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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章

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決死の舞台


 市役所前の道路は早朝の砂浜を思わせるほどに滑らかに舗装されていた。昨日の曇天の余韻か、空気はひやりと涼やかで、雲の線がうっすらと青空に溶け込んでいる。それでも朝日は青々と鮮やかで、通行止めとなった大通りには、集まった人々の影がくっきりと映し出されていた。

「……そうです。私にとって議員とは方角を示すコンパスのようなもの。それ自体が目的ではなく、あくまでも手段なのです」

 大柄な影が一つ。強大な男が一人。

 白のハイエースの前でマイクを片手に快活な声を上げる男の肩は聳え立つ山のように広い。ワイシャツの袖を捲った彼は、朝の日差しも、夏の暑さもものともせず、沈んだ瞳も、昂った声も相手にせず、見下ろす光も、蠢く影も気に掛けない。

 小野寺文久は捕食者の頂点に立つ男だった。

「……この停滞した世に、日本に、皆さんの生活に、私たちの未来に、必要なものは何か? 私たちは何をすればいいのか? それは決して難しい事ではありません。ただ、歩めばいいのです。私たち一人一人が手を取り合って、一丸となって、決して立ち止まる事なく、ただ前を向いて歩み続ければいいのです。さぁ、見上げてください。私たちの目の前には巨大な山が聳え立っています。山頂は高く、朧げで、険しい。ですが決して届かない距離ではない! さぁ、歩き出しましょう! 高い山の、その頂を目指して、一丸となって、歩んでいきましょう!」

 拍手と喝采、相槌とため息、失笑と舌打ちが市役所前の大通りに溢れかえる。小野寺文久の優れた容姿と体躯に、その声の迫力と瞳の熱気に、彼の若さと理念に、集まった人々は様々な想いを抱いていた。いわゆる急進的な思想傾向を持ち、日本社会の変革を政治理念に活動する小野寺文久は、外国人参政権を公約に掲げていた。

「……私はゆっくりと、それでも着実に、山頂に向かって歩んでいくつもりです! その為に議員という手段を選んだのです! 皆さんも共に歩みましょう! この日本という高く険しい山をいつまでも見上げるばかりでなく、この私と、私、小野寺文久と共に、一丸となって、頂に向かって歩んでいきましょう! ええ、大丈夫ですとも! 決して立ち止まらない男、私、小野寺文久がいつでも皆さんの側に付いておりますから!」

 銃弾が一発、青い空に向かって上がる。

 白煙が一筋、青い空に向かって流れる。

 突然の出来事だった。

 市役所前の大通りはシンと静まり返ったのみで、集まった者たちは皆ぼんやりと、キョロキョロと、恐々と、何が起こったのかも理解出来ぬままに辺りを見渡すばかりだった。

 二発目の銃弾が撃ち上がる。

 その音は先ほどのものよりも鮮明で、鋭く、獰猛で、激しい。白煙が風に薄れると、その線の始まりに人々の視線が集まる。鈍く煌めく黒い銃身。黒い影を背負った男の瞳は何処までも暗く陰鬱だった。

 三発目の銃弾は上がらない。代わりに悲鳴が飛び上がった。

 集まった者たちの体は動かない。代わりに影が揺れ動いた。

 黒く光る銃口が下がっていく。夏の早朝。秋の訪れを知らせる風。青い空下に陰気な男が一人。陰鬱な瞳の先に強大な影が一つ。キザキの表情はいつものように退屈そうで、気怠そうで、その瞳の影はいつものように哀しそうで、寂しそうで、ただ、ほんの少しだけ楽しそうだった。

「小野寺文久」

 二挺目の拳銃が黒い影を街に落とす。宗教二世の小森仁も同様に、普段通り能面のように空ろな表情で、強大な男の影を黒い銃身の先に見据えた。

 立ち尽くす者たちの体は動かない。立ち尽くす者たちの影ばかりが揺れ動く。

 銃口の先。視線の先。強大な男の影が動きを見せる。

 小野寺文久は苦悶の表情で口を引き締めると、広い肩を聳えさせるように、両手をゆっくりと青い空に向けて持ち上げていった。



 取調べが済むと、荻野新平は何食わぬ顔で警察署内の廊下に唾を吐いた。その様子を真後ろで目撃した樫田真司はギョッと肩を飛び上がらせる。

「おい新平! お前さん今、唾吐いたろ!」

「分かりきった事をいちいち口にするな。だからお前は出世できないんだ」

「う、うるせぇ! 順調に出世してるっつの!」

 真司は声を顰めつつ、何処か親しみのこもった怒鳴り声を上げると、早く唾が片付けられますように、と祈るように後ろを振り返った。

 警察署を出ると、ほんのりと涼しい朝の空気が二人の頬を撫でる。またわざとらしく駐車場に唾を吐いた新平はイライラと頭を掻くと、ポケットから無造作に携帯電話を取り出した。一晩中取調べを受けていたにも関わらずその表情に疲れは見えない。新平の親友であり、富士峰警察署の警部補でもある真司の方がむしろげんなりと疲れ切った顔をしており、出勤時に同僚から荻野新平の名前を耳打ちされ、慌てて取調室に駆け付けた彼はいまだに状況を掴めていなかった。

「おーい新平、こーら新平、今度はいったいなーにをやらかしやがった? あ、もしかして、あの……ほら、お前さんが女の子の顔を殴ったとかいう、あの最悪の噂の件か……?」

「噂ではない」

 荻野新平はそう言葉を返したのみで、すぐに携帯に耳を傾けてしまう。真司はまたギョッと肩を跳ね上がらせると、アワアワと指先を口で挟みながら、焦ったようにキョロキョロと広い駐車場内を見渡し始めた。

「お、おま! こら新平! 噂じゃなかったら、お前それ、マジヤベェやつじゃねーか!」

「英一か?」

「──し、新平さん!」

「おい新平! こら新平! マジでお前、それ、ヤベェやつだよ! てかお前って確か行方不明じゃなかったか?」

「うるさいぞ」

 新平の拳骨が、ゴツンと、真司の脳天に下ろされる。真司は頭を押さえると「もうメチャクチャだよ」と鼻水を啜った。

「──新平さん、その、大丈夫なんですか……?」

 携帯越しに響いてくる八田英一の声は何処となく不安げだった。警察署を振り返ることなく歩道に出た新平は背中の筋肉を伸ばしつつ、「何がだ」と低い声を出した。

「──いえ、ちょっと、新平さんが昨晩捕まったと小耳に挟んで……。何でも、警察の方を殴ってしまわれたとか……」

「殴りそうになっただけだ。捕まってなどいないから安心しろ」

「殴ったじゃん!」

 真司が不満げな声を漏らす。そんな彼を横目に睨んだ新平は、早く仕事に戻れと言いたげに、真後ろの警察署に親指を向けた。

「──なら良かったです。それで昨晩は何が?」

「大宮さんの息子を保護しようと彼女の家に向かったんだ。そうしたら既に警察が張り付いていた」

「なんだってぇ?」

「──なんですって?」

「俺はすぐに彼女の家に飛び込んだ。だが、家の中はもぬけの殻で、彼女と彼女の息子は初めから家にいなかったらしい」

「おいおいおい、お前さんそれ、まーたとんでもなくヤバそうな話だな、おい!」

「──ええっと、それはつまり、二人が警察の手から事前に逃れていたという事でしょうか?」

「いいや、単に偶然居合わせなかっただけだろう。ただ、連絡が付かなかったのも確かだ。昨夜、彼女の家の玄関前で野郎どもと俺が口論してた時、ちょうどあの家の主人である健二という会社員が帰宅してきた。彼はまさに寝耳に水といった慌てぶりで、息子の居場所も、息子の犯した罪も全く知らないと、終いには激しく怒り出した。あれは嘘を付いている男の態度ではなかった」

「そういう問題じゃねーだろ! そりゃお前さん、色々といかんぜ! こら新平、分かってんのか!」

「黙れ」

 再び拳が振り下ろされる。鈍い音と共に悲痛に満ちた男の吐息が溢れ落ちる。

「──あの、もう一度聞きますけど、警察の方々には手を出さなかったんですよね?」

「暴力など振るってないと言っているだろう。一応不法侵入ということで、一晩取調べを受けさせられただけだ」

 ぶつぶつと、新平の真横を歩く樫田真司が不満の声を上げる。そんな彼を脅すようにまた拳を振り上げた新平は、ふと山に向かって飛んでいく数羽のカラスを視界に捉えると、山とは反対の方角に視線を動かしていった。

「おい英一、お前は大丈夫なのか」

「──ええ、僕の方は何ともありません。今は詩織さん達の付き添いという形で病院にいます」

「そうか。お前は学会の件をどう思っている」

「──正直のところ今の僕に学会の事まで考える余裕はありません」

「このままでは崩壊するぞ」

「──その時はその時です」

 英一の声は落ち着いていた。そこに以前のような若者の青さは感じられない。新平は僅かに頬を緩めるも、すぐに唇を結ぶと、無造作に伸びた顎鬚に指を当てた。

「俺が言うのも何だが、ゆったりと腰を据えていられる状況ではないんだ」

「──どう言う意味です?」

「ヤナギの木を保護せねばならん。誰ぞに切り倒されるような事態が起こってはならない」

「──ヤナギの木ですか……。むしろ僕は今すぐにでも切り倒すべきだと思いますが……」

「お前のような考えを持つ者が他にもいるだろう。だからこそ落ち着いてはいられないんだ」

「──理由は?」

「突拍子もない話だ。詳しくは戸田和夫という爺さんに聞いてくれ。それよりも一つ気掛かりなことがある」

 バイクが一台、朝の街を走り抜けていく。歩道に並んだ街路樹が青い葉を揺らすと、その木漏れ日に薄れた影を踏み締めるように、荻野新平は重心を僅かに前に倒した。

「小野寺文久はいったい何をやっている」

「──小野寺先生ですか」

 新平の声は闇に潜む獣の唸りのように重い。ただ、英一の声の調子は軽かった。学会の創設者であり、国会議員でもある小野寺文久の名前は知り過ぎるほどに知っていた。だが、その人柄や性格について英一はほとんど何も知らず、顔を合わせたのは少年時代の数回のみで、学会の幹部として活動するようになってからはそれこそテレビや新聞、ポスター等で顔を見る以外に小野寺文久との接点がなかったのだ。それは小野寺文久が学会を訪れる回数が極端に減ったからであり、その事に対して英一が疑問を抱いたことはなかった。

「──小野寺先生なら昨日、本殿を訪れられたそうですよ」

「なんだと」

「──なんでも、平和党の藤田先生と応接間で話されたとか」

「ならばなぜこんな事態となっている?」

 新平の声がさらに低くなる。その姿勢は目の前の獲物に飛び掛からんばかりの飢えた肉食獣のようで、彼の真横で仕事をサボる口実を探していた樫田真司はアワアワとまた指先を口で挟んだ。

「──なぜ、と言われましても……。おそらく今回の騒動があまりにも急激で、多元的で、藤田先生と話されたくらいで収まりが付くものではなかったのでしょう」

「それ以上の動きを見せない理由はなんだ。奴さえ動いていれば、こんな事態にはならなかった筈だ」

「──小野寺先生は国を統べる立場にあるお方です。我々などよりもずっと多忙な毎日を過ごしておられます。今回の件は我々の責任でもありますし、先生の手をこれ以上煩わせるわけにはいきませんよ」

「学会を作ったのは奴だぞ。そこには何らかの思惑があった筈だ」

「──思惑って、そんな言い方……」

「あの狡猾な蛇がむざむざと学会を崩壊させるとは思えん。だが、実際に学会は崩壊寸前だ。……まさかあの野郎、学会を見限ったか?」

「──飛躍し過ぎですって。多忙な先生が仕事の合間に本殿を訪れて下さった。その事だけでも感謝すべきでしょうに」

 英一の声が憤慨したように低くなる。同時に、微かな発砲音が遠くの空に響き渡る。新平は腕を下ろすと、山裾から青い空に向かって飛んでいく鳥の影に眉を顰めた。

 

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