エクスプロージョン
ゆらりと痩せた女の影が夜の片隅に揺れる。四階の校舎は何処か物寂びた昭和後期の様相を呈し、夏の終わりの夜はひんやりと空気が乾いていた。
吉田真智子は歩く速度を緩めた。三日月の夜景に静かな校舎に不穏な気配を感じとったのだ。それでなくとも四階の西側は青々と眩しい空色に前が見えにくかった。真智子はひどく警戒したように目を細めると、ゆらり、とまた漆黒の影をゆらめかせた。
「何……これ……?」
思わず口を丸くした真智子は完全に足を止めてしまった。記憶にない光景が空色の光の先に広がっていたのだ。
生徒会室に続く廊下を覆うようにして、無数の白い布がだらりと天井から垂れ下がっていた。その様はまるでタチの悪いお化け屋敷のようで、真智子は失笑すると共に、千代子に対する深い悲しみを覚えた。ただただ哀れな被害者である彼女の一生はいつ終わりを迎えるのか。同時に強い怒りも覚えてしまう。いったいなぜ彼女は自分を裏切ったのか。
もうどうでもいい。真智子は一人、胸の前で痩せた腕をクロスした。寒い、と。早く暖かな夢の世界に戻りたい、と真智子は白い布の先を睨んだ。
青い光に遮られて中の様子は分からない。だが、いる──。
滲み出る怨念に顔を歪めた真智子は生徒会室に向かって足を踏み出そうとした。そうしてはっと体を硬直させる。ピシャリと水の滴る音を耳にしたのだ。三日月の光がうっすらと廊下を反射していた。
「水……?」
妙だと思った。
よく見れば水に濡れた布が赤い点模様を強調している。廊下は一面が水浸しである。
いわゆる千人針は山本千代子がよく出現させる記憶の一部だった。ただそれが濡れているなどと、これまでに一度もない事だった。考えてみれば生徒会室へと続くこの廊下のみ青い光が薄まっているという事実もまた奇妙である。
「あの女か──」
真智子は瞬時に理解した。
いくら千代子が特別な存在であるとはいえ、半世紀以上行う事のなかった行動を今更のように始めるのはおかしい。
そうだ、あの忌々しい女、小賢しい女狐、三原麗奈は巫女だった。もしや白髪の老婆と同じように千代子をその身に降ろしたのではあるまいか。だとすればこの水にも何か意味があるのでは──。
真智子は半歩後ろに下がった。白い布を警戒したのだ。本来であれば真智子にとって千代子の操る白い布など紙細工に等しい。だが、その背後に三原麗奈の知恵があるとすれば、厄介だった。
「水……」
真智子はもう半歩、生徒会室から距離をとった。月明かりに怪しく光る水滴が恐ろしい。焼け爛れた皮膚のように垂れ下がる布が不気味である。この白い布と水を使っていったい何が出来るというのか。あの小賢しい女はいったい何を企んでいるのか──。
「まさか……」
真智子はゾッと目を見開いた。
「電気……?」
そうして校舎の隅々にまで視野を広げる。だが、分からない。いったいこの学校の電力系統がどうなっているか、今の真智子に知る術はなかった。
外部電力が届いている筈はない。が、震災等に備えた予備電力はあるかもしれない。それがあったとして、水に濡れた白い布に電気を流すことなど、果たして可能なのか。
分からない──。
真智子は下唇を噛み締めた。たとえ校舎全体を見渡せども、電気の流れを見ることなど不可能だった。長い年月を生きた記憶を持とうとも、所詮は少女のもの、そんな知識は持ち合わせていなかった。
「あの女──」
吉田真智子の表情が人ではない何かに変わる。水に落ちた墨のように瞳が薄らいでいく。だが、何も見えない。青い光に遮られてしまう。それが意味するものは何か。三原麗奈は何を企んでいるのか。それを窺い知ることは出来なかった。悔しげに噛み締めた下唇から鮮血が噴き出す。赤い血が喉を伝う。
そうして真智子はニヤリと頬を緩めた。
「ならいいわ」
そう呟くと、ゆらりと揺らめく真智子の影が三階の暗がりへと落ちていった。
「ヤナギの霊を誘き出せるですって?」
睦月花子は怪訝そうに眉を顰めた。その右手は清水狂介の頭を押さえ付けたままである。
渡り廊下の外は体育館の高い壁に翳っていた。旧校舎裏はモノクロの映像のようで、集まってくるパトカーのサイレンが遠い。世界から隔離されたような校舎は、ややもすると今いる現実を忘れてしまいそうなほどに、涼やかな夏の風に静かだった。
「籠城とヤナギの霊にいったいどんな関係があるってのよ?」
「籠城はヤナギの霊を外に出さない為の手段だ」
「なんですって?」
「この城はもうすぐ脱出不可能な牢獄となる」
「牢獄……」
「籠城という戦術は城への侵入を難しくすると共に城からの脱出も難しくする。警察の包囲が深まるほどにヤナギの霊もまたこの学校から動けなくなるだろう」
花子は思わず手を離してしまった。斬新奇抜ともいうべき狂介の思考に驚愕したのではない。彼の異様な決断力、狂人的な精神力、そして目的達成のためなら周囲の破滅も厭わない独断力に唖然とさせられたのだ。
「いや、ちょっと待ちなさいよ? アンタ、そんな事のために籠城なんて大それたことをしたってわけ?」
「そうだ。時間がないのであれば今この場でヤナギの霊を捕えるより他あるまい」
「それで上手くいく保証なんて何一つないじゃない! もしヤナギの霊が隠れちゃったら? そもそもこの学校にいなかったら? たとえ見つけ出せたとして、もし夜の校舎に入れてくれないってなったら、アンタ一体どーすんのよ? ええ?」
花子の腕に青黒い血管が浮かび上がる。対して狂介はいつものように飄々としている。両手で頭蓋骨の位置がズレてないかを確かめた狂介は、ゆっくりと立ち上がると、またスマホを耳に当てた。
「当然、ヤナギの霊が出てこないことも想定済みだ」
「だったら!」
「だからエサを撒いた」
「エサ?」
「吉田障子を牢獄の内側で彷徨わせている」
微かなスマホの着信音が静寂を震わせる。シダレヤナギの細い影が渡り廊下の向こうで揺らいでいる。
花子は腕の力を抜いた。ふぅと深いため息が吐き出される。
「吉田何某がエサねぇ。そういやあの子、何処で何やってんの?」
「ヤナギの霊を探せと命じてある。見つけたら連絡しろとラインも渡しておいた」
「探せって……あの子がエサなんでしょ?」
「生き餌だ。吉田真智子が彼の母親であるというならば、真っ先に飛び付くだろう」
「アンタは悪魔か」
「ああ、魔女ではない」
狂介は中々スマホを下さなかった。ブラック&グレーの髑髏のタトゥーが花子の額に微笑んでいる。
花子は肩を落とすと、やれやれと頭を掻いた。
「で、釣れそうなの?」
「さて」
「さて、じゃないわよ。時間がないっつってんでしょ」
「吉田障子が応答しない」
「はあん?」
「取り敢えず手分けして探すとしよう」
ムッと再び花子の額に青黒い血管が浮かび上がる。まさに鬼の形相である。そんな花子に向かって狂介は人差し指を向けた。
「お前は西側からだ。俺は旧校舎側から上がる」
「だああ! 詰めが甘いってどころじゃないわ! エサを手放してどーすんのよ!」
「見つけたら連絡しろと伝えてあるが」
「天然か! んなもん何の保証にもならないっつの!」
怒鳴り声が渡り廊下の先に消えていく。
燃え上がる太陽のような花子の声も、雲間に浮かんだ月のような狂介の声も、校舎には響かない。二人の姿は日暮れの蜃気楼のように朧げで、また二人の背後にそっと忍び寄る女生徒の姿もまた雪夜の幻影のように儚かった。
「ねぇ」
ふっと柔らかな声が校舎に落ちる。
花子と狂介は身構えるようにして後ろを振り返った。
「来てない……よね?」
水口誠也はそう呟くと、生徒会室の深紅の絨毯にのそりと膝を付いた。彼の隣では白い布で全身を縛られた姫宮玲華が芋虫のように横たわっている。むすりとご機嫌斜めな様子である。
「来てない……でしょ?」
生徒会室の薄暗闇には空色の光が四つ浮かんでいた。そのうちの二つ、重厚な両袖デスクの隣で膝を丸めた三原麗奈に向かって、誠也は恐々と首を傾げた。トロフィーや賞状の並んだ棚のすぐ側では、玲華の祖母である姫宮詩乃がジッと絨毯の紅い毛並みを見下ろしている。
「うん」
麗奈がそう頷くと、誠也は安堵の表情で尻餅を付いた。
「よ、良かったぁ……。でも、どうして? すぐそこまで来てたんでしょ?」
額の汗を拭った誠也は、暗い廊下にぼんやりと浮かび上がった白い影を見上げた。それは先ほど一人目のヤナギの霊である山本千代子が現れたということで、急遽、模様替えをした籠城のためのバリケードだった。トランプタワーのように不安定だった机の山を玲華が蹴り崩すと、赤い糸の縫われた白い布がニョキニョキと天井から現れた。そうして、ありったけの水をぶちまけて、という指示を受けた誠也が、給水タンクから下りてくる水をせっせと廊下にぶちまけたのだった。
「もしかしてあのヤナギの霊……真智子さんって水が怖いの?」
困惑の表情で首を捻る。そんな誠也の問いに対して、麗奈の答えは簡潔だった。
「知らない」
「ええ?」
「興味ないし」
「じゃ、じゃあ、どうして真智子さんは引き返しちゃったの? てか、そもそもどうして水なんか撒いたの?」
「私が知ってるのは、アレが私を心底憎んでるって、ただそれだけ。同時に私と、そしてみどりを降ろしたお婆ちゃんのことを過度に警戒してる」
「ええっと、つまりここに籠ってれば安心ってこと? でも心の底から憎んでるっていうんなら、いずれは突破してくるんじゃ?」
ポタリと水滴の一雫が暗闇に落ちる。廊下を覆う白い布は氷の壁のように威圧的で、また、薄氷のようにもろく崩れ去りそうだった。
「だろうね」
「だろうねって、ヤバイよ! 突破されたら一巻の終わりだよ! こんな端っこじゃもう逃げ場なんてないし、やっぱり籠城なんて愚策じゃないか!」
「だね。突破されたら終わり。後詰めのない籠城なんて自殺と同じだから」
「だったらどうして!」
「籠城は見せかけ。目的は誘導」
「誘導……?」
「来たぞ」
そう一言、姫宮詩乃の掠れ声が落ちる。シンッと生徒会室の空気が凍り付いた。
麗奈もまた動きを見せる。毛並みの柔らかな絨毯に四つん這いとなった彼女は空色の瞳を真下に向けた。
「私に合わせて」
「うむ」
姫宮詩乃の乾いた手が薄い月光を浴びる。アッシュブラウンの髪が麗奈の頬をはらりと撫でる。
誠也はオロオロと不安げな様子である。生徒会室の扉の前では、いつの間にか眠ってしまっていた玲華の長い黒髪を、山本千代子がいそいそと欠けた櫛で梳いていた。
「き、来たって何が?」
「アレが三階に来たの」
「アレって真智子さんのことだよね? どうしてそんな事が分かるの?」
「巫女の瞳は他者の精神を覗き込むことが出来る。だからヤナギの木の精神であるこの夜の校舎を見渡す事も可能なの」
「そ、そうなんだ……。それで、どうして真智子さんは三階に?」
「下からここを襲う為に。ここに繋がる道は二つしかない」
「ええっ? 下からって……あっ」
誠也は思わずリコーダーを手放した。やっと麗奈の言葉の意味を理解したのだ。
「そ、そうか、ここの真下って確か……」
「家庭科室だよ。ここに来る前に寄ったよね」
「じゃあアレは……」
「ここは外とは完全に隔離された空間だから、だから成立する」
空色の視線が深紅の絨毯を這っていく。白髪の老婆の乾いた手は薄暗闇に振り翳されたままである。
「エクスプロージョン」
吉田真智子は何度も何度も痩せ細った腕をさすった。いよいよと寒さが骨に滲むほどにキツくなっていた。
一人でいる時間が長過ぎたのだ。人肌が恋しかった。人の声を忘れてしまいそうだった。自分が人ではない何かに変わっていってしまうような、そんな不安の募りに、血が冷え切っていくような思いがした。
夜の校舎は人の訪れざる空間である。ただ暗く寂しい、それだけの場所だった。
「早く……早く……。ああ……早く……」
青い光がうっすらと三階の廊下にまで届いている。今、真智子が暗い影を落とす三階の校舎は、真上の四階と日にち時刻ともに寸分違わず同じ場所にあった。そうでなければ影を届かせられなかった。
生徒会室を真下から襲撃する。
それほど簡単な話ではあるまい。或いはすんでのところで逃げられるかもしれない。だが、何らかの罠が仕掛けられているであろう四階の廊下を進む気にはならなかった。二人の巫女と頭の弱い魔女、そして一人目のヤナギの霊である山本千代子の待ち伏せを交わすには、真下から奇襲するより他なかった。
逃げられたなら逃げられたで構わない。そう真智子は考えた。何の策略もない純粋な衝突であれば、四人目のヤナギの霊である真智子が負ける要素など何一つとしてなかったのだ。
「ああ……早く……。障子……待っててね……」
家庭科室の白いプレートが暗闇にぼんやりと浮かび上がる。コポコポと泡の浮かび上がる幻聴が聞こえてくる。ゆらり、ゆらりと痩せた女の影が家庭科室の扉にぶつかる。
痩せ細った手を唇の前で重ね合わせた。そうして生温かな吐息で冷え切った手を湿らせる。
真智子はゆっくりと扉に向かって手を伸ばした──。
「今」
風鈴の音のように涼やかな麗奈の声が深紅の絨毯に落ちる。
白髪の老婆の乾いた手が、スッと仄暗い月の光を縦に切り裂いた。