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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章
184/254

薄れる


 残響が夏空に薄れていった。

 刹那の銃声は周囲の音を弾き飛ばし、ヤナギの青い葉擦れさえも届かない静寂の中で、じわりと溢れ広がる少年の血のみが赤々と鮮明だった。

 王の弾丸に撃ち抜かれた吉田障子の体がゆっくりと旧校舎裏の乾いた砂地に崩れ落ちる。

 銃声の後、やっと響いた音は悲鳴だった。 

「障子くん……! 障子くん……!」

 宮田風花は唇を青白く震わせ、今にも気を失いそうな具合に、声を掠れさせていた。大野木紗夜も同様で、怒りも悲しみもない空虚な表情で、血に塗れていく少年を呆然と見下ろしている。他の誰も、現状すら理解できていないのか、白い煙の昇る小野寺文久の白銀の銃口から視線を動かせない様子だった。ただ一人、パナマハットを被った背の高い老人のみが凄まじい怒気に目をギョロリとひんむいた。

「文久あああッ!」

 乾いた怒号と共に戸田和夫の長い足が動いた。その勢いたるや、とても還暦を超えた老人とは思えない。それでもヤナギの木の側にいた文久との間には距離があり、数歩と行かぬうちに二発目の銃弾に勢いを阻まれてしまった。

「勝手に動いてんじゃねぇよ」

 銃弾は老人の右足を掠めたのみだった。だが、老人の背後には三人の少年の姿があり、万が一にも流れ弾が少年たちの元に届くような事があってはならないと、和夫は憤怒の形相で足を止めた。運命に翻弄されていく少年をなんとか救ってやりたいと、シワの刻まれた手を強く握り締めながら──。

 和夫の視線が、地面に倒れた吉田障子の胸元に移った。彼の側で掠れた悲鳴を上げ続ける宮田風花までもがヌメヌメと照り光る血に塗れている。

「心臓を狙った。もう助からねぇよ」

 文久は僅かに口角を上げてみせた。和夫の頬からサッと血の気が引く。文久は満足そうに喉を鳴らすと、その傲慢な視線を、血塗れの少年と少女の背後で呆然と立ち尽くすばかりの、儚げな女に向けた。

「ただし、一つだけ救う方法がある。なぁおいお姫様、分かってんだろ。とっとと俺たちを夜の校舎に送りやがれ。早くしねぇとテメェの大切なガキが死んじまうぜ?」

 大野木紗夜の視線が上がった。その顔は白塗りの人形のように血の気がなく、彼女は未だ現状を理解していないかのように、微かに首を横に振るのみだった。

 文久はチッと舌打ちすると、今度は銃口を、掠れた声で少年の名前を呼び続ける少女の顔に向けた。

「何ならもう二、三人送ってやろうか」

 大野木紗夜の目がカッと見開かれる。だが、彼女が声を上げるよりも先に、特攻服姿の大柄な少年の体が動いた。

「おおおおおおおッ!」

 鴨川新九郎の野太い怒号が青空に響き渡った。それは決して素早くない、ただただ一心不乱であるというのみの、地面を重く踏み締めるような突進だった。

 文久は軽く鼻で息を吐くと、新九郎の太い足に銃口を下ろした。大地を揺るがすような低い発砲音と共に、王の銃弾が新九郎の太ももの肉を弾く。だが、それでも新九郎は止まらなかった。そのままの勢いで文久の腰にしがみつくと、その重量に文久のバランスが崩れかかった。

「はっ!」

 王は取り乱さなかった。重心を低く、体勢を立て直した文久は僅かに顔を顰めたのみで、冷静に、新九郎の後頭部に、白銀の拳銃──ベレッタM92Fのグリップを叩き下ろした。

 一瞬、新九郎の視界に白い光が走る。それでも彼はグッと文久の腰に腕を回したまま決して倒れなかった。

 文久は苛立たしげにため息をつくと、新九郎のこめかみに銃口を当てた。

「やめぇ──っ」

 紗夜のか細い悲鳴が銃声に呑み込まれた。ざわりと彼女の周囲の空間が歪む。新九郎の巨体がドサリと地面に崩れ落ちると、再び残響が旧校舎裏を静寂に導いていった。

「次はソイツだな」

 澱みなくそう言い放ち、王は流れるような動作で、宮田風花の額に銃口を向けた。新九郎の突進により視野が極端に狭まっていたが、王は気にせず、瞳を左右に振ることさえしなかった。

「“動くな”」

 やれやれとした声色だった。ジュリー・ヴィクトリア・コリンズは呆れ返ったように、体育館裏から颯爽と現れた早瀬竜司を横目に、赤い唇に指を当てた。

「あのさぁ、あんまり私の手を煩わせないでよね」

 右腕を骨折していた竜司は左腕を振り上げた状態で、拳銃を構えた小野寺文久に向かって金属バットを投げつけてやろうと歯を剥き出していたところだった。突然体の自由を失った竜司は驚愕に目を丸め、されどその瞳は激しく燃え上がった闘争心にギラついたままである。

「おいジュリー、俺が命じたこと以外はするんじゃねぇ」

 文久は鼻で息を吐いた。その視線は金髪青目少女ではなく、バットを構えた少年でもなく、白いドレスを靡かせる優雅な女性に向けられている──文久は、ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーに対して、何か言いたげな表情していた。

「はああ? 何それ? ありがとうも言えないってわけ?」

 ジュリーは憤慨したように手を下ろした。そうして竜司の拘束を解いてしまう。途端にバットが宙を舞うも、勢いを無くしたそれはあらぬ方向へ──気が付けば文久の銃口が竜司の上半身を捉えていた。

「またガキか」

「撃ってみろや! オラァ!」

 そんな激しい怒号と共に、竜司は軽やかに地面を蹴った。先ほどの新九郎の突進とは比べものにならない速さである。ただ、文久の間合いを踏み越えることは出来ず、無慈悲な王の銃弾に腹部を貫かれてしまった。

「へっ……! そんな……もんかよ……!」

 竜司は倒れなかった。それは男としての意地か。苦痛に顔を歪めながらも、それでも前に進もうと、竜司は瞳の炎を絶やさなかった。

「めんどくせぇ」

 文久はそう頭を掻くと、今度は竜司の額に狙いを定めた。

 戸田和夫が怒号を飛ばす。宮田風花が悲鳴を上げる。長谷部幸平と野洲孝之助がやっと我に返ったように文久に向かって走り出す──そんな二人の少年に、サラ・イェンセンが拙い日本語で魔女の声をぶつける。

 王の指先が動いた。カチリと引き金が音を立てる。だが、六発目の弾丸が対象を捕えることはなかった。大きく狙いを外れた王の銃弾が貫いたのは、学校を囲う壁の表面だった。

「ごっ……ぐっ……」

 死角からの攻撃だった。

 不意に現れたボクサーの速度には流石の文久も対応できなかった。危機に疎い魔女たちも彼の動きには反応出来ていない。冷静に間合いを詰めた山田春雄の左ジャブが文久の頬に、返す刀でボディブローが鳩尾を貫くと、低い呻き声を漏らした王の重心が前のめりに崩れた。

「テ、テメェ……」

 春雄の左フックが文久の腹に深々と突き刺さった。白銀の拳銃が地面に落ちる。息つく暇もない。王の身体が青い拳に打ち抜かれていく。ただ、顎やテンプルは狙えなかった。文久は突然の攻撃に体勢を崩しつつも、その広い肩と長い腕で、急所をしっかりとガードしていた。

「動クナ!」

 サラ・イェンセンの唇が紅く燃え上がった。すると、春雄の動きが僅かに鈍くなる。ただ、やはり一過性のもので、すぐにいつものステップを踏んだ春雄は、文久の顎やテンプル、鳩尾ではなく、彼の後頭部に狙いを定めて腰を捻った──。

 それはほんの一瞬の、まばたきが一つ入る程度の間隙であった。

 青い拳が文久の頭上を大きく空振った。そうして、そのままバタリと春雄の体が地面に崩れ落ちた。

「いつの時代にも現れやがるぜ」

 そう荒々しく声を落とし、砂地に転がった白銀の拳銃を拾い上げる。その右手の手袋は血で赤く滲んでいた。王は左足を引き摺るようにして、右足のみで体のバランスを保っていた。

「クソめんどくせぇ奴らだ」

 いったい何が起こったのか。

 いったい何をしたのか。

 それは魔女たちでさえも分からなかった。

 気が付けば山田春雄の意識は消え失せた後で、王は悠然として、シダレヤナギの下に肩を聳えさせていた。

「クソガキが」

 王の銃口がもはや息も絶え絶えの竜司の額に向けられた。

 竜司はへっと口を歪めると、血に染まった中指を真上に立ててみせた。

 戸田和夫にはもはや為す術がない。彼の背後の三人の少年たちも同様である。山田春雄が起き上がる気配はなく、長谷部幸平も野洲孝之助も間に合わない。頭蓋に穴の開いた鴨川新九郎の巨体がピクリピクリと乾いた土を湿らせていく。宮田風花の腕の中で、吉田障子の体が少しずつ冷たくなっていく──。

「もう──」

 今度は、大野木紗夜の絶叫が王の銃声を呑み込んだ。

 周囲の景色がどろりと歪んでいく。澄んだ瞳が黒い影に澱んでいく。

「やめてぇ──ッ」

 ふっと蝋燭の灯火が消えるような音がした。寂寞とした静けさが旧校舎裏を包み込んだ。

 荒涼とした旧校舎裏の砂地。白銀の銃口から白い煙が一筋。

 ゆらり、ゆらりとシダレヤナギの細い影のみが夏の校庭を揺れ続けた。

 


 睦月花子はスッと重心を落とした。

 暗がりに人の気配を感じたのだ。

 そこは旧校舎の三階だった。一歩進むごとに、ギシリ、ギシリと木造の廊下が音を立てる。

 花子の足音、呼吸は、まさに目の前の獲物に飛び掛からんと牙を向いた猛獣のように猛々しかった。対して、夜闇に薄れるようにして廊下の影に立った誰かの息遣いは、夏の日陰で揺れる花のように儚げであった。

「誰よ?」

 そう首を傾げた。星のない夜空に浮かんだ朧月が、消え入りそうなほどに薄い影に確かなシルエットを与えている。それは細身の少女のようで、顔は分からなかったが、制服の裾から覗く肌の白さは際立っていた。その長い黒髪は暗がりにふわりと浮かび上がっているようで、少女は手を後ろに、壁に背中を預けながら、ゆっくりと形を変えていく夜の雲のたなびきを眺めていた。

「もしかして姫宮玲華?」

 少女の影が動いた。微かな風が旧校舎を流れる。すると、雨上がりの花のような匂いが花子の鼻の奥をくすぐった。

「あ……ちょっ! 待ちなさいっての!」

 逃げる素振りはなかった。少女は月夜を詠うように、とっと細い足を前に出し、そうしてくるりと花子に背中を向けた。

 雪解けの清流のように繊細な黒い髪が夜の闇に広がる。雲間の月が煌々と夜の廊下を照らし出す。気が付けば少女の姿はすでに闇の奥へと消えてしまっていた。まるで幻であったかのように、僅かな気配さえも残ってはいなかった。

 花子は腰に手を当てた。そうして窓の外を見上げ、薄い雲に隠れていく月に目を細めた。

「なんだっつうのよ、たく」

 軽くため息をついた花子は頭を掻くと、またノシノシと夜の校舎を闊歩していった。



 吉田真智子はフラフラと夜の校舎を彷徨っていた。

 記憶と感情の乱れに心を失い、本来の目的も忘れ、自分が何をしているのかも分からず、いったいどの時代にいるのかさえも定かではない。真智子はただ逃げるようにして、夜の奥へ奥へと重い足を踏み出していった。

 湿った土の香りが鼻先を撫でた。すると何故だかとても穏やかな気持ちになった。夜空には朧げな月が浮かび上がっており、校舎には懐かしい風景が広がっている。壁に手をついた真智子は窓を見上げ、そうして大粒の涙を流した。

「ねぇちょっと」

 声が聞こえた。まだ声変わりしていない少年のような声だった。

 ゆらりと視線を持ち上げた真智子は、夜闇の向こうからこちらを見つめる小柄な少女を視界に入れた。

「もしかして吉田何某のお母さんじゃない?」

「え……?」

 真智子の痩せた首が横に倒れる。

 少女の顔には見覚えがあった。だが、なぜ彼女がまたここを彷徨っているのかは分からない。分かりたいとも思わない。

「随分と若返ってるみたいだけれど……うーん、やっぱりそうよね。吉田ママの子供時代ってところかしら。まぁ何でもいいけど、良かったわ、ちょうどアンタを探してた所なのよ」

 睦月花子は普段通りの平然とした態度だった。青白い顔を引き攣らせた真智子の様子など構わず、彼女は悠々と言葉を続けた。

「アンタってヤナギの霊なんでしょ? なら、ちょっと聞きたいことがあるんだけれど」

「な、なに……?」

「いやちょっとね、過去を変える方法が知りたくって」

「はあ……?」

「ああ、別に私利私欲を満たそうってわけじゃないわ。まぁなんていうか、人助け? どうにかしてアンタの息子……っていうかその予定の少年を救ってやりたいわけなのよ」

「あ、あ、貴方……」

「未来のアンタの息子よ。ええっと、ほら、吉田なんとか……まぁ名前は忘れちゃったけれど、彼、今すっごく大変な目にあっちゃってて、何もしてないのに警察に追い回されて、もう状況は絶望的。ほんっとあんのクソモブビッチウサギのあん畜生めッ! ……てなわけで、彼を助けるにはもう過去自体を変えるしかないって話で、だからその方法を教えて欲しいんだけど、これってアンタにとっても悪い話じゃないわよね。だって大切な息子を助けるためだもの」

「はぁ……」

 深く深く息が吐き出された。澱んだ感情を押し流すような疲れ切った女の吐息。真智子の痩せた首がさらに下へと倒れていく。そうして肩を落とすように、体を前に倒した真智子は、手を気怠げに前に向けた。

 ズンッと花子の足がリノリウムの廊下に沈む。

「馬鹿みたい」

「はあん?」

「くだらないって言ってるの」

 痩せた女の手がスッと夜の闇を切り裂いた。すると、天井がズズッと真下に動いていく。真智子の瞳はドロリと濃い影に濁っており、それはまるで行方知れずの肉親の命を諦めたかのような、ひどく哀しげな表情だった。

「お願いだから、これ以上あたしたちに関わらないで──」

 小柄な少女の体を押し潰すように、廊下がゆっくりと縦に閉じていく。

 花子はやれやれと首の骨を鳴らした。


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