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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章

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長い黒髪の亡霊


 月夜にぼんやりと暗い校舎が佇んでいる。ヤナギの青葉がざわざわと静寂の校庭で揺れている。外から見上げる夜の校舎は巨大な山影のようで、それは夢か幻か、いくら耳を澄ませども産毛にかかる僅かな音すらも響いてこない。

 姫宮玲華は駆け出した。彼女は彼女の探し人がここにいると直感した。それは王子だと信じてやまない者であり、親友だと想う必要もない者である。

 長い黒髪が夜闇を流れる。赤い唇が夜闇を照らす。それが真実だと、世界がそうであると、彼女は自身を疑ったことがなかった。そんな彼女の赤い唇に苦悩する者たちは惑いながらも導かれていくのだった。

「これ、玲華!」

 姫宮詩乃が声を上げる。瞳の影は空色の光に薄れている。老齢な巫女は警戒を怠らず、ただ老婆は一心に孫娘の身を案じていた。

「これ、お主! 確か誠也じゃったか、はようあの子を追ってくれ!」

「え、ええっ……? ぼ、僕……ほら、カメラ持ってくるの忘れちゃったし……、だからもう外に出よっかなって……」

「ワシの足じゃ追い付こうにも離されてしまう! じゃからお主が身命を賭してあの子を捕まえるんじゃ!」

「そ、そんな殺生な……! だってここ、ヤナギの霊がウロウロと……す、すぐに殺されちゃいますよ……!」

「そうならんよう、はよう追わねばならんのじゃ! まったくあの子は何も考えてないが故に途方もない無茶をする、困った子じゃよ!」

 そう声を上げ、み空色の瞳で夜の校舎を見据えた姫宮詩乃は、スッと昇降口の影へと飛び込んでいった。白髪を下ろした老女とは思えない流れるような足運びである。

 水口誠也は一人、途方に暮れてしまった。寂しい夜の学校を見渡すと、もう何も手放すまいと、リコーダーを両手で強く握り締める。人けのない校庭。渡り廊下の向こう側。月明かりの下でゆらゆらとシダレヤナギが長い枝を揺らしている。月光も届かぬ校舎の影でうぞうぞと底のない闇が蠢いている。

 恐る恐る、夜闇に佇む校舎を見上げた彼は、出口が分からないという単純で絶望的な事実にやっと気が付いた。前回は旧校舎の壁から何とか外の世界へと飛び出すことに成功したが、果たしてそこに辿り着く為には、また暗く危険な夜の校舎を駆け抜けねばならないのではなかろうか──。

「ちょ、ちょ、ちょ……! ちょっと待って下さいよおおおぉ……!」

 慌てふためきながらもリコーダーだけは手放さない。誠也は必死になって、老婆の瞳の青い光を追いかけていった。



 姫宮玲華の足取りは軽快である。

 生まれ変わりだと信じて疑わない吉田真智子はもちろんのこと、柔らかな頬を黒く煤けさせた山本千代子本人にもまた出会えると、彼女は心を躍らせていた。同一人物であろう二人が同じ空間に存在し得るか否かという問題は、三日連続夕飯がカレーライスを許容出来るか否かという程度の取るに取らない些細な問題にすらなり得ない。ただただ進んだ先にある未来が幸福な薔薇色であると魔女は信じて疑わない。

 夜の校舎は変わらず静寂の中にあった。人の声はない。気配もない。廊下は終わらぬ暗闇の底で、覗き込んでいく教室の一つ一つ、そのすべてのカーテンがきっちりと閉じられている。その為、月明かりすらも校舎の中には届いていない。

 玲華は細い首を傾げた。その白い肌に月光は煌めかない。廊下の窓に月が見えなかったのだ。いや、窓の向こうは完全なる暗闇で、星の瞬きすらも見えず、自身の姿も映っていない。

 そっと赤い唇を撫で、よっと教室に足を踏み入れた玲華は、カーテンに手を伸ばした。陰気臭い校舎の雰囲気を変えようと──。だが、そこにある筈のカーテンに触れることは出来なかった。いや、そもそもそこにあるカーテンを見ること自体が不可能な筈だった。校舎には一切の光がないのだ。だが確かに玲華の瞳には白いカーテンの揺らめきが見えており、彼女はその場を動かずとも、校舎の内部、その全てが手に取るように見えていた。それは以前と何ら変わりのない彼女にとっては当たり前の事実で、ただ、今になってやっと微かな違和感を覚えた。それが魔女の力ではないということに気が付いたのだ。

 いったいなぜ校舎全体を見渡せるのか。

 玲華ははたと動きを止め、むむっと細い眉を顰め、まぁいいかとまたいつもの様にキョロキョロと王子の姿を探し始めた──魔女は深く悩まないのだ──。ただ、この場にいない王子が見つかる筈もなく、山本千代子の姿も吉田真智子の姿も見当たらず、代わりに玲華は、暗い教室に横たわった少女の青白い頬を見た。途端に表情が変わる。

「大変!」

 わっと飛び上がるようにして駆け出した。転げそうになりながらも玲華は足を止めない。校舎の壁をすり抜けるように、スルスルと流れるように、軽やかな音を響かせていく。階段を駆け上がると、そのまま玲華は旧校舎へと飛び込んでいった。木造の廊下は空気がひんやりと乾いている。カーテンのない窓からうっすらと夜の明かりが差し込んでいる。その一室。暗く澱んだ床の隅。傷だらけの少女が一人。

 少女はあられもない姿で、一糸纏わぬ肌を淡い月の光が包み込んでいた。

「ね、ねぇ、君……」

 玲華は思わず視線を逸らしてしまった。それほどまでに少女の状態は惨らしかった。まるで集団に殴られた後のように青紫色に全身が変色し、特に顔がひどく、叩き折られた前歯が床に転がっている。爪は全て剥がされており、股から流れ落ちる血が太ももを赤く濡らしている。全身の打撲痕と並ぶように大小様々な切り傷が少女の柔い肌に刻まれており、少女の側に赤黒く染まった裁ちバサミとカッターナイフの刃を見た玲華は「ひっ」と唇を手で覆い隠してしまった。凄まじいショックに鼓動が乱れていく。視界が狭まり、頬が青ざめていく。

「……だ……だ、大丈夫、大丈夫だよ! 大丈夫だからね、麗奈ちゃん!」

 それもすぐに収まった。魂の底を漂う魔女の記憶が浮かび上がってきたのだ。それは何処までも真っ赤な業火の記憶であり、はっと表情を引き締めた玲華の唇にいつもの煌めきが戻った。白い手を月明かりにかざした玲華は青いジャージの上を脱ぐと、少女の身体にそっと被せた。

「ここを出れば治るからね!」

 傷だらけの少女を胸に抱き寄せる。手足はほっそりと軽い。だが、玲華もまた細身であり、それほど背丈の変わらない彼女の身体を抱き上げることは出来なかった。

「だ、だ、だめだっ……。持ち上げらんないよ……。ごめんね、自分では歩けないもんね……?」

 少女の唇が微かに動く。「え?」と彼女の頬に耳を近づけた玲華は、背後から忍び寄る影に気が付かなかった。

「逃、げて……」

「玲華ちゃん」

 ゆらり、ゆらりと影が揺れる。

「何してるの──」

 振り返った玲華はビクリと肩を震わせた。月の光に隠れた瞳の奥で、吉田真智子の影が黒く揺れていた。

 その影をやはり魔女は知らなかった。

 


 カチリと、盤上に駒音が響く。

 睦月花子の中指に挟まれた銀が中央に向かって歩みを進めると、清水狂介はさして時間を使わず、その銀を越えた先の飛車を見据える位置に角を動かした。まだ互いの王様は城に収まっていない。盤面は序盤だった。それでもピリピリと肌が弾けるような緊張感に、二人の対局を横から覗き込んでいた吉田障子は正座を崩すことが出来ないでいた。

「その吉田真智子についてだが」

 清水狂介の手が動く。二階の一室は深い静寂の中にある。

「どうにも小野寺文久と同様に始末するつもりだったらしい」

 花子の目がカッと見開かれる。駒音高く端歩を突いた花子はそろりと視線を真横に送った。吉田障子の頬は今や結露した窓に見える空のように青白く薄れている。視線を前に戻した花子は額に手を当てると、舌で空気を擦り潰すように、閉じた歯の隙間から深く息を吐き出した。

「アンタねぇ、何のために憂炎をこの部屋から追い出したと思ってんのよ」 

 先ほど清水狂介の口から小野寺文久の名前が出た際に、田中太郎の出生に関する不穏な気配を察した花子はすぐさま姉の名を叫び、早瀬竜司と共に彼を部屋から追い出したのだった。満身創痍にも関わらず随分とやんちゃをした早瀬竜司は現在、一階で花子の姉である静子の看病を受けており、活力有り余る男女を二人っきりにするわけにはいかないという花子の強引な意見から、田中太郎が二人に付き添う形となっていた。その際に吉田障子も付き添わせるべきだったと、今さら後悔したところで後の祭りである。

「もうちょっと気を遣いなさいよね」

「何の話だ」

「その吉田真智子の息子が今目の前にいるでしょーが」

「だからどうした」

「だーから気ぃ遣えっつってんのよ!」

「いずれ知れる話だろう」

 清水狂介の駒音は響かない。長い指で淡々と盤面を撫でるのみだ。そんな彼のブラック&グレーの髑髏のタトゥーから吉田障子は視線をそらした。

「おい花子とやら、夜の校舎についてもう少し詳しく話してくれ」

「もう十分話したわよ。夜の校舎ってのはヤナギの霊たちが彷徨う異界の地で、時間の流れが進んだり戻ったりとめっちゃくちゃで、そこに入る方法も出る方法もまだよく分かってないの」

「どうしてヤナギの霊が複数存在する。山本千代子という少女の生まれ変わりなのであれば、当然一人しか存在し得ないだろう」

「ああ、そういや木崎隆明もそんな話してたわね……。たく、別に何人居たっていいじゃない、ほんと男って無粋な生き物よね」

「根本を違えているのではないか」

「根本が分かんないからこその超自然現象よ。それこそが真髄だもの」

 盤面から視線が外れる。それまでと打って変わって花子の表情は満天の星空に笑う少女のように明るかった。清水狂介は変わらず飄々と、ただ、その瞳は斜め上に向けられている。

「そうか」

「そうよ」

「お前は実際にヤナギの霊をその目で見てるんだな」

「ええ、山本千代子とも鈴木英子とも村田みどりとも拳を交えてるし、この子の母親だっつう吉田真智子のことだってこの目でちゃんと見てるわよ。たく、あんな優しそうなママを始末するだなんて、モブウサギの方がよっぽど危険な怨霊だっつーの」

「危険か否かはさておいて、やはり不可解なのは夜の校舎とヤナギの霊たちの存在だろう。あの三原麗奈という女は類い稀な表現者だった。その行動には確かな意図があった筈だ」

「理由があろうとなかろうとよ。あまつさえこんな大人しい子を犯罪者にしておいて、さらに何の説明も無しにこの子の母親までもを始末しようとしてたなんて、絶対に許されないわ」

 盤面が動いていく。もはや吉田障子には何が起こっているのかさえ理解出来ず、ただ王に迫る飛車と角の動きに息を呑むばかりだった。

 階段を飛び上がるような荒々しい足音が部屋の外から響いてくる。開け放たれた扉を振り返った吉田障子は、現れた長身の青年の整った顔立ちにドキリと頬を赤らめてしまった。

「うおいっ! テメェら何呑気に将棋なんか指してやがんだ!」

 田中太郎の怒鳴り声に続くようにして、鼻筋にバンドエイドを貼った早瀬竜司と、彼の肩に両手を置いたスレンダーな女性が姿を見せる。花子の姉である睦月静子は部屋の中を覗き込むと、丸みのある唇を尖らせるようにしてニヤリと頬を動かした。

「ちょっと花子ぉ、アンタねぇ、こんないい男ばっか家に集めて一体ナニをしようとしてたのよぉ?」

「将棋に決まってんでしょーが、このドアホ」

「へぇ、狭い部屋で若い男女が向かい合って将棋ですかぁ。ちょっと君ぃ、ウブなお嬢さん、ほんとは皆んなでナニをしようとしてたのかなぁ?」

 そう言って、吉田障子の額を隠す猫っ毛に長い指を絡ませた。そんな静子に対して、吉田障子はただ恐々と背中を丸めるばかりで、声はおろか視線すらも返せない様子である。

「ソイツは男よ」

 花子は肩を落とした。盤面に視線を戻す。局面は終盤に差し掛かっており、花子が優勢である。それでも花子の攻撃をのらりくらりと交わし続ける清水狂介の王は安易に捕らえられそうにない。

「で、どうすんのよ」

「何にせよ、夜の校舎とやらを一度この目で見ておかねばなるまい」

「アンタが?」

「いつ少年を学校に連れていく」

「だから何度も言ってるように、夜の校舎への入り方が分かんない限りはどうしようもないんだってば」

「この時代のヤナギの霊は誰だ」

 手が止まる。花子は怪訝そうに眉を顰めると、狂介の長いまつ毛を下から睨み上げた。

「この時代?」

「三原麗奈の言葉だ。俺をこの時代の魔女ではないかと疑っていた」

「どういう意味よ?」

「さぁ、単に邪魔者という意味だろう。ただ、ヤナギの霊と呼ばれる生まれ変わり、同時に現れる王子という存在、この時代の魔女という言葉、そしてヤナギの霊が複数いるという事実から、吉田真智子とはまた別のヤナギの霊の存在を推測出来る」

「それは……いわゆる五人目のヤナギの霊ってやつかしら?」

「五人目か、六人目か。姫宮玲華なる頭の弱い女が自らをヤナギの霊だと思い込んでいたとお前は言っていたな。違うという意見で一致したらしいが、果たして本当にその女はヤナギの霊ではなかったのか。何にせよ怪しいのは三原麗奈だ。三原麗奈本人がヤナギの霊か。或いは王子であり、三原麗奈と近しい人間の中にヤナギの霊がいるのか。……ああそうか、あの青いジャージ、どうにもゴミ捨て場には不釣り合いだった。そうか、あの王子という言葉は三原麗奈に向けられたものだったのか。そうだ、あの女、白魚のように美しい指をしたあの女こそがこの時代のヤナギの霊に違いない。夜の校舎がヤナギの霊の棲家であるというならば、あの女がそこに入る鍵となるだろう」

「アンタ、もしかして手抜いてない?」

 花子は唖然とした表情で盤面を凝視した。矢倉囲いと呼ばれる陣形に整えられた花子の城は未だ無傷であり、対して清水狂介の矢倉は端からの攻めに脆く崩れ去っている。手持ちの銀を使えば花子の矢倉を崩すことも可能だったが、それでも花子の優位に変わりはなく、清水狂介の王はもはや風前の灯に近い。ただ、圧倒的に少ない情報から複雑な局面を捉えていく清水狂介の状況把握力に驚かされた花子は、彼の本来の実力を疑ってしまった。

「手を抜いたことなどない」

「ほんとに? 実は振り飛車党でしたとかじゃないの?」

「お前の方が棋力が上なのは見ての通りだ。言ってみれば思考の分野が違うのだろう。どうにも俺は感覚的な視野が他人よりも広いらしい。対して花子、お前は理論派だ。だから理を詰める将棋においてはお前に分がある。だが、生まれ変わりや亡霊等のいわゆる超常現象と呼ばれる分野に関しては俺の感覚的な視野が優っているのかもしれない。ただそれだけの話だ」

「私が理論派ねぇ」

 花子は「はん」と息を吐くと、ひどくつまらなそうな表現で頭を掻いた。

 

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