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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
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しょう子の語り


 街外れの田舎道は青々とした夏の日差しに心地良かった。街を燃やす喧騒は田畑に囲まれた日本家屋にまでは届いておらず、庭先では赤松がゆったりと青空を撫でている。

 田川家の玄関前でタクシーを降りた戸田和夫は固くなった背中を伸ばすようにして帽子を被り直すと、山から遠く響いてくる小鳥の囀りに耳を澄ませた。そんな老人の背後で、キザったらしい黒縁メガネをかけた少年と、小柄で俊敏そうな少年が不安げに顔を見合わせている。

「あら戸田さん、こんにちは。それと、明彦のお友達かしら? いいお天気ね」

 田川真由美の朗らかな声が玄関前の石畳を賑わせると、戸田和夫は白い無精髭を崩すような満面の笑みを浮かべた。徳山吾郎と小田信長は同時に頭を下げる。今朝、何をするともなく、されど何かしなければと焦燥感に駆られながら、旧校舎のヤナギの木の前に集まっていた二人に、田川家に向かう途中だった戸田和夫が声を掛けたのだった。ヤナギの木の安否を確かめようと学校に立ち寄ったらしい。二人の少年が実際に夜の校舎を体験しているということで同行を頼んだという次第だった。

「ささ、どうぞ遠慮なくお上がりください。しょう子お婆ちゃんね、朝早くからずっーと、戸田さんが来るのを今か今かと待ち侘びてたんだから」

「そうかそうか、はっはっは、それは急がねば怒られてしまうの。では、お邪魔します」

 庭先の鉄平石を涼しい風が過ぎる。山の木々は青く、それでも訪れる秋の装いに、眩しさがうっすらと薄れている。

 仏間を越えた先の和室が田川しょう子の部屋だった。その手前、縁側沿いの広い座敷でしょう子は待っていた。白百合色のジャケットにゆったりとした黒のパンツと服装はフォーマルで、厚手の座布団に正座したしょう子の表情は柔らかく、ただその白く濁った瞳には安寧を望む老女の確固たる意志が宿っている。

 戸田和夫はパナマハットを脱ぐと、頭を下げるようにして座敷に足を踏み入れた。二人の少年がその後に続く。

 座敷には先客があった。八田英一はリネンシャツにカーキパンツとラフな格好をしており、畳に寝転がった田川明彦の隣で、田川家の末の妹である璃奈と楽しそうに絵本を読んでいる。

「ねぇ瑠奈、今からお母さんと一緒に公園に行かない?」

「えー、瑠奈、おじさんと本読むー」

「もー、お兄さんでしょ! 今からしょう子お婆ちゃんがこわーいお話を始めるから、だから瑠奈はお母さんと公園に行きましょ?」

「じゃあ俺も」

 明彦は大きく欠伸をすると、ごろんと気怠げに立ち上がった。それを縁側に立つ真由美が制止する。

「アンタはここでお婆ちゃんのお話を聞くの」

「はー?」

「宿題やってないんだから、せめてお話くらいは聞いていきなさいって」

「ふざけんなよ、嫌に決まってんじゃん!」

「アンタ一度だってお婆ちゃんのお話聞いたことないじゃない」

「だって役に立たねーし、戦争なんて興味ねーもん。俺は今を生きる若者なの」

「これボーイよ、そんな考えではいかんぞ。お主もしょう子お婆さんの語りを聞いていけ。過去から学ばぬ人は同じ過ちを繰り返すでな」

 戸田和夫はそう言って、田川しょう子の正面に腰を下ろした。

「ほーら戸田さんもこう言ってるんだし、明彦もちゃんと聞いていきなさい!」

「なら要約したのを後で聞かせろよ」

「明彦くん、君も聞いていきたまえよ」

 徳山吾郎が口を挟む。その黒縁メガネを見上げた明彦は「はい?」と訝しげに眉を顰めた。

「君も当事者だろう。ならばここに残ってしょう子さんの話を聞くんだ」

「いや、意味分かんねーし。アンタ、生徒会の徳山先輩っすよね? なんで俺ん家にいるんすか?」

「僕も当事者だからだ」

「そっすか。じゃあ俺、忙しいんで」

「分かった。ならば花子くんと麗奈さんに君がそういう男だったと伝えておこう」

 ひゅっと明彦の呼吸が止まる。その二人の名前は彼にとってトラウマに近い。

「は……? はあ……? い、意味分かんねーし……。花子先輩とか、み、三原先輩とか……まったく関係ねーじゃん!」

「それがあるんだよ。君もあの夜の校舎では花子くんの世話になったろう」

「へ……?」

「因みに君たちをあの場所へと誘ったのが麗奈さんなんだ」

 空気の抜けた風船のようにヘナヘナと明彦の体が崩れていく。「さて、花子くんのラインは……」と徳山吾郎がスマホの画面を開くと、明彦は健脚なバッタが如く、ぴょんと飛び跳ね、そして見事な正座で座布団の上に着地して見せるのだった。

「てっきり真っ白な患者衣姿で訪れるものとばかり思っておったわい」

 戸田和夫は「よっこらせ」と胡座をかいた。その視線は八田英一に向けられている。英一は苦笑すると、畳の上に絵本を閉じた。

「いえいえ、僕は単なる付き添いでしたから」

「あの者たちは大丈夫なのか?」

「ご家族の方々、学会の者たちが付き添っております。大丈夫でしょう」

「そうか、そうか」

「それで戸田さん、先ほどの電話での話なんですが……」

「まぁ待てイングリッシュボーイよ、それは後にしよう。我らはしょう子お婆さんの語りを聞きに来たんじゃ」

 戸田和夫は柔和な表情で首を振ると、畳一枚挟んだ正面の老女に軽く頭を下げた。しょう子もまた小さく頭を下げる。頬は垂れ、瞳は濁り、痩せて萎んだ背中はくにりと曲がっている。それでもその視線は昔と変わらず力強かった。

「やあねぇ、しょう子お婆さんだなんて。あたしゃまだまだおめぇから見りゃあ、ほら、お姉さんだよぉ」

 湿った枯れ葉が風に擦れたような声だ。それでもしょう子の声はハツラツとして聞き取りやすく、戸田和夫は表情を崩すと、高らかな笑い声を縁側の外に響かせた。

「これはこれは、我としたことが大変な無礼をば。まったく、しょう子さんはいつまでも若々しいわい」

「あれまぁ、野暮な男がなんとまぁ。お世辞はお上手になったようだねぇ」

「はっはっは、お世辞などと……。いやはや我も歳を取って、いつまでもしょう子さんに、やれ野暮ったいだのと、身だしなみくらいはきちんとしなさいだのと、怒られるわけにはいかんなぁと……。はて、そうじゃのぉ……、どうにも我の方が惚けてしまっておるようでな、数十年ぶりの故郷が懐かしゅうて懐かしゅうて……何もかもが遠い過去の思い出のように見えてしまうんじゃわ……」

「なーんも変わっちゃおりゃあせん。おめぇもあたしもこの街も、なぁんもかんも、昔のまんまさ」

 しょう子はあらぬ方向に微笑んだ。白く濁った瞳が青い日の差す縁側を泳いでいる。戸田和夫もまた微笑むも、小さく萎んだしょう子の背中に重苦しいほどの後悔の念を覚えてしまう。彼がこの街を出る前のしょう子はまだふくよかで、還暦を迎えていようとも肌艶は若い頃と変わらず、その黒い瞳の奥で煌めく光は誰のものよりも眩しかった。およそ二十年という歳月の果ての、当然受け入れるべき現実とは分かっていても、戸田和夫は心の動揺を抑えきれなかった。

「さぁて何処から話したもんかねぇ。あたしゃもう随分と、おめぇとは沢山のお話をしてきたけんど……」

「昔のように語ってくだされ」

「そぉかい」

 ふと、小田信長の視界の端を何かが横切る。座敷の隅で小柄な体躯をさらに小さく丸めていた彼はひっと息を呑んだ。庭先に人影を見たのだ。おさげ髪を胸の前に下ろした少女の影だった。ただそれはほんの一瞬のことで、縁側に落ちる木漏れ日の先にソヨゴの青い葉を見た信長は、ほっと息を吐き出した。

「さぁてねぇ……。そうさねぇ……。あたしゃね、時間だけはしっかりと覚えとって、ほれ、目はよぉ見えんようになっても、記憶だけはいつまでぇもいつまでぇも鮮明なままなんよ」

 そう言って、しょう子は座敷を見渡した。

「ほらさ、本当に色んなことがあったけんど、ぜんぶぜーんぶ覚えとってな、おめぇと最後に会った日のことも覚えとって、皆んなぁん顔もしっかり覚えとって、あれからもう七十年くらい経つけんど、そんでもなんもかんもよぉ覚えとる。鮮明、鮮明。ただなぁ、ほんに一つだけ、どーしても思い出せんことがあってなぁ、あれ、あたしゃどーやって学校から街まで逃げて行ったんか、それだけはよぉ覚えとらん」

 瞳が僅かに下がる。声が微かに大きくなる。

「おっきな爆弾がさぁ、すんぐ目ん前に落ちて──ありゃあ広場じゃった。あたしゃもうビックリして、あああって目ぇ覚まして、そんでそこが街の広場じゃって分かった。すんぐ皆んなんこと探して──なぁしてあたしゃこんなとこにおるんじゃろかって、おろおろ。学校はどーなったんじゃろかって、おろおろ。皆んなぁは何処におるんじゃろかって、おろおろ。だからっていつまた爆弾が落ちてくっかも分からんし、戦争中じゃ、はよぉ学校に戻らんとって思うた。空は暗かったけんど、炎と煙は熱かったけんど、周りには誰もおらん思うて、あたしゃ安心した。ならはよぉ戻らんとって、はよぉ皆んなに会わんとって、はよぉ皆んなを助けに行かんとって、そんで爆弾落ちた広場もう一度だけ振り返って、そんで、そんで、あああってまた悲鳴上げちまった──初めは赤いボールかと思うたんよ、ああ、赤いボールが転がっとるって、でもそれが人の首じゃって分かって、気が付いたらあたしゃもう無我夢中で走っとった。とんかくおそろしゅうておそろしゅうて、あたしゃもう怖くって、とんかく自分ことで精一杯で、もうそっからは逃げることしか出来んかった。だからかなぁ、あん時のことだけはよぉ覚えとらん」

 しょう子はそこで言葉を止めた。お盆に置かれた湯呑みを痩せ細った手で探すと、すぐに腰を上げた英一が老女の体を支える。

「はー、とんかくおそろしゅうてなぁ。あん頃はおそろしいことばっかじゃった。あたしゃまだほんの子供で、戦争んことなんてよー分からんかったけんど、とんかくおそろしゅうて、もうこんな思いはしたくないって、そんだけは思うた」

 そうしてまた語り始める。座敷の空気は今や老女の声に呑まれている。

「あたしは──」



 部屋に緊張が走る。

 睦月花子ははっと動きを止めると、駒をそっと盤の上に離した。

 チャイムが鳴り響いたのだ。

 厳格そうな男の声が家の中を震わせる。カーテンの隙間から窓の外を覗き込んだ田中太郎の頬がスッと青ざめる。ゆっくりと花子が視線を上げると、清水狂介の静かな声が盤上に伸びた。

「おいアンタ、下に行って家族以外は誰もいないと伝えてきてくれ」

「私ぃ?」

 睦月静子は不満げに頬を膨らませた。

「てか、何? 誰が来たの?」

「警察だ」

「け、警察ぅ? え、なんでなんで?」

「察しろ」

「察しろって、もー。あはは、ま、いいけど。君、貸しひとつだぜー」

 静子は片目を閉じると、笑いながら階段を駆け下りていった。そっと部屋のドアを閉じた田中太郎の表情は空気を求める金魚のようである。その唇までもが水溜まりに映った空のように青く曇っている。

「む、無理だろ……。玄関には俺たちの靴があんだぞ……」

「靴なら全てここにある」

 清水狂介はベッドの下に親指を向けた。敷かれた段ボールの上に靴が並んでいる。

「い、いや、それでも……ほら、さっきの騒ぎのせいだって……! お前らが庭で騒ぐから、隣人に通報されちまったんだよ……!」

「だろうな」

「だろうなじゃねーよ……! 俺たちがここに居ることなんてすぐにバレちまうぞ……! おい部長、どうする気だ……!」

 そう声を顰め、花子を睨んだ。花子は無言で腕を組むと、駒の並んだ将棋盤を睨み下ろす。盤面は複雑で安易に玉を導けそうにない。

「おい早瀬、野洲孝之助と連絡をつけろ」

 静寂が訪れると、清水狂介は普段と変わらぬ調子で早瀬竜司の瞳を流し見た。その手には既にスマホが握られている。

「山田春雄でもいい」

「なんでだよ」

「“苦獰天”を動かせ。俺も今から“火龍炎”を動かす」

「なんだと?」

「吉田障子を守る為だ」

 早瀬竜司の目の色が変わる。厳格で獰猛な総長の表情だ。立ち上がった彼はまだ怪我の浅い左手の拳を握り締めると、狂介の目を真上から睨み下ろした。

「テメェ、何言ってやがんだ」

「お前はアイツらのことをどう思う」

「アイツらだと?」

「廃工場にいたアイツらだ」

 その言葉に、早瀬竜司は拳を振り上げたまま体の動きを止めた。

「アイツらはお前の仲間だろう。なんとかしてやりたいとは思わないか」

「は……、思わねぇよ」

「そうか。ならば聞くが、お前はやられっぱなしでいいのか」

「ああ?」

「アイツらがこのまま警察に捕まれば、お前は一生負け犬のままだ。それでいいのか」

「テメェ!」

 拳が振り下ろされる。それを片手でいなした狂介は、さらに言葉を続けた。

「吉田障子を学校に連れて行く。その為には“苦獰天”と“火龍炎”の協力が必要になる」

「意味分かんねーんだよ! 死ねや!」

「おい、静かにしろ!」

 田中太郎は焦ったようにカーテンの隙間から窓の外を見下ろした。警官が二人、庭先で待機しており、こちらの声にはまだ気付いていないようである。

「とにかくバイクを走らせろ。警察の目を分散させろ。それだけだ」

「そんな事して何になるんだ!」

「過去を変える」

「はあ?」

「それが出来るのであれば……。何にせよ、もうそれしか方法はあるまい」

「だから意味が……」

「意味なんて考えるな。とにかく走れ。お前も総長だろ」

 清水狂介はそう言って、右手で盤面を崩した。ブラック&グレーの髑髏のタトゥーが真横の少年の瞳に微笑む。



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