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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章

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み空色の記憶


 睦月花子の額に青筋が走る。

 騒がしい音が近付いてきたと、二階の窓から飛び降りた花子の目にブラック&グレーの髑髏のタトゥーが映ったのだ。まだ青い木の葉が朝の道を舞い上がると、清水狂介は普段通り飄々とした態度で、紅蓮のバイクを花子の家の前に止めた。

「なーんでアンタ、バイクで来ちゃってんのよ!」

 花子の怒鳴り声がバイクの排気音を叩き押さえる。もうすでに警察に追われる身であろう吉田障子を慎重に、かつ迅速に、学校まで連れて行かねばならないと、鴨川新九郎の伝手で、昨日黒のワゴン車を暴走させていた清水狂介に迎えの要請を出していたのだった。

「何度でも言ってやるが昨日の車は俺のじゃない。それにバイクの方が速いだろ」

 清水狂介はそう言って、カワサキZ400GPの排気音を轟かせた。その音に、向かいの家の二階のカーテンが揺れ動く。さらにもう一台、今度は黒いボディのバイクが歩道の並木を靡かせると、狂介の後に続くようにして現れた少年の、その右腕に巻かれた包帯に、花子の眉間の皺が深くなった。

「お友達?」

「いや、勝手に付いて来ただけのただの怪我人だ」

「ただの怪我人がなーんで特攻服姿でバイクに跨ってんのよ?」

「さぁ」

「おいそこのチビ女! モチヅキとかいうクソガキがここに居んだろ? 今すぐあのガキを俺の前に連れてきやがれ!」

 早瀬竜司は声を尖らせた。二重瞼がギロリと細められる。骨折しているのか、石膏で固められた右腕が首から包帯で下げられている。足元も覚束ないようで、何とか門柱の横にバイクを止めた彼はフラフラと数歩進むと、長身の清水狂介の腰に寄り掛かるようにして荒い呼吸を繰り返した。ただ、それでも彼の口調と表情は強気である。

「おい、聞こえてんのか……! はぁ……はぁ……あ、あのクソガキを……俺の前に連れてこいって言ってんだ!」

 カチャリと扉の開く音が花子の背中に届く。そっと玄関を振り返った花子は、怪訝そうな表情の田中太郎と、オロオロと肩を丸めた吉田障子に向かって軽く手を振った。

「アンタらはまだ中に居なさいっての」

「テ、テメェ! クソガキぃ! のこのこ出てくるとはいい度胸してんじゃねーか!」

 早瀬竜司はよく尖った犬歯を剥き出しにすると、左手の拳をグッと握り締めた。そうして、すてんとその場で転びそうになりつつも、一歩一歩、吉田障子の元に近付いていく。おおよその事情を察した花子はため息をつくと、とりあえず満身創痍の彼の身体でも支えてやろうかと、腕を前に出してやった。そんな花子の隣を横切る少年が一人。吉田障子の表情は不安げで、哀しげで、それでもその視線は真っ直ぐに、早瀬竜司を見つめていた。

「はぁ、はぁ、テメェ……!」

「あ、あの、ごめんなさい」

「ざけんなッ!」

 早瀬竜司の拳が、コツンと、吉田障子の額に当たる。そのまま竜司の体が前に倒れると、障子は慌てて彼の身体を支えた。そうしてまた「ごめんなさい」と頭を下げた。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

 早瀬竜司の瞳に困惑の色が浮かび上がる。その表情も仕草も態度も、彼の知る少年の姿とは大きくかけ離れていた。ただ彼の身体を支える少年の両腕の温かさにはどこか覚えがある。

「お前誰だよ?」

「あの……その、ごめんなさい……」

「んだよ気色悪ぃ。退けよ!」

 そう声を尖らし、吉田障子の腕を押し退けた。そうして何とか片腕で体勢を立て直した竜司は、吉田障子の顔を冷たく見下ろすと、清水狂介を振り返った。

「なぁおい、コイツって本当にアイツなのか?」

「アイツって誰だ」

「本当にあのモチヅキってガキかって聞いてんだよ!」

「モチヅキって誰だ」

「この……!」

「ソイツは吉田障子だ。なんでも、三原麗奈という女と体が入れ替わっていたらしい」

「はあ?」

「妙な話だが、なるほど、と俺は納得させられた」

「いや、何だよそれ……?」

 意味が分からないと、早瀬竜司の首が横に倒れてしまう。ただ、目の前でひたすらに頭を下げ続ける少年の姿は彼の知る傲慢な少年のものとは完全に異なっており、確かに人格それ自体が別人と入れ替わってるとしか思えない。鈍い痛みに熱った右腕を押さえると、竜司はまた清水狂介を振り返り、「おい」と怪訝そうに眉を顰めた。

 そんな二人の会話を花子が遮る。

「つーかアンタら、その目立つバイクをとっとと仕舞ってくんないかしら?」

「なぜだ。吉田障子を学校に連れていくという話だったろう」

「ただ学校に連れてくだけじゃダメなのよ。夜の校舎に入る方法を先に考えなきゃ」

 清水狂介の目が興味深そうに見開かれる。「ほお」と頷いた彼は斜め上を見上げ、長い指を顎に当てた。

「夜の校舎とは、魂のみが彷徨うという精神空間のことだろう」

「はあん?」

「なるほど。つまりそこで吉田障子と三原麗奈の体が入れ替わったというわけか」

「いや、何言ってんのアンタ?」

 今度は花子の眉が怪訝そうに顰められる。そんな彼女の表情など意に返さず、昨夜とは打って変わってよく晴れた青空に手をかざした狂介は、巨大なキャンバスに色を描き殴るように、長い腕を大きく振り始めた。

「ねぇちょっと、清水京介、アンタなんか勘違いしてるわよ? 夜の校舎ってのはアレよ、ほら……何つーか、あの、学校の怪談みたいなアレのことよ。なんか突然真っ暗な夜の学校に迷い込んじゃって、そんで昔に戻ったり、変な場所に繋がってたりと……まぁともかく、魂だとか精神だとか、そんな訳わかんない場所じゃないって話よ」

「狂介だ。今の話は吉田障子もとい三原麗奈とキザキという男の会話そのままだ。俺はその夜の校舎とやらを知らないから何とも言えん」

 その名前を耳にすると、花子もまた興味深げな表情で顎に手を当てた。

「へぇ、木崎隆明とモブウサギの会話ねぇ……。なーんか気になるわね、他に何か言ってなかったの?」

「他には」

「おい、何を庭でくっちゃべってんだ! 吉田くんが警察に追われてるってこと忘れちまったのか!」

 田中太郎の怒鳴り声に合わせるように、遠くの空をパトカーのサイレンが賑わし始める。花子は「チッ」と舌打ちすると、早く車庫にバイクを仕舞うよう、清水狂介に向かって親指を動かした。



「繋がっておる」

 白髪の老婆の目の色が薄らいでいく。その墨色の瞳にはうっすらと空の青さが紛れ込んでいる。

 大野木紗夜は慄いた。彼女は人形のように整った顔を蒼白させた。それは老婆の視線が鷹のように鋭かったからでも、不正を許さぬ閻魔様が如き表情をしていたからでもない。老婆の瞳の色に動揺してしまったのだ。そこに見えたのはもう取り返しの付かない過去であり、もはや叶えることの出来ない願いだった。老婆の瞳は闇に沈んだ記憶を導く光のようで、その懐かしさに心が乱された。

「この時代のヤナギの霊はお主か」

 夏の校庭だった。変わることのない日常の朝だった。風がいつものようにヤナギの青葉を流していた。

 目の前の老婆にはかつての凛とした女生徒の面影があった。老婆の隣に立つ長い黒髪の女生徒は若かりし頃の老婆と瓜二つのように思えた。二人の後ろで一心不乱にリコーダーを吹く変態の姿は視界に入らない。

 大野木紗夜はゆっくりと視線を落とすと、何気ない動作で髪を耳に掛け、スカートの裾を意味もなく払い、校庭の砂地にそっとローファーを滑らせた。それでも動揺は収まらなかった。湧き上がる恐怖心は抑えられなかった。別に老婆の存在が恐ろしかったわけではない。老婆の瞳に慄いたわけでもない。かつての失敗を思い出すのが怖かったのだ。償うことの出来ない大罪の記憶に戦慄したのだ。

 嘆きだった。大野木紗夜は遥か遠い過去を恐れ、惑い、嘆いていた。

 ただ、意識を失うまではいかない。老婆の瞳は僅かに薄れたのみであり、み空色の光が現れたわけではない。大野木紗夜は薄く赤い唇を噛み締めると、もう巫女の瞳は見たくないと、もう何も思い出したくないと、旧校舎に揺れるヤナギの木を振り返った。そんな彼女の手に長い黒髪の女生徒の手が重なる。

「ねぇ、君も千代子ちゃんなの?」

 姫宮玲華の唇は雪原に散った鮮血のように赤々と煌めいていた。大野木紗夜はぎこちない態度で首を傾げ、困惑したように肩を丸め、嫌悪感を示すように強く手を振り払った。

「何……?」

「君も千代子ちゃんなの?」

「貴方は誰……?」

「あたしだよ、姫宮玲華……ううん、高峰茉莉。ほら、あの時の占い師の魔女だよ。昔々、君がまだ何も知らない少女だった頃、この街の片隅で出会ったの。覚えてるよね?」

「覚えてない」

 そう言って、顔を歪めた。本当に何も覚えていなかった。記憶が曖昧で、不揃いで、不透明で、不誠実で、思い出したいことは風に浮かんだ帽子のように遠くの空へと飛ばされていってしまうのに、思い出したくない記憶ばかりが煮立った水を濁す灰汁のように浮かび上がってくる。自分が生まれ変わりだという自覚はあった。けれど、いったい誰の生まれ変わりなのかはうまく思い出せず、様々な記憶が頭の中を行ったり来たりと忙しい。紗夜はひどく困惑して、とても動揺して、すごく不安になって、どうしようもなく苛立って、どうにもならないほどに悲しくなって、そして、その場に嘔吐した。

「だ、大丈夫!」

 玲華は慌てて紗夜の側に駆け寄った。背中を撫でられると、紗夜はまた苦しそうに胃の中のものを吐き出してしまう。

「お主」

 姫宮詩乃はその鷹が如き鋭い目を大きく見開いた。孫娘である玲華と同じように紗夜の側に膝を折ると、その瞳をじっと覗き込む。

「まさか切れ掛かっておるのか。いや、繋がり掛かっておると言うべきか。一体どういう事じゃ」

 リコーダーの旋律が強くなる。小麦畑を揺らす秋風のように──。草原を染める夕陽のように──。水口誠也は今や何者の声も、影も、光も視界に入れず、ただただ己の内の想いを、世界に向けて放っていた。「うるさい」と玲華のビンタが誠也の頬を真横に薙ぎ払う。

「もしやヤナギとの繋がりを断ち切る方法があるのか。……いや待て、今はそんなことどうでもよい。おいお主、名は何であるか」

 紗夜は答えない。ただ彼女は込み上げてくる吐き気を堪えるばかりである。

「ヤナギの霊であるならば、ヤナギの精神への入り方も知っておるじゃろ。ちょいとワシらをそこへ送っては貰えんか」

「ちょっとおばあちゃん、今はそんな話やめてよ! 千代子ちゃんは苦しんでるんだよ!」

 校庭に落ちたリコーダーをさらに遠くへと蹴り飛ばした玲華は「もうっ」と怒ったように祖母を振り返った。元凶が自分であったというショックは一夜にして忘れてしまったようで、魔女は泰然として胸を張っている。

「時間はあまり残されておらん。今すぐにでも行動を起こさねば」

「王子のお母さんに頼めばいいじゃん!」

「吉田真智子か。じゃが、何処におるか分からぬではないか」

「分かるもん! 王子のお母さんはきっとしょう子ちゃんの家にいるんだもん!」

「おらんかったと、昨日田川しょう子殿の家を訪ねたジジイが言っておったじゃろうて」

「絶対いるもん! だって千代子ちゃんとしょう子ちゃんは友達で……」

「うるさい──」

 声が落ちる。

 校庭が静まり返る。

 あっと息を呑む間もない出来事だった。それは完全なる油断だった。

「何なの。ヤナギがどうとか、夜がどうとか、訳わかんない話はもうやめて──」

 白髪の老婆の瞳が青白く薄れていく。姫宮玲華の唇がぼおっと紅く煌めく。水口誠也は慌てたように校庭に消えたリコーダーを探し始めた。

「貴方たちなんて知らない。千代子って誰よ。私は大野木紗夜、大野木紗夜だから──」

 そう叫ぶと、紗夜は勢いよく駆け出した。その後を追おうとするも、すぐに玲華の視界から紗夜の影が消えてしまう。声が、気配が、足音が、すぐに影に呑まれてしまう。

「な、何で……? どうしてさ……? だってここ、校舎の中じゃないじゃん……?」

「ヤナギの精神は校舎に収まっておるわけではない。じゃが、そうか声じゃったか……。まさかこのワシが、ここまで呆気なく落とされるとは、思いもしなんだ……」

 空色の瞳が揺れる。リコーダーを持つ水口誠也の手が震える。姫宮玲華は唖然としたように校舎を見上げると、その紅く妖艶な唇をぎゅっと紡いだ。

 月夜に揺れるシダレヤナギの青葉。夏の音は響かない。

 校庭は今や夜闇の底にあった。


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