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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章

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ヤナギの霊


 夏の風に静かな渡り廊下の前に現れたのは人形のように顔の整った女生徒だった。

 筆先を真横に走らせたような涼しげな一重に、春先の山桜を思わせる薄桃色の唇、肌の色は河原の大石の先に降り積もった雪のようで、何処か儚げであった。

「ねぇ」

 大野木紗夜は穏やかな表情で、少し膨れ上がった胸を張るようにして、腰に手を当てながら、夜空を見上げる少女ような真っ直ぐな視線を正面に立つ二人に向けていた。

「私の願いを聞いてくれないかな」

「たく、ビックリさせんじゃないわよ」

 睦月花子は肩の力を抜いた。清水狂介はいつものように無表情で、目の前の女生徒を見定めるように、冷たい視線をジッと下ろしている。

「いきなり現れてアンタ、願いを聞けっていったい何なのよ? てか、アンタって確かモブウサギの親友だったわよね?」

「終わらせて欲しいの」

「はあん?」

「貴方たちの力で終わらせられないかな」

「終わらせるって何を?」

「夜を」

 紗夜の声の響きは滑らかだった。ひらひらと空を舞う桜のように、その薄い唇の動きのみ強調的だった。夏の静寂に穏やかな校舎で、夢に現れる生徒のように紗夜の姿は何処かぼやけているようで、朧げで、儚げで──月夜に舞い散る桜のように紗夜の影は何処かうつろいでいるようで、神秘的で、夢幻的で──何よりも彼女は美しかった。

「お前がヤナギの霊か」

 静寂に緊張が走る。

 狂介の声は普段通り平坦だった。口調も表情も淡々としたもので、まるで朝のニュースキャスターが読み上げる文章のように退屈げな声色だった。それがこの夏の夢幻の内では何処か威嚇的な、陽を反射させる白銀の刃を思わせ、言ってみれば無限の花々に美しい桃源郷に真っ赤な炎が燃え上がったような、安穏とした夢の世界に現実の苦悩が現れたような、彼の存在自体がこの校舎には不釣り合いだった。

「貴方は魔女?」

 紗夜は首を傾げた。

 狂介は何も答えなかった。ただ彼は興味深そうに首を傾げ返したのみである。



 爆発音が夜の校舎に響き渡った。

 そのあまりの威力に四階の校舎は縦に震え、生徒会室を覆う絨毯は波打ち、トロフィーの並んだ棚や両袖デスクが倒れてしまう。まるで火山の大噴火に大地が真っ二つに割れてしまったかのような、そんな想像をしてしまうほどに凄まじい衝撃だった。

 水口誠也は咄嗟に耳を塞ぐことしか出来なかった。三階の家庭科室で起こったガス爆発の衝撃にバランスを崩すと、上下左右の感覚を失ったまま床に投げ出されてしまう。痛みや苦しみはなく、ただただ凄まじいとしか表現出来ない爆発の余韻にくるくると目を回すばかりで、チカチカと瞼の裏で破裂する白い光とキーンと鳴り止まない音に悶え呻き、果たして今が昼なのか夜なのかさえも分からなくなってしまう。

 そうして暫く蹲っていると、徐々に治まっていく耳鳴りにやっと体を起こした誠也は、自身の体を支える白い布を見た。窓の外に浮かんだ三日月は鮮明で、壁には亀裂の一つも見当たらない。白い布はまるで繭のように誠也の体を優しく包み込んでおり、姫宮玲華と彼女の祖母である姫宮詩乃、そして布を操る本人である山本千代子もまた丸々としたミノムシのように白い布に体を覆われてしまっていた。

 三原麗奈のみが滅茶苦茶となった深紅の絨毯の上で四つん這いとなり、その空色の両眼を真下へと向けていた。

「そんな」

 凛とした鈴の音のように軽やかな麗奈の声が仄暗い生徒会室に落ちる。誠也はそこでやっと夜の校舎にいつもの静寂が戻っていることに気が付いた。

「どうして……」

 空色の瞳が深紅の絨毯のただ一点を凝視している。アッシュブラウンの髪を頬に垂らした麗奈の表情は愕然としているようで、月の仄明かりでもわかるほどに肌が青白く薄らいでいる。一雫の汗が彼女の頬を伝うと、麗奈は夜闇の生徒会室に空色の瞳を走らせた。

「なんで……なんでアイツがいるの……?」

「アイツって?」

 誠也はオロオロと首を傾げた。彼の隣では、空色に瞳を薄めた白髪の老婆がその鷹が如き視線をジッと真下に落としている。

「に、逃げなきゃ」

 そう呟き、麗奈はフラフラと立ち上がった。薄い月明かりに照らされた彼女の身体は折れそうなくらいに細く、不安定である。

 誠也もまた顔面を蒼白させると、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「逃げるって……まさか真智子さんから? い、今のでもダメだったの?」

「違う」

「じゃあ……」

「アイツから逃げなきゃ」



 吉田真智子はうっすらと目を開いた。舞い散る埃が薄い月明かりに影を浮かべている。

 やけに静かだった。真智子は体の力を抜いたまま、ほっと深く息を吐き出した。夜の校舎における虚無の静寂ではない。それは何やら心地の良い静けさだった。満天の星空を見上げた時のような、ひんやりと柔らかな風が頬を撫でた時のような、自然と幸福感が湧き上がってくる、そんな穏やかな静けさだった。

 温かかった。やけにいい匂いがした。このまま眠りに付きたい。永遠と覚めない夢に身も心も委ねてしまいたい。でも確かめたい。夢の正体を見極めたい。それはあたしの王子様なのだろうか。それとも別の誰かなのだろうか──。

 真智子はゆっくりと視線を上に動かしていった。

「新平さん……?」

「大宮さん……いや、もう大丈夫だ」

 彼の表情は月明かりの外にあった。完全に体を脱力させてしまっていた真智子の瞳には彼の顔が映らなかった。ただうっすらとボヤけて見える輪郭と声、匂い、温もり、雰囲気から、彼が荻野新平であることを確信した。それは真智子の記憶の中の彼であり、荻野新平は少し高めの少年の声をしていた。

「新平さん……。その、ごめんなさい……」

「何を……謝るのは俺の方だ。すまない。もっと早く駆け付けていれば」

「貴方をここに連れてきたのはあたしなの……。あたしがまた貴方を巻き込んでしまったの……」

 真智子の声もまた少し高くなっていた。頰には水を弾くような張りがあり、手足には健康的で女性らしい肉付きが戻っている。記憶の中の、少年の姿の新平と同調するように、真智子もまた無意識の内に少女の頃の姿を思い出していたのだ。

「何が……あったんだ?」

 表情は見えなかった。だが、その何処か掠れたような声には少年の苦悩が溢れていた。何だか懐かしいと、真智子は思わず微笑んでしまう。焼け焦げた校舎の臭いが秋風に運ばれてくる焚き火の匂いを連想させた。

「何も……」

「頼む。俺には嘘をつかないでくれ」

「新平さん、あたしは大丈夫だから……」

「大宮さん」

「大丈夫だから、だから何も心配しないで……」

 真智子は少女の姿で、ドクンドクンと脈打つ手のひらを新平の頬に当てた。新平もまた少年の姿である。彼の柔らかな猫っ毛が指をくすぐると、真智子は何だか感情が乱れて、泣き出しそうになってしまった。

 沈黙が夜の片隅に訪れる。そこは家庭科室の真隣の準備室だった。薄暗く狭い部屋の天井からは空色に眩い光がゆらゆらと漏れ出している。真智子はだらりと新平の両腕に身を委ねながら、チラリとそちらに視線を移してしまった。そんなほんの一瞬の瞳の動きを、新平は見逃さなかった。

「上か」

「し、新平さん……!」

「大宮さん……いや今は吉田さんか。少しだけここで待っていてくれないか?」

 新平はそう微笑むと、自身の上着の上に真智子の頭をそっと寝かせた。そうして彼女の額を優しく撫でる。彼の声も、その仕草も穏やかだった。だが、三日月の薄明かりに照らされた彼の瞳にはギラギラと揺れ動く青い炎が燃え上がっていた。

「大丈夫だ。すぐに終わらせる」

 グロック17の黒い銃身が月光に照らされる。少年の薄い影が置き去りとなる。

「新平さん、待って……!」

 真智子の悲痛な叫びは届かなかった。闇夜を切り裂く閃光のように音もない。青い炎の残影すらも残さない。少年の影は既に夜の闇の中へと溶け込んでしまっていた。


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