に仲良し四姉妹みたいなものだったの。本当に仲が良くって、本当の本当に……四人で一つみたいな感じだったんだから!」

 何やら元気を取り戻したようである。

 玲華はそう高らかに声を上げると、濡れた瞳をゴシゴシと拭い、ニッコリと朗らかに腰に手を当てた。

「千代子……。夏子……。しょう子……」

 千夏。障子。

 障子はギュッと手を握り締めると、不安げに床を見つめた。

 偶然だろうか──。

「千代子ちゃん、夏子ちゃん、しょう子ちゃん……。千夏ちゃん、障子くん……。それであたしは……」

「どうしたの、王子?」

 ぎゃあ、と飛び上がる。

 気が付けば玲華の紅い唇が目の前にあった。

 慌てて距離を取った障子は「何でもないから!」と肩を怒らせた。

 


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