特別な人
しょう子ちゃんは少し変わった人だった。
特別に背が高いわけではなく、特別に声が大きいわけでもなく、特別に綺麗だというわけでもないのに、誰よりも特別な存在感を放っていた。普段の瞳は濡れた黒真珠のようだけれど、笑うと冬の恒星のように明るくなって、舞台に上がれば人が変わったようで、舞台に上がらずとも他の人とは全く違って、街で話す男とも、校庭で笑う女とも違って、老人とも、赤子とも違って、しょう子ちゃんの前では誰もが平等で、しょう子ちゃんの前では誰もが不平等、そんな少し変わったあたしのお友達だった。
そう、お友達だった。声を貰えば嬉しくなって、手を握ればどきりとして、その瞳に吸い込まれてしまいそうで、その唇に触れてみたくって、でもしょう子ちゃんはあたしの大切なお友達だから、失礼な事は出来ない。お話しをするだけで満足で、笑顔を向けられれば有頂天で、舞台を見上げれば春の夢に迷い込んだようで、たまに、日に何度か、しょう子ちゃんがもし男の子だったら、あたしたちの関係はどうなっていたのだろうかと、妄想に耽ってしまうこともあったけれど、あたしはそんなあたしたちの日常におおむね満足だった。
もちろん不満もあった。しょう子ちゃんは人気者だったから、あたし以外のお友達ともよくお話しをしていた。あたしはそれが不満だったけれど、けれども、しょう子ちゃんはただのお友達だったから、ひとり占めすることなんて出来なかった。いつもあたしは、あたしの方を見てくれないかな、と他のお友達とお話をするしょう子ちゃんの後ろ姿を眺めていた。
夏子ちゃんは平凡な女の子だった。優しくて、おせっかいで、おっちょこちょいで、大人しい。いつもあたしたちの半歩後ろを歩いて、あたしが転びそうになると慌てたようにあたしの腕を掴んで、そうして自分が転んでしまって、いつも物静かで、しょう子ちゃんとお話しする時も落ち着いていて、舞台を見上げている時も穏やかで、でも何故だか、夏子ちゃんはしょう子ちゃんのお気に入りだった。
夏子ちゃんが舞台に上がった。しょう子ちゃんに誘われたのだ。あたしも誘われたけれど、あたしは遠慮した。だって、舞台の上は夢の世界だから。しょう子ちゃんのような特別な人の世界で、あたしのような平凡な人が立っていい場所ではないから。ましてや夏子ちゃんのような大人しい女の子では、舞台に上がったとて皆の目を引くような演技ができる筈もなく、却ってしょう子ちゃんの邪魔をしてしまうだろうと、あたしは何だかとても不安になってしまった。どうかどうか、何事もなく幕を引いてくれますように、神様仏様、どうかお願いします。あたしはそう祈った。
杞憂だった。夏子ちゃんの舞台は素晴らしかった。しょう子ちゃんはやっぱり特別素晴らしかったけれど、夏子ちゃんも負けず劣らずで、周りが霞んでしまうほどに、舞台の上は二人の世界だった。春の夢などではない。冬の憂鬱。冬の夜空は美しいけれど、それをじっと眺めていると手足が冷たくなってきて、白い息がさらに白く消えていってしまいそうで、体の震えが止められなくなって、そこに立っていられなくなって、逃げ出したいほどに不安になって、二人の舞台はそんな感じだった。あたしは何だかモヤモヤして、すごくモヤモヤして、とってもモヤモヤして、だから二人のことを見ていられなくなって、そっと涙を流した。
しょう子ちゃんの特別な人になりたいと、あたしは願った。
「くだらん」
男は鼻で息を吐いて、落胆したように頭を掻いた。そうして彼はヤナギの木から視線を外してしまう。肩の広い男だった。瞳の眩しい男だった。目の前に立っているだけで腰が抜けてしまいそうなほどに恐ろしい男だった。強大で、強靭で、凶悪で、あたしはその男のことが昔から大嫌いだった。
「所詮は偶然の産物か。時間を無駄にした」
「燃やしましょうか」
ボサボサと毛先の絡まった黒い髪の女が、芋虫みたいに校舎裏にへたり込んでしまったあたしを冷たく見下ろしてくる。たぶん五十歳くらいで、顔は整って見えるけれど、ところどころ肌がくすんでいて、ナイフで刻んだような皺が目元を走っていて、瞳はただ黒く塗りつぶされたビー玉のようで、人間の表情とは思えなくて、喋り方も独特で、その女が日本人じゃないということだけは分かった。
「この娘、殺して、燃やしましょうか」
「いいや、まだ使い道はある」
「はい」
男の声にボサボサの髪の女は逆らわない。それでも女はゴミを見るような目付きであたしを見下ろしてくる。あたしは何だかとても悔しくて、とても腹立たしくて、とても悲しくて、体の震えが止められなくなって、だから必死になって立ち上がると、顔を思いっきり顰めてやった。夜の校舎に落としてやろうと、いつもやってるみたいにこいつらを誘ってやろうと、不安だったけれど、恐ろしかったけれど、あたしは心を奮い立たせた。以前は失敗してしまったけれど、今回は大嫌いな男だけでなく、ボサボサの髪の女と、更にもう一人、男に寄り添うようにして立つ青い目をした女がいたけれど、でもまた落としてやると、あたしは大嫌いな男に対する抑え切れない激情に涙を流した。くだらなくなんかないと、偶然なんかじゃないと、これは運命なんだと、あたしはあたしと王子の永遠の未来に祈った。
「貴方こそ、くだらない!」
あたしは叫んだ。落としてやると、いつものように夜の影を声に乗せた。けれども、どうしてだか落とせなかった。あたしの声は届いた筈なのに、男の体は倒れなかった。どうしてだか分からない。青い目をした女が傲慢な表情で微笑んでいる。紅い唇だ。ボサボサの髪の女の目が薄くなっていく。み空色の瞳だ。あたしはとても怖くなって、やっぱり話しかけなければよかったと、いつものように遅過ぎる後悔をした。
「俺がくだらないだと?」
男は振り返った。いつものように。彼は彼が許せない事を決して許さない。それが彼の弱点なのだと、かつて王子が話してくれた。大人しかった王子はいつも彼に虐められていて、それでも王子はいつも退屈そうに俯瞰していて、その腫れぼったい目で、彼と皆んなとあたしと自分を、高いところからじっと見下ろしていた。
「おいお花畑、ブサイクなお姫様、愚かもんの妄想女が、この俺を今何と言った?」
「く、くだらないって言ったの! 貴方は誰も愛せないし、誰からも愛されない! 本当の愛を知らない可哀想な人!」
「殺シマスカ?」
「待て」
そう言って、彼の手が、青い目をした女の絹のように滑らかな髪を優しく撫でた。でも、彼の表情は全然優しくなんかなくって、傍若無人な王様のように怒っていて、それでも彼のことは絶対に許せないから、あたしは下を向かないよう必死になった。
「なぁ妄想女、その愛ってのは何だ」
「あ、あ、あい……?」
「テメェの言う本当の愛ってのが何かを聞いてんだよ」
「あ、愛って……」
あたしは戸惑ってしまった。酷い暴力に怯えていたし、殺されるかもしれないと思ったし、罵倒は当然のものとして受け入れる覚悟が出来ていたけれど、まさか質問が返ってくるとは思いもしなかった。
「あ、愛っていうのは……愛は、ひ、人を大切に想う気持ち……! ひ、人と人を惹きつけて結び付ける心……あ、赤い糸! それが愛!」
「違うな」
「貴方が愛の何を!」
「愛ってのは単なる望みだ」
「の、望み……?」
「願望だ。欲望だ。愛するってのは欲するのと同義なのさ。エゴなんだよ」
男の影が大きくなっていく。瞳の光が強くなっていく。
あたしはまたひどく動揺してしまって、ひどく落ち着かなくなって、首を傾げるのもそこそこに、ヤナギの木に隠れるように、肩を下げ、背中を丸め、それでも彼の話に惹きつけられるように、彼の声に呑み込まれるように、彼の瞳に引き摺り込まれるように、上目遣いにギュッと制服のスカートを握り締めた。
「違う! 愛は赤い糸……運命だから!」
「アレが欲しい。コレが欲しい。人間って生き物は欲の塊で出来てやがる。ただ奴らは区別したがるから、ソレが物であるか、ソレが事であるか、ソレが人であるかで言葉を変える。女を愛するも、金を欲するも、不滅を求めるも、根本の部分は同じなのさ。愛ってのは単なる望みなんだ」
そう言って、男は広い肩を聳えさせると、青い目をした女の頬に手を当てた。女は恍惚の表情で、男の横顔に唇を寄せる。その様子に吐き気がして、あたしはどうしても見ていられなくなって、ズキズキと痛む胸を押さえて、風に揺れるヤナギの青葉と視線を合わせた。
「違う」
「なぁ妄想女、お前は誰を愛してる」
「だ、誰って……」
あたしは王子を愛している、とすぐには答えられなかった。じゃあその王子ってのは誰だと、また質問が返ってくるだろうと、そんな男の事をあたしは十分に分かっていたのだ。
「答えられないか。ああ、答えられないよな。何故なら本当の愛を知らないのは俺じゃなくてお前だからだ」
男の視線があたしの中を覗き込んでくる。するとドキドキと鼓動が高鳴ってきて、悔しさよりも恐ろしさよりも悲しさよりも、恥ずかしさが湧き上がってきて、あたしはヤナギの青葉の隙間から、あたしの瞳を覗き込む男の瞳を覗きたいという自分の欲求を抑えられなくなった。
「あ、あたしは……」
「お前はかつて、本気で俺のことを王子とやらだと思い込んでたらしいな──ああ、胸糞悪ぃ、吐き気がするぜ! それで俺が違うと分かると、今度は八田のクソ野郎を王子と呼んでみたり、王子が誰かと聞いて回ったりと、お前の奇行には皆んなほとほと呆れ返ってたよ。終いにはお前の奇行に最後まで付き合ってやった根暗野郎を王子と呼びやがる。なぁおい、どうせお前は今もここで同じこと繰り返してんだろ?」
「だ、だって、誰が王子の生まれ変わりかなんて、聞いてみないと分かんないし……。で、でも、今は違うから! あたしの王子はすぐに目の前に現れたから!」
「現れただと?」
「彼が王子様だって事はすぐにわかったの! だって、あたしの事を本気で愛してるって言ってくれたから!」
「はは、馬鹿が、お前は本物の愚かもんだぜ。いいか妄想女、言っとくがソイツのお前に対する愛は、お前の言う赤い糸とやらじゃねぇ。単なる欲望、本能さ、ソイツの愛の対象はお前の体なんだ。たまたま良い容姿に生まれ変わっただけのお前の体を、ソイツは男としての本能で欲してんのさ」
男の声があたしの中をイヤラしく弄ってくる。あたしは震えた。あたしはもどかしさが抑えられなくなって、悔しさが抑えられなくなって、恥ずかしさが抑えられなくなって、悲しさが抑えられなくなって、真っ直ぐ正面からあたしを見つめてくる男の視線が本当に不愉快で、腹立たしくって、耐えられなくって、でもほんのちょっとだけ、重なり合う視線が嬉しかった。
「ち、違う……! 王子はそんな……!」
「おい、問題はそこじゃねぇ、俺はお前自身の話をしてんだ。どうしてお前はその王子とやらを無理やり物にしようとしねぇ」
「え……?」
「愛ってのは欲望だ。どうしようもねぇ願望だ。心の底からソレを欲するからこそ悶え悩み苦しむんだ。人は望みに苦悩する。でもどうしてだか、お前は愛を叫びながら、いつも受け身にまわってやがる。ソレが手元に舞い降りてくるのを待ち続けてやがる。どうしてソレを奪い取ろうとしねぇ。どうしてソレを独り占めしようとしねぇ」
「だ、だって、王子の気持ちだってあるし……。愛っていうのはお互いがお互いを想いやることで……」
「人も飢えりゃあ獣になる。腹が減って死にそうなら隣の奴ぶっ殺してでも食いもんを奪い取ろうとする。喉が渇いて死にそうなら泥水でも喜んで啜る。ソレを本当に心の奥底から欲してやがるなら、どんな犠牲を払ってでも手に入れてやろうって本気になる。ソレが欲だ。ソレが愛だ。体が欲しいってんなら体を奪ってやれ。心が欲しいってんなら心を奪ってやれ。本気で欲する奴は決して受け身に回らねぇ。お前は本気じゃねぇから相手を待てるんだ。心の奥底から欲してるわけじゃねぇから次の機会を待てるんだ。お前のソレは欲望じゃねぇ。お前のソレは愛じゃねぇ。本当の愛を知らないのは俺じゃなくてお前だ。お前……ええっと、お前の名前、何だったか……」
男はまた空を見上げ、そうして首を傾げると、もはやあたしの顔もヤナギの青さも忘れてしまったかのように、くるりと何の躊躇いもなく背中を向けてしまった。あたしがどれだけ悔しそうに顔を歪めようとも、あたしの隣でヤナギの木がどれだけ必死に青い葉を揺すろうとも、男が振り返ることはなかった。あたしはもはや悔しくもなくて、悲しくもなくて、怒っているわけでも、戸惑っているわけでもなくて、ただ、ただもう一度だけ、男に振り向いて欲しくって、何だっていいから男の感情に触れたくなって、でも足を踏み出すことは出来ず、声を張ることも出来ず、泣いてやることだって出来ない。あたしは変わらずいつもの様に、相手の愛を待つことしか出来なかった。
本当の愛を知りたいと、あたしは願った。
暗い、と思った。寒い、と感じた。
夜の校舎は昔と変わらず静かで、ゆったりと穏やかで、でも何だか昔より暗くって、そして、寒かった。
「ああああっ……!」
そんな夜の校舎の暗さが、寒さが、ちょうどいいと思った。あたしは初めて夜の校舎の利便性に感謝した。
「ぐっ……ううっ……! ううううぅ……!」
女の呻き声が耳に心地良かった。女が悲鳴を上げるたびに、あたしはあたしの中の何かが満たされていくのを感じた。
「痛い?」
「うっ……ぐっ……」
「痛いよね? 苦しいよね? でも、我慢してね? 我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して、我慢し続けてね?」
あたしは本気だった。あたしは目の間の女に本気になっていた。あたしは本当の本当にその女のことが心の奥底から大嫌いで、憎くて、疎ましくて、許せなくって、だからこそ本気になれた。砂漠で水を求める動物のように、荒野で獲物を求める獣のように、あたしはその女の体に、その女の心に、その女の全てに、本気になっていた。これこそが愛だと思った。あたしは初めて愛を知った。あたしは初めて、あたしの愛の全てをぶつけられる人に出会えた。
「だって貴方が悪いんだもの。あたしの王子を虐めた貴方が悪いんだもの。ね、麗奈ちゃん、そうでしょ?」
永遠の夜の校舎に愛が溢れていく。空っぽだったあたしの心が愛に満たされていく。
あたしの愛を知って欲しいと、あたしは願った。




