花
「千代子を殺す」
そんな言葉を落とした。
それっきり三原麗奈は押し黙ってしまった。
丸椅子に腰掛け、ほっそりと長い脚を組み、夜の家庭科室に視線を漂わせる。彼女の周囲には顔の無い人形が並んでいる。
山田春雄と水口誠也は、せっせと人形を縫い合わせていた手を止めると、ゾッとして顔を見合わせた。聞き捨てならぬ言葉である、と。空気が凍り付くような張り詰めた静寂が訪れる。
「殺すとか……」
針と赤い糸を膝下に置いた誠也は、そろりそろりと天井に向かって片手を上げていった。
「そういうのは良くないと思うけど?」
麗奈は口を開かない。
無言のまま、ゆらりゆらりと、ただ空色の瞳を揺らめかせるのみである。
春雄は「おい」と注意すると、軽い肘打ちを誠也の脇腹に入れた。黙って作業を続けろという意味である。
誠也はムッとして腹をさすったが、特に口答えはしなかった。じっとりと春雄を睨み上げたのみで、すぐに人形を縫い合わせる作業に戻る。暴走族の総長であり、元プロボクサーでもあるという春雄の威圧感に僅かながらも怯んでいたのだ。
春雄もまた誠也とはなるべく視線を合わせないよう気を付けていた。心霊学会の顧問弁護士であり、海外の大学を卒業しているという誠也の優秀さに、彼もまた脅威を覚えていた。さらには重度の変態であるらしく、彼は弁護士でありながらも、写真部の顧問として、進んでこの共学の高校に足を踏み入れたという。彼の身に纏われたセーラー服がその事実に確信を与えていた。頭の切れる変態などと、絶対に関わるべきではない相手だと、春雄は先ほどからずっと俯きがちだった。
黙々と人形を縫い合わせるだけの時間が過ぎていく。
それは赤子ほどの大きさの簡易な人形だった。頭の大きな二枚の白い布をしっかりと縫い合わせ、そこに紙切れを詰め、最後に口の部分に赤い糸を通す。不気味で可愛げなく安っぽい人形である。作っている本人たちですら一向に愛着を覚えない。いったい何故こんなものを作らされているのか──誠也は幾度となく、彼らに人形を作れと命じた麗奈のアッシュブラウンの髪を不満げに睨み上げていた。
「せっせ、は?」
冷たい声が落ちる。
誠也は顔を伏せると、せっせ、とまた人形を縫い始めた。
青いジャージ姿の麗奈は先ほどから丸椅子に腰掛けたままだった。頬の火傷跡さえ除けば、目鼻立ちのはっきりした優美な表情に、少し垂れた目が嫋やかであり、一目で異性を魅了してしまうだろう魅力は兼ね備えている。そんな彼女が総勢七十名からなる暴走族集団を従えていたなどと、にわかには信じられない話だった。
誠也は疑わしげに視線を上げた。
「せっせ」とまた声が落ちる。
誠也は慌てて作業に戻った。
現に、今まさに彼の目の前で、暴走族らしい黒のつなぎを着た不穏な青年が彼女の膝下に首を垂れているのである。そうでなくとも、例えばヤナギの霊である吉田真智子にガス爆発の罠を仕掛けた件や、この夜においての尋常ならざる落ち着いた態度、空色に薄れていく瞳の色──構造色を備えたカラコンの類ではないかと彼は疑っていた──等々、彼女が安易ならざる存在であろう事実は着実に積み上げられていた。心霊学会を潰そうとしていたという話には流石に苦い笑みを浮かべたが、前回彼らを夜の校舎送りにした首謀者が麗奈であるという話には頬を引き攣らせた。あな、恐ろしや。もう逆らえないと、誠也は苦悩の涙で心を濡らしながら、彼女の命令に付き従っていた。
「殺す──か」
ため息のような声だった。
誠也はギョッと顔を上げ、春雄が「おい」と肘を入れる。
もはや家庭科室は縫い合わされた人形に埋め尽くされんばかりだった。一番ふっくらと出来の良い人形は麗奈の膝の上に置かれている。
「ねぇ、どっちが良いかな」
誠也が顔を上げると、春雄がまた肘を入れる。だが、今度は誠也も抵抗を示した。今のは明らかに自分達への質問だっただろと、春雄の太ももを針でグサリ。春雄は飛び上がると、ムッと太ももを摩った。
「殺しちゃった方が楽だよね?」
誠也は困惑の表情で首を振った。脈絡のない質問である。ただ、不穏だった。
「殺す以外の方法で行こう」
春雄は人形の一体を誠也の顔面にぶつけると、太ももを押さえたままのそりと立ち上がった。「物騒なのはうんざりだ」と自分の意思を示す。
誠也もまた立ち上がると、人形を二体、春雄の顔面に投げ付けた。同時に「彼に一票」と声を張り上げる。二体の人形は軽くスウェイバックした春雄の顔を逸れ、そのまま麗奈の額を捉えた。
シンと空気が凍り付く。
「喧嘩かな?」
ぶんぶんと首を振る。
互いに肩を抱き合った二人はニッコリとして、青紫色に強張った唇を横に広げた。
「ラブアンドピースだよ、ね? 麗奈ちゃ……」
誠也は言葉を止めた。
まばたきする間に、麗奈の両足が床に伸びていたのだ。立ち上がるまでの動作が見えなかった。
誠也は驚いて、身構えるポーズを取ってしまった。すると気が付けば、麗奈の姿が眼前から消えている。そうして彼の横を通り過ぎていく彼女の薄い影にギョッとした。
「れ、麗奈ちゃん?」
まるで映像が飛ばされているかのようだった。誠也から見て、麗奈の動きはひどく断続的だった。廊下に向かったかと思えば、窓辺を歩いており、立ち止まったかと思えば、いつの間にやら細い足を組み、家庭科室の長机に腰掛けている。空色の瞳は虚空に漂わせたままである。いったいこれは何なんだ、と、まばたきする間にまた麗奈の姿が消えてしまっている。真横に空色の光を見た誠也は立ったままブクブクと泡を吹いた。
ボクサーである春雄は感心していた。家庭科室は人形に埋め尽くされ、足の踏み場もないほどだった。そんな雑多の中、僅かにも人形を動かさない麗奈の足運びには、一切の無駄がなかった。まるで舞台の上を舞い踊っているかのようであり、初めから歩く位置が、その何気ない動作の一つ一つが定められているとしか思えない洗練された動作だった。
春雄は「ほお」と腕を組み、彼女のバランスの良さに刮目し、そうして首を傾げた。確かに洗練された美しい動きではあったが、彼女が何をしているかといえば、ただ家庭科室の中を練り歩くばかりだった。それ以上の変化は無い。そのままどれほどの時間が過ぎ去ると、春雄はじっとりと湿った手のひらを服で拭った。もしや何かに取り憑かれているのではなかろうか、と、そんな不安感を覚えたのだ。隣では、やっと目を覚ましたらしい誠也がキョロキョロと必死に麗奈の影を目で追っていた。
「そうだ」
麗奈は唐突に立ち止まると、おもむろに右手を前に出した。
「花にしよう」
その言葉の通り、それは一輪の花をそっと差し出すようなポーズだった。ただ、彼女の前には夜の闇が広がるばかりで、誰もいない。
「花がいい」
そう呟いた。
空色の瞳を閉じると、彼女は体の力を抜いた。
「花──」
時間が過ぎ去っていく。
麗奈はいつまでもオペラ歌手さながらに右手を掲げたままである。
次第に春雄は奇妙な印象を覚え始めた。
よく見れば指先を擦っていたり、手を上下に揺らしていたりと、彼女には僅かながらに動きが見られた。が、そこに彼女それ自体を象徴するような洗練されたものはなかった。まるで何かをしようと試み悶えているような、ひどく散漫な動きだった。
誠也が痺れを切らし、麗奈に声を掛ける。
「ねぇ、さっきから何してるのさ?」
麗奈はゆっくりと右手を下ろすと、アッシュブラウンの髪をかきあげた。
「麗奈ちゃん、大丈夫?」
「君に心配されると虫唾が走る」
辛辣である。
誠也はやれやれと人形を一体手に取った。ただ縫い合わされただけの簡素なそれに、せめて花の模様でも描いてやろうか、と赤い糸を通していく。
「青い花」
誠也は手を止めると、顔を上げた。
空色の星が二つ、夜に浮かび上がっているようである。
麗奈は薬指を左の頬に滑らせながら天井を見上げていた。
「青色の花がいい」
「青ね。おっけー」
「じゃあ摘んできて」
「へぇ?」
「人形は別で使うから勝手に針は通さないでほしいな。君だって勝手に額を縫われるのは嫌でしょ?」
誠也は慌てて人形から針を抜いた。
「青い花を取ってきて」
「ええと、それはいづこに……?」
「何処かに生えてるよ。バラでもベロニカでも、とにかく青色なら何でもいいから、早く」
口調は静かだった。が、有無を言わせない冷たさが備わっていた。
安請け合いは禁物だったか。誠也は解いた赤い糸を指先で捏ねながら、しょんぼりと肩を落とした。
睦月花子は咄嗟に身を屈めた。
不穏な気配をその獣のように尖った聴覚で捉えたのだ。
廊下の壁が突如として形状を変え、幅の広い刃となって、花子の頭上を通り越した。長い白銀の刃に引っ張られるように夜空を映す窓ガラスまでもが形を伸ばしている。教室側の壁が上下真っ二つに切断された。
花子は素早く舌を打ち鳴らした。身体を捻ると、切断された壁の下半分に指を食い込ませる。そうして引き剥がす動作そのままに、振り返る事なく、真後ろに向かって壁を放り投げた。そこに確かに吉田真智子が居るであろうと──花子は目を瞑っていた。それは彼女の正面に小太りの少女が立っていた為である。
花子は現在、三人目のヤナギの霊である村田みどりと交戦中だった。
ちょきん──。
二の腕から血が吹き出した。だが、花子は構わない。前回の夜の校舎での経験からエコーロケーションを体得していた花子は自身の足音や舌打ちの音の反射でみどりの位置とその動作を正確に把握していた。薄皮一枚は裂かれるものの、彼女の攻撃が自分の心臓に届くことはないと、花子は冷静だった。ただ、それは正面に立つ醜い少女に対してのみの話である。背後にいるであろう吉田真智子の憤怒は、花子の鋼の肉体を貫くのに十分な威力を備えていた。
花子の腕が獲物に飛び掛かる大蛇の如くみどりの柔らかな首元に伸ばされる。廊下を蹴ると同時の事である。みどりとはまだ教室一つ分ほど離れていたが、超人の域にある花子の脚力を持ってすれば十分な距離だった。殺しはしないと、ただ意識を奪えさえすればそれでいいと、花子は呼吸を乱さなかった。
「止めろ──」
声が届いた。
ふと、頭の中に思い浮かんだような、そんな静かな声だった。
みどりの声ではない。静かで低いその声からは少女の純粋さなど微塵も感じられない。それは脆く崩れそうな女の感情だった。
花子の体が廊下に仰向けに叩き付けられる。あと一歩のところでみどりの首筋に指が届くという所だった。衝撃ではない、単純な重さが背中にかかったのだ。凄まじい重量である。さらには振り解くことの難しい柔らかな圧迫感であり、廊下にうつ伏せに倒された花子の背中には液体とも気体ともつかない、雲のような、影のような、重力の塊のような何かが、じんわりとのし掛かっていた。
「もう何も壊させない──」
気が付けば女の気配がすぐ首元にまで近づいていた。花子は依然目を閉じたままである。だが、見えずとも、その圧倒的な女の感情が威圧感となって花子の首筋の産毛を逆立てた。
「ここはあたしが守る──」
「はん」
どうにも力だけでは押し返せそうになかった。じんわりとした重さが足の先から頭までを均等に埋め尽くしており、それは例えようのない初めての感覚で、どのように力を加えればそれを振り払えるのかが分からなかった。だが、いつもの如く花子は落ち着いていた。冷静に目を開けると、正面に立つ醜い少女の足元に視線を送った。
「アンタには他に守るもんがあるでしょーが」
みどりの足元からゆっくりと視線のみを上げていく。すぐ側に立つ吉田真智子には目もくれない。何となくではあったが、吉田真智子がそれ以上の攻撃を加えてこないだろうことを察していたのだ。もし来たのであれば、それはそれで良し、と。花子は液体とも影ともつかない何かに重なる攻撃を期待していた。
ちょきん──。
色のない膜に裂け目が入る。ちょうど花子の左腕の位置である。
自由になった左手を素早く揺り上げた花子はリノリウムの廊下に手のひらを振り下ろすと、左腕一本でみどりに向かって身体を前に進ませた。
バンッ──。
正面から波のような衝撃がぶつかる。
すると花子を覆っていた膜が煙のように霧散する。
その瞬間、花子の全身の筋肉がバネのように躍動した。
みどりの放った衝撃の波が過ぎ去る頃には既に、ストンと両足を付いた花子と暗い瞳をどんよりと溶かした真智子が、暗闇の中、正面から睨み合っていた。
「こんなウジウジと暗いとこ、私にはどーだっていいのよ。とっとと息子抱きしめてやんなさいっつー話よ!」
「黙れ──」
真智子の影が動いた。
夜に溶け込むように、闇を呑み込むように、女の感情が周囲を歪ませていく。
花子はやれやれと額に青黒い血管を浮かべた。