激情の王
気が付けば、辺りは夜の静寂に包まれていた。
「なによ」
渡り廊下からの風はない。砂粒の一つも転がる気配はない。廊下に並んだ窓には漆黒の空夜が広がり、瞬く星の一つも見つけられない。
「随分とあっさり来れたじゃないの」
睦月花子は取り敢えず腕を組んだ。来たい来たいと望み焦がれた夜の校舎にいざ訪れられたは良いものの、あまりにもあっさりと来れたが為に何やら感動が少なく、いつものように本能的に動き出すことが出来ず、いったい何をすべきか冷静になって考えてしまった。
すぐ隣では清水狂介がスマホを片手にキョロキョロと辺りを見渡している。つい今ほどまで目の前にいたはずの大野木紗夜の姿はない。ジッと耳を澄ましてみても時が止まったような静寂に変わりはなく、ここに来るのもはや三回目か、と花子は何やら感慨深くなった。
「あ、そういや吉田何某連れてくんの忘れてたわ」
組まれていた花子の腕がするりと解ける。
「ねぇちょっと京介……て、スマホなんかここで使えるかっつの!」
「狂介だ」
狂介は腕を下ろした。ブラック&グレーの髑髏のタトゥーが上向きのライトに照らされる。
「いったいどうすんのよ? 吉田何某がいないと目的が果たせないじゃないの?」
「過去を変えれば良いという話だろう。別にあの少年がいなくとも構わない筈だ」
「まぁそれはそうだけれど……。うーん、それじゃあ何か釈然としないのよね。てか、そもそもどうやって過去を変えるつもりなの?」
「時が過去に移り変わった時点で、未来に影響を及ぼすような行動を取ればいい。何度もここを訪れているのであれば勝手は分かっているだろう」
花子は視線を斜め上に動した。濃い闇に沈んだ廊下の窓はそれでもぼんやりとした輪郭を露わにしている。そうして左手を腰に当てると、ポリポリと頭を掻いた。
「それなんだけど、ちょっと引っ掛かることがあんのよね」
「なんだ」
狂介は首を傾げた。その瞳は抜け目なく周囲の様子を窺っている。
「一回目の後はそりゃあもう信じられないくらい世界が変わっちゃってたってわけ。ほんと別世界に来ちゃったって思えるくらいで、私のキュートな目もまん丸」
「そうか」
「でも、どうにも二回目の後は何も変わってなかった感じがするのよ」
「それは二回目に未来を変えるような行動を取らなかったからではないのか」
「どうだったかしら、結構色々とぶっ壊した気はするんだけど……。ああ、あともう一つ気になんのが、一回目と、あと二回目の時もそうなんだけど、学校がほぼ全壊してんのよ。崩れ去ったり燃え上がったりと、あれで現実世界に何の影響もなかったってんなら、もう何したって未来は変わらない気がするのよね」
「ふむ」
スマホのライトが廊下の奥に向けられる。無人の学校に動く影はない。
ふっと予備動作無しに狂介の左拳が暗闇を切った。そうして廊下の窓を捉えるも、拳は突如として動きを止め、窓が破壊されるどころか物音一つとして響かなかった。
「窓にも壁にも触れられないわよ」
「そうか」
「で、どうすんの?」
「一度目の後は確かに未来が変わっていたのだろう」
「ええ、まぁ」
「ならば取り敢えず動くとしよう」
狂介はそう言って、スマホのライトに照らされた一階の校舎を進み始めた。
「おーい、別行動にするってわけ?」
「ああ。その方がいいだろう」
花子はやれやれと肩をすくめた。そうして彼に背を向けると、のしのしと旧校舎の暗闇に向かって歩き出した。
小野寺文久は感慨深そうに口元に皺を寄せた。
思えば彼が今の彼となり得たのはこの老いぼれた巨木のおかげでもあると──。旧校舎裏のシダレヤナギを見上げると、白い手袋に包まれた右手をそっと下ろした。
これからとある手順を踏んだ後、あの世へと葬り去ろうというシダレヤナギに対して、ある種の感謝の念を抱いたのだ。存外、彼にはそんな感傷的な所があった。当然それを表に出すことはなく、側から見れば不気味に微笑んでいるようである。
「見納めだな」
ヤナギの青葉が風に流れる。老齢な巨木は悠然として、それでも何処か名残惜しそうに、長い枝でつっと地面を撫でていた。
「偶然にしちゃあ上出来だった」
傲岸不遜。唯我独尊。不撓不屈。眉目秀麗。精明強幹。
蛇のように抜け目ない。
虎のように獰猛で。
猿のように明敏な雄。
彼は天性にして人の上に立つ資質を備えた男だった。
「いいや、そうか」
彼の手が愛おしそうに嫋やかな枝を撫でる。
「偶然だからこそ──か」
小野寺文久は生まれながらの王だった。
「待ちなさい!」
「待たんか!」
二つの声が同時に旧校舎裏に響き渡った。シダレヤナギが驚いたように青葉を揺する。
それでも文久はさらさらと流れるヤナギの枝から視線を動かさなかった。代わりに三人の魔女の赤い唇が現れた影に向けられる。
体育館側の渡り廊下の前に立っていたのは人形のように顔の整った女生徒だった。涼しげな切れ長の一重。彼女の背景は蜃気楼のようにボヤけている。
学校の裏側から現れたのはパナマハットを被った背の高い老紳士だった。老紳士の背後にはさらに三つの少年の影が見える。
ネイビーのスーツに身を包んだ髪の長い女──サラ・イェンセン、そして、デニムのショートパンツから白い足を覗かせる少女──ジュリー・ヴィクトリア・コリンズの視線の先には、五人目のヤナギの霊である大野木紗夜の姿があった。
ユニテリアン主義の新興宗教、レストレーションの指導者である青白いドレスの女性──ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーの妖艶な微笑みは、最も長くヤナギの霊の問題に携わってきた戸田和夫に向けられていた。
「Bonjour. Monsieur, Kazuo」
ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーはドレスの端を持ち上げ、軽く頭を下げた。その流れるような動作は風に揺れるヤナギの青葉を思わせる。戸田和夫は警戒したように額に影を作ると、パナマハットのトップを右手で押さえた。
「ロキサーヌ、お主……」
「おや、お知り合いでしたか?」
その場の雰囲気にそぐわない素っ頓狂な男の声が上げられた。
小野寺文久はやっとその存在に気が付いたかのように目を丸めると、左手を仰々しく胸の前に、礼儀正しく頭を下げた。
「これはこれは先生、お久しぶりです」
「このキッドめ、白々しい真似を……何が先生か!」
和夫の唇が憎々しげに歪められる。
「おい文久、これはどういうわけだ? お主はいったい何を企んでおる?」
「何を企んでるかですって……?」
文久の表情も変わった。
「はっ! それはこっちのセリフだクソジジイ!」
傲岸不遜な王の表情だ。
「何だこのクソみてぇな馬鹿騒ぎは? テメェ、今度はいったい何しやがった? 落ち武者風情がおめおめと戻って来やがって……今さら余計な真似してんじゃねぇぞ!」
広い肩を聳えさせた文久の声はよく響いた。その表情は本当に憤っているようで、激情型である彼の怒号に返って和夫の方が冷静さを取り戻してしまった。
「一つ言っておくが、この騒ぎの原因は我ではないぞ」
「ああ?」
「これはこの街の少年たちが自発的に起こした騒ぎじゃ」
「なんだと……?」
「しかしまぁ、この程度で取り乱すとは……。お主も随分と歳を取ったようじゃのぉ」
和夫は小馬鹿にするような態度で、わざとらしくため息をついた。王の怒りを暴走させられないかと考えたのだ。だが、その程度の挑発に文久が乗るはずもなく、むしろ何かを訝しむような表情をした彼は、和夫の背後の少年たちに視線を向けた。
「へぇ」
文久の表情が微かに変化する。その蛇のような視線は彼と同じように背の高い少年の顔に向けられている。
「くだらねぇな」
別に誰を挑発した態度でもなかった。ほんの少しだけ感傷が刺激されたのだ。ただその含み笑いに似た表情はやはり相手を小馬鹿にしているようであった。
「こりゃあ文久ッ!」
事情を察していた和夫は思わずカッと怒りを露わにしてしまった。
「おいおいジジイ、テメェ気付いてやがったな?」
「この……いい加減にせんかァ!」
「別に何だっていいのさ、もう興味もねぇ」
「貴様ッ……!」
「んなことよりジジイ、この騒ぎ、テメェじゃねぇっつうんならいったい誰の仕業だってんだ?」
ヤナギの青葉がふわりと風に持ち上がる。
気が付けば、文久の視線は彼の背後の渡り廊下に向けられていた。
意図せぬ間に重なり合った視線に、それまでは気丈とした、凛と涼やかな表情をしていた大野木紗夜の頬に微かな赤みがかかった。そうして暫く互いに見つめ合っていると、やがて根負けした紗夜の方が悔しそうに視線を逸らしてしまう。文久は顎に手を当てると、青空の下に聳える木造の校舎に目を細めた。
「いや、まさかな……」
「キッドよ、今度はこちらの質問に答えてもらうぞ」
なんとか怒りを抑え込んだ和夫はパナマハットを押さえたまま背筋を伸ばした。まさに彼の真後ろで困惑の表情をしているであろう少年の肩を抱いてやる暇などなかった。今の彼に出来る事はといえば王の視線を少年たちから逸らしてやるくらいである。
「何故またここに現れた。どうして魔女どもと共におる」
「ここに来る理由なんて一つしかねぇだろ」
文久はそう言って、ヤナギの柔らかな枝を下から持ち上げてみせた。
「そしてコイツらは、俺の大切なパートナーだ」
文久のその言葉に対する魔女たちの反応はそれぞれだった。
ジュリー・ヴィクトリア・コリンズはケッと冷ややかな顔で明後日の方を向いてしまい、文久の真横に立っていたサラ・イェンセンは嬉しそうに頬を綻ばせるも、そのエメラルドグリーンの瞳は不安げに彼の右手を見下ろしたまま動かない。
薄い生地のドレスを風に靡かせるロキサーヌ・ヴィアゼムスキーの表情は妖艶で、奇怪で、無邪気で──人を人とは思わない魔女のその微笑みの冷たさに、和夫は思わずゾッと視線を逸らしてしまった。
「パートナーじゃと……? この大馬鹿者めっ……! 魔女が人のパートナーとなる事などあり得んわ!」
「ひどいわ和夫さん」
それは雪解けの清流のように滑らかな女性の声だった。
「魔女だ人だと──私たちを差別するなんて」
ロキサーヌは困ったように眉を下げ、鮮血のように赤い唇に中指を当てた。
その声を聞いた文久の表情が若干変化する。彼は少し驚いたような顔で、多少苛立ったように舌打ちをした。
「話せんじゃねーか」
ロキサーヌは振り返らない。始まりの魔女の一人である彼女はただ動物を見るような目付きで、人という種に微笑むのみである。
「なんという愚かな……。文久よ、やはり老いたようじゃの。若かりし頃のお主であらば、もうちっとマシな判断が下せたはずじゃ」
「老いぼれたのはテメェだクソジジイ。今のお前程度にこの俺が推し量れるかよ」
文久もまたロキサーヌを振り返らなかった。
激情を隠そうとしない彼が代わりに隠すものは、心の内で決して動くことのない冷静さであった。
「恥も外聞もなくこの街から逃げ去ったあの頃のお前の方がまだマシだったぜ」
そうしてゆっくりと彼はまた渡り廊下に視線を動かした。
老齢なシダレヤナギの枝葉の向こうで一人の少女の影がうつろいでいる。古びた写真に映る黄昏時の景色のように一人の少女の影がぼやけている。
大野木紗夜は視線を上げた。今度はしっかりと正面から文久の瞳に冷たい影を伸ばした。
「よぉ」
文久は声を低くした。そんな風に初対面の相手に普段通りの表情で話しかけるのは珍しい事であった。
「テメェは誰だ」
威圧するような口調ではない。相手が誰かを察しているような、相手の存在を確かめるような、そんな口ぶりだった。
紗夜は視線を逸さなかった。真っ直ぐ文久の顔を見つめたまま、毅然とした態度で、薄い唇のみを動かしてみせる。
「どうせ知ってるんでしょ、小野寺くん」
「哀れな女だぜ」
文久はまた僅かに口角を上げた。それは人を小馬鹿にしたような表情で、ただ少女にはそれが彼の癖であることが分かっていた。
「アナタにだけは言われたくない」
「なんだよ、頭ん中はお花畑のまんまか」
「まさか──」
紗夜はヤナギの木を見上げた。
「私で終わりにする」
老齢な巨木はただゆらゆらと青い枝を揺らすのみである。
文久は「はっ」と笑い声を漏らした。そうして左手で頭を掻くと、はぁと深くため息をついた。
「おいお姫様、俺たちを夜の校舎に誘え」
「嫌よ」
「終わらしてやるって言ってんだ」
「小野寺くんの言葉は端から端まで何一つとして信用できない」
「俺がテメェらに嘘を付いたことがあったかよ」
「どうせ何か隠してるんでしょ? アナタって本当に昔から王様のよう。でもその本心を私は十分に理解してるから」
「めんどくせぇ女になりやがって」
文久はそう呟くと、何かを思考するように左手で顎を撫でた。そうして視線のみを周囲に張り巡らせる。今や三人の魔女の視線までもが一人の少女の元に集まっていた。
「そもそも小野寺くんのやり方が気に食わないの。だって私はアナタのことが大嫌いだから。だからもう絶対に言いなりになんかならない」
サラ・イェンセンの唇が縦に開かれる。それを片手で制止した文久はジッと紗夜の後ろ──渡り廊下の向こうに目を細めた。
「だから一人で歩けるって言ってるでしょ!」
「でも風花ちゃん、ほら、せめて血は止めないと……」
「風花ちゃんって言うなー!」
何処か間の抜けた高い声が響いてくる。
魔女たちは表情を変えず、文久もまた顎に手を当てたまま動かない。戸田和夫の背後にいた三人の少年のみが怪訝そうに顔を見合わせていた。
特攻服姿の大男を先頭に、渡り廊下の向こうから五人の少年少女が姿を現した。
その中の一人、猫っ毛の細身の少年の視線が上がると、顎から手を離した文久は、はっきりと口元に皺を寄せた。




