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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章
194/254

代償


 旧校舎の三階を訪れる者はほとんどいなかった。

 それは本校舎と繋がる道が一階と二階のみであったこと、演劇部の活動に使われる部室が旧校舎の一階にあったことなどが起因している。三階より上は完全なる物置のようになってしまい、さらには置かれた、というよりは放置されたという表現に近い錆びた用具、ひしゃげた書類の束、埃被った段ボール箱などが人の声を遠ざけていた。夜も昼もない。空気は澱んでいる。しんみりと、寂しかった。

 荻野新平は旧校舎の三階から夜空を見上げていた。廊下の壁に背中を預け、グロック17の黒い銃身を右手に下ろし、木造の校舎に耳を澄ませている。左手は温かかった。彼は彼の隣に腰を下ろした痩身の女性の手を握り、彼女の鼓動を意識の片隅に、動かない月の光に呼吸を合わせていた。

「新平さん──」

 小さな声だった。新平は左手に熱を込めると、吉田真智子の横顔を見た。かつての記憶が彼の胸をざわめかせる。真智子の姿は今や色褪せぬ学生時代の少女ものと変わらず、新平もまた少年の姿に戻っていた。

「あたし──もう、行かないと──」

 それは或いは声ではなかったのかもしれない。月の陰影による表情の変化か。その震えから、熱から、鼓動から、吐息から、彼女の想いを勝手に連想してしまっただけかもしれない。それでも新平は無言のまま手の力を緩めてあげた。打ちひしがれ、項垂れる彼女に対して、新平に出来ることはといえば、ただ待ってあげることのみであった。それでも彼は彼女の想いを尊重してあげたく、出来る限りの手助けをしようと、彼女の側を離れなかった。

「新平さん──」

 また、震える。

 新平は戸惑いを覚えた。

 彼女は一向にその場を動こうとしなかった。

 もしや何か思い違いをしているのではないか。そう考えてみる。二人の熱と吐息に旧校舎の空気が動かされている。月光の下をゆったりと泳ぐ埃がやたらと躍動的に見えた。

「あたし──」

 不意に目が合った。真智子は首のみを傾け、瞳を半開きに、新平の目をジッと見つめていた。濡れた瞳に月の光が沈んでいる。雪のように薄い肌。深淵な瞳は夜を漂う二つの黒い月のようである。

 新平は彼女から目が離せなくなった。鼓動がやけにうるさい。手が焼けるように熱い。

 そのまま、どれほどの時間が過ぎ去ったであろうか。いいや、どれほどの時間も過ぎ去っていないのかもしれない。

 新平が抱いたのは警戒心だった。

 気が付けばグロック17の黒い銃口が彼女の額に向けられていた。

 本能からではない。考えての行動でもない。彼の経験が彼の右手を動かしたのだ。

 新平はやっと狼狽を見せた。

「い、いや……。これは……」

「いいよ、撃って──」

 そう呟き、真智子は微笑んだ。

 新平は顔を歪めると、右手を引き摺るようにして拳銃を背中に隠し、視線を逸らした。重苦しいほどの沈黙が旧校舎の時間を止めてしまう。

「新平さん──」

 話しかけるのはいつも真智子の方からだった。新平はダラリと肩を落としたまま、苦渋に満ちた表情で顔を上げた。真智子は変わらず新平を見つめている。瞳を二つ、夜に浮かばせている。優しげに唇を広げ、哀しげに笑っている。

 新平は苦悩した。

 彼女の瞳は、彼から見て、もはや人のものではなかった。

「新平さん──」

 真智子が肩を寄せてくる。息が掛かった。

 新平は拳銃を手放した。右手で彼女の肩を抱きしめ、その瞳を覗き込むように、吐息と吐息が重なり合う位置に、唇を寄せていく。彼女の声はそれでもかつての彼女のままだった。瞳のみがどんよりと暗く濁っていた。それでも彼女は変わらない。そう願った。

「真智子さん」

 新平もまた彼女の名を呼んだ。そうして唇を重ね合わせる。かつてのように。ゆっくりと。そっと。慎重に。熱い水の膜が触れ合う。溶け合う。

 絡まる。

 新平はあっと唇を離した。何かが妙だった。かつての記憶とは重ならない感覚があった。

「新平さん──?」

 唇が離れると、先ず息が合わさる。次に瞳が重なる。そうして表情が露わになる。

 それは少女の表情ではなかった。かといって、人の表情でないというのでもない。つまりは大人だった。それもその筈である、と新平はやっと冷静になった。彼女は今や母親なのだ。彼女には家族があるのだ。危うく過ちを繰り返すところだったと、新平は自分に対する怒りから、スッと心が冷めていった。

「吉田さん、駄目だ」

 別にそう意識したわけではない。ただ、どうにも突き放すような言い方になってしまう。無意識に拳銃を拾い上げた新平は、その冷たい感触から、先ほどの許されざる行為を思い出し、激しい動揺に呼吸を乱しそうになった。苦々しげに口を紡ぐと、頭をガシガシと掻く。いったいどうすればいいのか。とにかく心を鎮めようと、眉を顰め、暗闇に瞳を漂わせていった。

 真智子はしばらくの間、ポカンと口を半開きに、首を傾げていた。そうして徐々に目を細めていくと「あはっ」と相好を崩した。

「別に怒ってないわよ」

 そう言って、可笑しそうに口に手を当てた。その仕草もやはり新平の知るものではない。が、その笑顔と楽しげな声色は、この校舎の空気と合わせて、何処か懐かしかった。

 新平は困惑したように肩を落とした。すると、彼女の笑顔がさらに明るくなる。もはや何が何だか分からない。それでも取り敢えず彼女が人間らしさを取り戻したらしいことに、新平はほっとした。

「もし」

 声が届いた。夜の底からだろうか。それは幾重にも折り畳んだ和紙を破いたような低く乾いた声だった。

 途端に真智子の表情が変わる。彼女は警戒したように口を閉じ、三階の廊下の奥に目を見開いた。

「誰?」

「ワシじゃ」

 現れたのは白髪の老婆だった。夜闇に瞳を薄めている。月明かりに白い影を揺らしている。

「何のようだ」

 新平は冷静だった。拳銃を構えることすらしない。老婆に敵意がないことは、その乾いた声が耳に届いたその時から分かっていた。一切の気配を感じられなかったことも、この夜の校舎の特性上、仕方のないことだろうと気にしなかった。ただ、幼馴染の表情を曇らせたことに対してのみ、抑え難い怒りを覚えた。

「頼みがある」

「断る」

「話を聞いておくれ」

「お前は壁に埋まっていただろう。どうやって抜け出してきた」

「この学校の生徒に助けてもろうた。玲華の一つ上らしい、小柄で肌が小麦色の娘じゃ。にわかには信じられんと思うが……」

「アイツか」

 小さく頷く。それが誰であるかは見当が付いた。

「待て。話を聞けと言うておろう」

 新平は咄嗟に左腕を横に伸ばした。振り返らずとも真智子の凄まじい殺気が目に見えるようだった。とにかくこれ以上彼女の歪んだ姿は見たくないと、新平は慎重に真智子の体を押さえ、正面に立つ老婆を冷たく睨んだ。

「失せろ」

「先ずは聞け。ワシが失せたところで状況は変わらんぞ」

「ならば早く要件を言え」

「千代子を葬る」

 はっと息を呑む気配が新平の背中に伝わる。

 新平は視線のみを素早く横に動かし、軽く舌を打ち鳴らした。その言葉から老婆の目的を想像するのは難しかった。

「どういう意味だ?」

 いわゆる一人目のヤナギの霊である山本千代子はある意味で新平の敵であるといえ、それを葬るという事に、別段の躊躇は覚えなかった。つまり、葬りたいのであれば勝手に葬ってくれ、という話である。それを新平と、さらには千代子の記憶を受け継ぐ真智子の前に、わざわざ伝えに来た理由が分からなかった。自分一人では倒せないという理由からだろうか。そもそも既に亡霊である千代子をこれ以上どう葬り去ろうというのか。この老女が一体どういう立場にあるのかは分からなかったが、その落ち着いた態度と口ぶりから、この夜の校舎についてそれなりの知識と経験を持ち合わせているだろう事は想像できた。その為、新平は首を傾げてしまった。

「早急に、アレを我々の手で消さねばならん」

「意味が分からないと言っている。そもそも山本千代子は既に死んでいるだろう」

「ああ、死んでおる」

「ならば」

「魂を消滅させるんじゃ。そうせぬ限り、この夜は終わらぬ」

「ふ。ふ──」

 赤い光が散った。

 新平と老婆は言葉を止めると、警戒したように腰を低くした。

「ふざ──け」

 赤い光が周囲を埋め尽くしていく。それはごうごうと揺れ動く巨大な影だった。

「ふ──」

 バチバチと壁が割れ、炎が渦巻く。不規則な衝撃が校舎を震わせる。黒い煙が天井を覆っていく。

 女の声はところどころが爆音に呑まれていた。

「ふ──ざけるなッ」

 絶叫だった。真智子は怒りに我を忘れていた。瞳は濁り、どろりどろり、と揺らいでいる。

 窓の向こうは火の海だった。それは彼女の記憶だろうか。焼夷弾の黒い雨が煙の町を赤く焦がしていた。

 その光景を尻目に、新平は左腕で、真智子の痩せた体を強く抱き締めた。

「アレ──。葬る──ですって?」

「落ち着け。話を聞くんじゃ」

「消すって、よくも──あの子──。な──あの子はただの被害者よ!」

「それはお主らの方じゃろう」

 詩乃は落ち着いた態度で、いつものように目を鷹の如く尖らせながら、視線を動かさなかった。瞳は空の青に澄み切っている。

「確かに山本千代子もまた被害者であろう。じゃがワシからすれば、自業自得であったと言えなくもない」

「なんですって!」

「確かに子供であったアレには酷な話やもしれん。が、そういう事態は当然起こり得る。その事を想定すべきじゃった」

「あの子──なっちゃん──」

「代償じゃ。恐らくは己の力を過信した……」

「アレ──って云うな!」

 凄まじい爆発音が老婆の声を弾き飛ばした。廊下に並んだ窓ガラスが内側に粉砕すると、炎が大口を開けて旧校舎の壁を喰らい始める。

 新平は咄嗟に身を屈めた。

 真智子の身体を手前に引くと、そのまま老女に覆い被さるようにして廊下に倒れ込んだ。パラパラとガラスの破片が雨のように降り注ぐ。新平は抱え込んだ二人を守るようにうつ伏せに倒れたまま次の衝撃に備えた。だが、爆発音は続かなかった。気が付けば辺りはシンと静まり返っている。校舎は暗い夜の中にあった。

 新平は一瞬、もしや耳と目をやられたか、と我が身を疑った。粉々になったはずの窓ガラスは元通りに、漆黒の夜空と淡い星々の瞬きを映している。月明かりに浮いては降りる埃の揺らめきがいやに目に付いた。ゆったりと、ゆらゆらと、心地良さげに舞い踊っている──と、新平は息を止めた。まばたきも終わらぬ間に、騒がしい蝉の声を聞いたのだ。テレビの画面が切り替わるように、不意に現れた夏の日差しはあまりにも眩しく、危うく平衡感覚を失いそうになった。

 乱れている、と思った。

 新平はやっと人の域を超えた肉体の動きに思考を追いつかせた。

 危うい、と新平はそれが真智子の精神状態に起因しているだろうことを悟った。

 無意識に左腕に力を込める。そうして、はっと目を見開く。

「真智子さん?」

 彼の側には既に誰もいなかった。代わりにおびただしい量の血が旧校舎を赤く染めていた。

「待つんじゃ──」

 掠れた声のみが耳元を過ぎていく。

 新平は拳銃を構えた。

 血はヌメヌメと廊下全体を覆うように流動しており、壁や窓ガラスは赤い手形に埋め尽くされていた。

「終わらせない──」

 それは真智子の声だった。

 いったい何処から響いてくるのか。校舎は乾いた静寂を取り戻している。血の海は廊下に吸い込まれ──瞬く間である──跡形もなく、また冷たい夜の空気に旧校舎の三階はもの寂しかった。

「話を聞け──」

「あの子は──。今度は、あたしが守る──」

 足音が離れていく。やはり出どころは掴めなかった。まるでかつての記憶を思い出しているかのように、頭の中に声が浮かび上がり、そうしてすぐに薄れていった。

 新平はスッと重心を移動させた。音もなく一歩踏み出すと、自身の影を追い越していく。

 真智子の精神状態が気になった。彼女は明らかに乱れており、ただ、その理由は察してやれなかった。千代子を葬るという老婆の話も、千代子を守るという彼女の意思も、彼には分からなかった。

 とにかく追わねば──。

 新平は思考をも置き去りに、夜の校舎を駆けていった。

「待て」

 前方にゆらりと空色の光が現れる。白い影が暗闇に立ち塞がる。

 新平は、いつでも銃口を前に向けられるよう、肩の力を抜いた。

「どう葬るというのだ」

 唐突に、そう尋ねた。幼馴染である真智子の心情を目の前の老女に尋ねても仕方がないと、考えてのことだった。

「赤い糸を切る。それで駄目なら、みどりの力を使うてみる」

「本当に魂を葬れるのか」

「分からん」

「何だと?」

「が、やれるだけやってみよう。ワシにはこの目がある」

 詩乃は斜め上に視線を動かすと、飛ぶ蠅を追うように、青い瞳をゆっくりと泳がせていった。

「何にせよ、だ。どうして俺たちに協力を仰いだ。お前を壁から救い出したという少女にそのまま頼めば良かっただろう。まさか俺たちがお前の手助けをすると、本気でそう思ったわけでもあるまい」

 新平は蔑むように目を細めると、視線のみを下に動かした。老婆の右手は親指が欠けており、血が黒く乾き、こびり付いていた。

「協力ではない。懇願じゃ」

「何を頼む。千代子の件であれば、俺ではなく真智子さんに……」

「吉田真智子も葬らねばならない」

 銃口が動いた──と、それは老女の額からほんの僅かばかりズレた暗闇に向けられ、既に白い煙を細く漂わせていた。置き去りにされた銃声が残響となって静寂に呑まれていく。

「やはりあのガス爆発は故意だったか」

「ああ、そうじゃ」

「よもや命までは奪われないと、たかを括っているのか」

「いいや」

「彼女を狙うというのであれば、次はない。覚えておけ」

 新平は冷徹に、無感情に、淡々と少年の声を伸ばした。そんな彼の視線に姫宮詩乃は一切の動揺を見せず、瞳を空色に薄れさせたまま、静かに息を吐いた。

「それはあの子の為か。それともお主の為か」

「今度は何の話だ」

「もしそれがあの子の為だというのであらば、お主は間違っておる。葬ってやることこそが救いなんじゃ」

「ふざけてんじゃねぇぞ」

 猛獣が唸るような低い声だ。

「あの子は人じゃ。我々と同じ。お主はそれを分かっておらん」

 また銃口が額に向けられる。カチリとトリガーが無情な音を立てる。だが、老婆は目もくれなかった。険しく顔を強張らせたまま、空色の瞳で少年の目を射抜いていた。

「一体いつまであの子を縛り付けておくつもりじゃ」

「もうその話は止めろ。殺すぞ」

「そろそろ解放してやらんか」

「誰も彼女を縛り付けてなどいない」

「この夜に囚われておるではないか」

 新平は微かに動揺した。先ほどの常軌を逸した、真智子の乱れを思い出してしまったのだ。

「俺と彼女は……ただの幼馴染だ。彼女の人生を決めるのは彼女自身だ」

「決めれんよ。だからあの子は被害者なんじゃ。あの子と、もう一人、大野木紗夜という少女を、この夜と共に葬ってやらねばならん。さもなくば、あの子達は永遠とこの世を彷徨う化け物と成り果て、終わらぬ苦しみを味わうこととなる」

 そう声を低くし、新平の目を下から覗き込むように、老婆の足を前に出した。新平もまた詩乃の青い目を睨み返したまま、銃口を、老女の額に押し当てた。

「聞け小僧、あの子は人なんじゃ。あの子は人の身で、人の精神で、人の域をはるかに超えた時間を生かされておる。不運にも、この校舎の果てない記憶を引き継ぐ羽目となり、そうして壊れかけておる。もう限界じゃろうて。あの子の精神が壊れる前に、我々の手で救ってやるんじゃ」

「む、息子がいるんだ。真智子さんは母親になったんだ」

「それが更なる負担となっておろう。戦前からの三人の少女の記憶と、この校舎の記憶を引き継ぐあの子が、いったいこれまでにどれほどの人を見送ってきたか、お主に想像できるか? 親兄弟、親友に恋人、どれほどの出会いと別れを繰り返してきたか……。このままあの子の呪いが続けば、あの子は母親でありながら、実の息子の最期を見送らねばならなくなる。それは、あまりにも酷な話ではないか」

 老婆の瞳は揺らいでいた。み空色から深藍色へ。薄みがかった黒色へ。それでもその表情は変わらず険しかった。

 新平は銃口を下げた。苦渋に顔を歪ませ、暗闇の向こうを見つめる。校舎は延々と終わりのない夜の底にあった。その寒々しさを新平は初めてその身に感じた。それが彼女の心の闇なのだと、新平は真智子の苦悩を悟った。彼女の人生を哀れに思った。ただ、それでも新平は、真智子に、幸せに生きて欲しいと願わずにいられなかった。

「彼女の……人生を決めるのは俺たちじゃない」

 姫宮詩乃は哀れむように目尻を下げると、首を横に振った。

「ワシらで決めてやろう。それが情けというものじゃ。何よりも、急がねば。あの子が哀れだという理由もあるが、それよりも、この学校で起こり続けておる異常が気になる」

 老女の鷹のように鋭い視線を正面に向けた。瞳は再び空色に薄れている。

「よく考えずとも妙な話じゃった。魔女の存在、ヤナギの霊と共に現れる特異な者たち、ワシを含む三人の巫女──どうにもここには怪奇が集まり過ぎておる。ワシやお主らだけではない、魔女や、ヤナギの霊たちですらも認知できない異様な何かが、この夜の裏側に潜んでおる可能性がある。それが恐ろしい。もうこれ以上ここを放置するわけにはいかんのじゃ」

「俺は」

 新平はギュッと目を瞑った。今や少年の姿である彼は表情が豊かで、声の変化に富み、その滲み出る苦悩がひしひしと伝わってくるようだった。

「それでも彼女に生きて欲しいんだ」

 新平の影が置き去りとなる。前に走り出したのだ。それは風が抜けるような、老女には反応出来ない速度だった。声が残響となって、そうして消える頃にはすでに、新平の気配は夜の闇に呑まれていた。

 詩乃は視線を動かさなかった。巫女の瞳を使えば彼を追うことも可能だったであろう。だが、老女は振り返らず、ふぅと深く息を吐くと、真っ直ぐ前に向かって歩き出した。



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