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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第五章

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王子の行方


 風にしなる小枝の呻きが聞こえてきそうなほどに、夏休みの校舎は静かだった。

 部活動に励む生徒の声はなく、どの教室も閑散としていて、窓に並んだカーテンがさわさわと薄い光を動かしている。

 吉田障子は途方に暮れていた。下を向きながらトボトボと暗い影を校舎に落としていた。いったい何をすべきかも、何処に向かえばいいかも分からない。ただ願うのはかつての安穏とした日常のみ──。彼は一人嘆いていた。

「ヤナギの霊を探せ」と男に言われていた。右腕にタトゥーを入れた長身の男だった。夏日を透かす木影のように飄々とした男で、水の鏡のような冷たい目をしていて、お昼時のニュースキャスターのような抑揚のない声をしていた。その動作、口調、態度、呼吸、指の動き、影の伸縮、瞳の向かう先、瞳のない髑髏の視線──その一つ一つがまるで風に逆らわない雲のようで、風に靡かない岩のようで、風を動かす山のようで、彼の派手な服装だけ見ても平凡で大人しい障子にとっては闇夜を恐れぬ無法者そのものであり、そんな彼に反抗することなど出来るはずもなく、あれよあれよという間にここまで連れてこられたのだった。

 いったい自分は何をさせられているのか。いったい自分は何処に向かわされているのか。

 吹き荒れる風に流されるばかりの人生を想う暇もなく、怒ってやる体力も、嘲笑ってやる気力もない。

 ただひたすらに嘆いていた。

 苦しみ悩むのではない。

 苦しみ嘆いていた。

 窓の外からパトカーのサイレンが響いてくる。窓の外を走り去る人の影を見る。どれも遠い。どれも薄い。

 特に思うものはなかった。顔を上げる気にはならなかった。ただ何となく煩わしい。障子は柔らかな陽の光を求めて二階の校舎へと上がっていった。「ヤナギの霊を探せ」という淡々とした男の口調が耳から離れない。障子は涼やかな木の匂いを求めて旧校舎へと向かっていった。

「障子くん!」

 さらりとした声が耳を撫でた。明るい声だった。温かな光を見た気がした。

 障子はあっと顔を上げた。見覚えのある女生徒が目の前に立っていたのだ。

「あ、え……」

「こんな所で何してるの? ここは演劇部の部室だよ?」

 切れ長の一重に薄い唇と純和風に整った顔をした女生徒だった。目鼻立ちの細やかさはまるで造り物のようで、その繊細さがややもすると明暗で表情を変える日本人形のようで、そんな彼女のことを障子は初めて出会ったその日からずっと恐れていた。

「どうしたの? また麗奈を探しにきたの?」

 理由は分からなかった。

 ただ怖いと、全身が震えた。体の芯まで凍り付きそうだった。

「なんだか顔が青白いようだけど……。もしかして何かあったの?」

 吉田障子はその本能で、五人目のヤナギの霊である大野木紗夜を恐れていた。

「どうして震えてるの? 障子くん、大丈夫?」

 白魚のような手が肩に触れる。黒真珠のような瞳が迫る。

 怖かった。逃げ出したかった。でも以前とは何か違うような──。障子は動かせなくなった視線に困惑した。

 紗夜の表情もまたひっ迫しているようだった。問い詰めるような口調に余裕はなく、大きく見開かれた瞳は涙に濡れているようで、白い手の先が微かな震えている。その声に呑み込まれてしまいそうで、その瞳に吸い込まれてしまいそうで、その手を握り締めてしまいそうだった。

「障子くん……」

 紗夜の唇が近づく。生温かい吐息が頬を撫でる。

「大丈夫、大丈夫だからね! だから、ほら……私の目を見て? 大丈夫だから、私に何でも話してみて?」

 紗夜の様子がおかしかった。

 表情も、仕草も、態度も、いつもの彼女とは何処か違うようだった。

 何よりも体付きがおかしい。元より細身である筈の彼女の体型はいつもよりさらに細くなってるようで、けれども腰回りや胸の辺りの膨らみはどうにも大きくなってるようで、かといって重そうには見えず、軽々と抱き上げられそうで、ただ抱き締めたら折れてしまいそうな程に弱々しく見える。

 目線もおかしい。瞳がいつもより下にある。唇と唇が重なりそうなほどに近い。肩と肩がぶつかってしまいそうだ。いつもは少しだけ見上げていたのに、今は少しだけ見下ろしている。いつもはふわりと舞い降りてくる声が、今はさらりと耳を撫でていく。そう思ってしまうほどに何だか様子がおかしかった。

「障子くん」

 あっと障子は目を見開いた。やっと違和感の正体に気が付いたのだ。

「大丈夫だからね」

 変わっていたのは彼自身だった。障子は自分の体を取り戻していたのだ。もはや彼は三原麗奈ではなかった。今の彼は正真正銘の男だった。そう思った。そう思うと同時に呼吸が乱れた。だって視線が重なっていたから。吐息が重なり合いそうだったから。肌と肌を重ね合わせて、そうしてそのまま彼女のことを抱き締めてしまいそうだったから。

「あ……! わっ……!」

 障子は慌てふためき、廊下に並んだ窓の向こうに視線を動かしていった。青い夏空が広がっている。髪の乱れた自分の姿がうっすらと映っている。

 火照ったような汗を感じた。半歩後ろに下がった障子はもじもじと白いシャツで手を拭った。

「障子くん!」

 紗夜の瞳が近付く。

 障子は思わず俯いてしまった。先ほどのように視線を合わせられない。紗夜は女性で、さらに先輩である。上級生の異性と校内で話すなど、彼にとっては不良に立ち向かうのと同じくらい難しいことであった。

「ねぇ、何があったの? お願いだから話してみて?」

「あ、あ、あの……」

「ん?」

「れ、麗奈さ……麗奈先輩は……」

「麗奈? やっぱり麗奈に会いたくてここに来たの?」

「え、あ……うん、と……」

 こくりと柔らかな髪を微かに揺らした。それが最も違和感のない答えだろうと考えたのだ。

 三原麗奈の行方が分からないという話はすでに聞いていた。障子は「麗奈は今日お休みだよ」という言葉が返ってくると共に、大きく頭を下げ、すぐにでもこの場を立ち去ろうと目論んでいた。それは目の前の女生徒が恐ろしかったからであり、美しかったからであり、何よりも親友だったからだ。障子は彼女との会話を覚えていた。彼女の優しさを覚えていた。そんな彼女のあられもない姿をその目で見てしまっていた。三原麗奈と入れ替わっていた際、幾度となく彼女の身体に触れ、肌に触れ、その心にまで触れてしまっていた。その記憶が脳裏に浮かび上がってくると、すごくもどかしい気持ちになって、ひどく不安な気分になって、どうしても居た堪れなくなって、わっと逃げ出したくなった。それは罪悪感に近い感情で、決して説明出来ない現状に対する孤独感でもあった。

「ごめんね。今日は麗奈、来てないの」

 望み通りの答えである。

「あ、そう……ですか……」

 障子はほっと息を吐き出した。ぺこりとまた頭を下げると、小走りに立ち去ろうとする。

 だが、踏み出せなかった。

 突然、柔らかな熱が背中に伝わったのだ。細い腕が肩から胸に掛かったのだ。温かな吐息がうなじをくすぐったのだ。

「障子くん」

 力強い愛情に引き留められてしまった。後ろからぎゅっと抱き締められてしまった。

「行かないで」

 障子は言葉を失ってしまった。蛇に巻き付かれた蛙のように、初恋の幼馴染に抱き締められた少年のように、体の動きを止めてしまった。思考が止まってしまった。もはやされるがままで、気が付けば彼は正面から、彼女の整った顔を見つめていた。

「障子くん」

 吐息が伝わる。熱を感じる。

「あ……」

「話しなさい」

「え……?」

「全部話すの!」

 鋭い風が耳元を掠めた気がした。障子はゴクリと唾を飲み込んだ。

 想像とは違う声色だった。よく見れば紗夜の頬はほんのりと紅色に染まっている。どうやら紗夜は怒っているようだった。途端に障子は全身が凍り付くような恐怖心を覚えた。

「何か隠してるんでしょ?」

 ふるふると障子の首が横に動く。視線が下に落ちていく。

「ダメ! 話しなさい!」

 だが、それを紗夜が許さない。

 ガシリと両の手で障子の柔らかな頬を押さえると、無理やり視線を上げさせた。白く繊細に見えた彼女の手は意外にもエネルギーに満ち溢れていて、力強く、熱かった。障子はいつまでもされるがままで、もはや首を振ることさえも出来なかった。

「何かあったんでしょ? だって今の障子くん、すっごく変だもん」

「な、あ……な、何も……」

「あんなに自信満々で、お調子者で、カッコつけで、だらしなくって、麗奈一筋で──でも何だかすっごく寂しそうで、とっても冷たい目をしてて、何処か遠くを見つめてて……。あれれ、なんでかな? どうしてだか私、障子くんのことすっごく観察してたかも?」

 そう言って、少しだけ微笑んだ。薄い唇が横に開いた。そんな紗夜の瞳に、障子はまた吸い込まれそうになってしまう。

「障子くんってさ、やっぱりちょっと麗奈に似てるのかも。ほら、麗奈っていっつも自信満々だし、お茶目で、綺麗なのに可愛いを目指してて、時間にルーズで、足田くん一筋で──あ、これ言っちゃダメなやつだ! イヒヒ」

「あ、あの……」

「すっごく寂しがり屋さんで、そこがウサギさんみたいに可愛くって、たまーにすっごく冷たい目をして、ずっーと遠くを見つめて、でもそこが何だかカッコ良くって、何だかほっとけなくって」

「僕……」

「麗奈ってさ、本当に天才なんだよ。何にだってなれちゃうし、何でも出来ちゃうし、皆んなが麗奈に憧れて、まるで王子様みたいで──。でも不器用なとこもあってね。たまーに今の障子くんみたいにお姫様モードになっちゃって、そうなると中々戻ってこなくって……もう、何やっての王子! てね、エヘヘ。面白いでしょ?」

「あぅ……はい。えっと……」

「イヒヒ、今の障子くんってまんま気弱なお姫様だよね。あー、麗奈にも見せてあげたい! 麗奈もこんなになっちゃうだよって」

 瞳と瞳が重なり合って──そして、離れた。

 気が付けば障子の目線に紗夜の唇があった。気が付けば温かな吐息が額に当たっていた。気が付けば障子はキスされていた。

「でもね、障子くんはやっぱり王子様なの。自信家で、明るくって、優しくって、でも何処か影があって、そんな所もカッコよくって──皆んなを導く王子様。障子くんには王子様が似合ってるよ」

 やっと障子の首が動いた。ふるふると柔らかな髪が横に動く。

 紗夜は微笑んだ。そうしてまた障子の額にキスをした。

「なれるよ。だから胸を張って、前を向いて」

 瞳と瞳が重なり合う。息と息が触れ合う。

 その瞳に吸い込まれることなく、その吐息に呑み込まれることなく、彼はただ真っ直ぐ彼女を見つめていた。

「そうして麗奈のことも導いてあげてね。ほら、麗奈ってやっぱり女の子だから」

 紗夜の瞳を見つめたまま、プロキオンの白光を瞳に浮かばせながら、障子はコクリと顎を前に倒した。



 富士峰警察署警部補、野坂薫は顔面を蒼白させた。

 あと一歩のところだった。重々しい門扉を操るための簡素な制御室まであと一歩というところだった。突然、大岩に挟まれてしまったかのように体が動かせなくなったのだ。

 ほんの目と鼻の先だった。悪逆非道な男が富士峰高校の古びた校舎を見上げている。傲岸不遜な髑髏が閉じられていく門扉に微笑んでいる。

 だが、その一歩が踏み出せない。体を動かせる気がしない。大岩をはねのけるイメージが湧かない。

 体力には自信があった。不遜な若者の一人や二人、軽々と投げ飛ばせる力は備えていた。野坂薫は柔道五段の実力者だった。身長はそれほど高くないものの、鍛え上げた肉体は重量級であり、腕力において誰かに遅れをとったという記憶はない。

 いや、ある──。

 野坂薫ははっと頬を強張らせた。彼はかつて、自分よりも小柄で細身で体重の軽い男に投げ飛ばされていた。一度ならず二度三度と。あれはまだ学生時代の──町の道場での事だ。そうだ、忘れるはずがない。ついぞその男には勝つことが出来なかった。今でもたまに彼の影に気が付けば、言いようのない恐怖心を覚えると共に、身が竦み、足が止まってしまうのだった。

 だが、それでも悔しさや惨めさはなかった。

 何故ならあれは人じゃない──。

 猛獣か。怪物か。

 もはや挑む気にすらならなかった。

「お、荻野先輩……?」

 野坂薫は後ろを振り返らなかった。少しでも体を動かせばそのままやられてしまいそうな気がしたのだ。大岩は幻覚であり、腰のベルトの部分にはしっかりとした人の手の感触がある。

「先輩なんですか……?」

 人の気配はした。だが、人の筈がなかった。人の力ではなかったから。百キロを超す男の突進を片手で軽々と止められる人間などこの世に存在していいわけがない。そう、一人を除いて──。

 いや、アレは人じゃない。怪獣か。魔物か。人じゃないのであれば、大岩の幻覚を作り出すような存在も、この世にあり得るのかもしれない。

 門扉が閉じられる。

 寺の鐘に石を投げつけたような、いやに大きな音が辺りに響き渡る。

 野坂薫はカッと目を見開いた。自分の立場を思い出したのだ。

「おい荻野……」

 彼は警官だった。不遜な輩が彼の目の前に立っていた。彼は大人だった。助けを待つ人たちが彼の声の届く距離に倒れていた。

「おめぇ、自分が何やってっか分かってんのか……?」

 腰のホルダーには手を伸ばさなかった。それでは制圧出来ないだろうと考えたのだ。後ろの男が本当にあの荻野新平であるならば、銃の扱いで敵うはずがなかった。

 だが、取っ組み合いならば──。

「救助妨害だぁ? おいおい何だそりゃ、あり得ねぇなんてもんじゃねぇぞ。そんなことすりゃあ殺人罪、いいや、んなもん人として終わってやがる。なぁおい、おめぇマジに人じゃなくなっちまうつもりか?」

 鍛錬を怠ったことはなかった。どれほど仕事が忙しくとも毎日のように走り、鍛え、山の上に聳える太いケヤキに括り付けた帯を、千、二千と引っ張ってきた。

 いや、敵う敵わないではないのだ。それが自分という男の義務なのだ。

「おらぁ荻野ぉ! おめぇ聞いてっ……」

「ちょっとアンタ、荻野荻野ってさっきからなーにを勘違いしてんのよ」

「あ……?」

 はたと野坂薫は表情を変えた。幻聴を聞いた気がしたのだ。それは三十を超えた男の声ではなかった。真後ろで響いたのは少女の声だった。

 だが、それこそ絶対にあり得ないだろう。

 野坂薫は怪訝そうに眉を顰めた。

「救助を妨害してやろうなんて気持ちはこれっぽっちもないわ。別に私らは悪人じゃないのよ。ま、言ってみれば人助けね。だからあんなサイコパス野郎と一緒にしないでくれるかしら?」

「おい、待てや……」

「ちょっと複雑だから説明は省くけれど、今この学校で意識を失ってる三人の魂が夜の校舎って場所を彷徨ってる可能性があるの。で、その空になった肉体を外に出しちゃうと三人とも死んじゃうって話で、だから救急車が来れないように門扉を塞いだってわけ。ね、そうでしょ?」

 右腕にタトゥーを入れた不遜な男の首が前に倒れる。それを横目に、野坂薫は少しずつ後ろを振り返っていった。

「大人しくするって約束するならこれ以上は何もしないけど、まぁ、それも無理な話よね」

「おめぇ……」

「だってアンタ、大人でしょ」

「誰だ……?」

「幽霊なんてもう信じてないものね」

「おら!」

 声と声が重なる。睦月花子はすでに手を離していた。

 視線と視線がぶつかる。野坂薫はすでに手を突き出していた。

 腕と腕が交差する。二人の額に青筋が浮かび上がった。

 野坂薫は雄叫びを上げた。鍛え抜かれた体がさらに大きく膨れ上がる。

 だが、動かなかった。

 彼の体はすでに自由だった。

 それでも一向に動かなかった。

 花子の肩と胸ぐらを掴んだまま、野坂薫は息を止めた。腰を低く落としたまま、視線のみをゆっくりと上げていった。

「んだよ……」

 そこにあったのは巨大な岩壁だった。大岩に彫られた鬼の顔がギロリと彼の目を見下ろしていた。

「幻覚じゃあなかったのか……」

 野坂薫は肩の力を抜いた。ふっと笑みが溢れる。気が付けば彼は空を見上げていた。青く澄んだ夏空が延々と広がっている。その真下で古びた校舎が悠然と佇んでいる。老齢のシダレヤナギに暗い影を落としている。

 最後にもう一度雄叫びを上げた彼は、全身を打ち付けられる衝撃と共に、暗く濁った闇の底へと意識を沈めていった。



 

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