憂炎の焦り
ベッドの上で半分意識を取り戻した吉田障子は虚ろに開かれた目を保健室の白い壁に向けた。窓から差し込む薄い陽射し。花瓶に咲く青い花。ベッドの側に座り込んでいた生徒会副会長の宮田風花はそんな障子の様子に心配そうな表情をする。
「吉田くん、大丈夫?」
「はい……」
昼休みの終わりを告げるチャイム。グラウンドから校舎に戻る生徒たちの声が廊下に響く。
「さ、宮田さんも教室に戻らないと」
保健室の養護教諭である藤元恵美はそっと風花の肩に手を置いた。コクリと頷いた風花は立ち上がって頭を下げると、ベッドの上の障子に微笑んだ。
「じゃあ、私、教室に戻るから。またね、吉田くん」
障子は上目遣いに風花を見上げた。何かを訴えるかのような視線だ。そんな吹く風に飛ばされそうな程に弱々しい一年生の男の子を病気がちな弟と重ねた風花は、心苦しく思いながらも手を振って保健室を出ていった。
先生は大丈夫だって言ってたけど……。
階段を一段一段踏みしめて上がった風花は小刻みに震える障子の背中を思い出した。心身を衰弱させたような青白い顔。消え入りそうな声。
放課後また訪ねてみよう。
一人頷いた風花は、教室の前で立ち止まると、名残惜しそうに後ろを振り返った。
六限目が終わり、ショートホームルームを済ませた生徒たちが掃除を始める。ゴミ袋を校舎裏に運んでいた鴨川新九郎はポケットの中でしつこく着信音を鳴らし続けるアイフォンに辟易していた。
「田中くん、掃除中だよ」
携帯を耳に当てた新九郎はやれやれといった声を出した。
「新九郎、今何処だ?」
「ゴミステーションだけど?」
「すぐ行く」
「ちょ……」
一方的に電話が切られると、新九郎はため息をついた。取り敢えずゴミの分別を済ました彼は校舎裏で太い腕を組むと、不真面目な超研の幽霊部員を待つことにした。精悍な眉。ムッと結ばれた唇。ゴミを運びに来た生徒たちは恐々と首をすくめて背の高い新九郎の横を通り抜けていく。
「よぉ新九郎、久しぶりだな」
涼しげな男の声が校舎裏を賑わした。腕を組んだまま振り返った新九郎に、田中太郎は左手を挙げる。切れ長の目。堀の深い鷲鼻。新九郎と同じくらい背の高い彼は肩まで伸びた長い黒髪をワックスでパーマ風に固めていた。
「やぁ田中くん、本当に久しぶりだね」
「ああ、色々と忙しくてな。学校も久しぶりだぜ」
「出席日数、大丈夫?」
「大丈夫さ、そんな事より新九郎、大事な話がある」
「相変わらず、君はせっかちだね。一体どうしたの?」
新九郎は肩をすくめた。周囲を横目に見渡した太郎は声のトーンを一段落として新九郎に耳打ちをする。
「お前ら、ヤナギの幽霊追ってねーだろうな?」
「うん、と……どういう意味?」
「そのままの意味だ」
「もちろん追ってるけど」
「何でだよ」
「何でって……」
「何で今さら、こんな状況で……まさか、お前らが引き起こしたのか?」
「……ごめん、話を整理してくれないかな? 本当に言ってる意味が分からないんだ」
せっかちな親友に、イライラと首を振った新九郎は腰に手を当てた。太郎は何か焦ったように忙しなくキョロキョロと周囲に視線を送り続ける。そして、ボソボソと中国語で何かを呟いた彼は、新九郎を睨み上げた。
「とにかくだ。これ以上、ヤナギの幽霊は追うな。というか、暫く学校には近づかない方がいいぞ?」
「無理言わないでよ」
「無理な話なんてしてないだろ」
「学校は休めないし、ヤナギの件だって僕の一存じゃ決められないよ。ねぇ、君も超研のメンバーなんだから、部長に直接聞いてみたら?」
「嫌だね。あのイカれ女、ヤナギの幽霊と同じくらいヤベェじゃねーか、近づきたくねーんだよ」
「誰がイカれ女ですって?」
上からの声に校舎裏に立っていた二人は声を失ってしまう。ゼンマイ仕掛けの人形のようにゆっくりと顔を上げた太郎は、二階から下を見下ろす睦月花子の鬼の形相を見た。
「憂炎、李憂炎。随分とまぁ、久しぶりじゃあないの?」
「あ、えっと、お久しぶりです……」
久しぶりに呼ばれた本名に太郎は戸惑った。顔を上げるのが怖かった新九郎は直立姿勢のままにせっせと地面を歩くアリを眺め続ける。
「ええ、久しぶりね」
「はは……」
「で、誰がイカれ女で、ヤナギの幽霊が何ですって?」
「あ、いや、その……」
太郎の首筋を伝う冷たい汗。新九郎はケヤキの枝で鳴く小鳥の声に耳を傾けた。
「……じゃあ新九郎、俺、行くわ」
新九郎の肩を叩いた太郎は、二階を見上げて一礼すると、花子に背中を向けて走り出した。顔を上げた新九郎の後ろに響き渡る衝撃音。舞い上がる砂埃。二階から飛び降りた花子は着地と同時に地面を蹴って太郎の背中を追いかける。気付かず走り続ける太郎の首に巻きつく腕。軽い呻き声を上げた太郎はすぐに花子の腕の中で意識を失った。
「ぶ、部長、無茶しないで下さい!」
慌てて二人の元に走り寄った新九郎は血管の浮かぶ花子の腕を掴んだ。花子が顔を上げるとその鋭い視線に新九郎はたじろぐ。
「アンタ、何でこのアホから連絡があった事を黙ってたのよ?」
「あ、その、それは……」
「まぁ、いいわ。それよりコイツ、面白そうな話をしてたわね?」
「え?」
立ち上がった花子は気を失った太郎を見下ろすと腕を組んで目を細めた。
「ヤナギの幽霊は追うな、か。コイツが何を知ってるのか、放課後、吐かせる必要があるわね」
「は、はあ……えっと、部長、放課後は吾郎くんとの作戦会議があるのでは? それに、姫宮さんと吉田くんの件も……」
「時間が惜しいから、全部一緒にやるわよ」
「わ、分かりました」
腕を組んで新九郎を見上げる花子の瞳に赤い炎が燃え上がる。覚悟を決めて深く息を吐いた新九郎は、地面に寝転がる親友の安否を確認した。




