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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
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詰めろ


「では日を改めて」

 戸田和夫はパナマハットを胸の前に掲げ、軽く頭を下げた。街外れの日本家屋はすでに明かりが灯っており、庭先の赤松が暗い夜空に向かって悠然と佇んでいる。

「はい。お婆ちゃんも喜びますし、戸田さん、またいつでも気軽にいらしてくださいね」

 田川真由美は丁寧な口調でペコリと頭を下げ返した。そうして隣で突っ立ったままの息子の頭も無理やり下げさせる。

「ほーら、明彦も! 戸田さんに、お世話になりましたは?」

「だから何もお世話なんてなってねーってば!」

「なってるでしょうが! ちゃんとお礼を言いなさい!」

「うぜぇよ! 離せよクソババア!」

「だーれがクソババアじゃあ!」

 真由美の顔が鬼に変わる。それでも田川明彦は憮然とした表情で、必死の抵抗を続けた。久しぶりの再会であるにも関わらず、母親の態度があまりにもそっけなかったのだ。命からがら、約ひと月ぶりにやっと我が家に帰ってきた息子に対して、真由美の第一声が「夏休みの勉強はちゃんとしてるんでしょうね?」だったことに、明彦は言いようのない憤りを感じていたのだった。

「まぁまぁ真由美ちゃん、別に良いて、我は本当に何もしておらんしの」

「ですけど、戸田さん……もう、こらっ明彦!」

「はっはっは、良い良い。そんな事よりも真由美ちゃん、お主こそ戸田さんとは随分と他人行儀じゃわい。昔のようにおじちゃんと呼んでくれれば良いて。のぉ、イノセントレディよ」

「えー? あはは、やだぁ懐かしい! 今さらイノセントレディだなんて、もう! ……あれ、そういえばイノセントガールじゃなかったかしら?」

「もう立派なレディじゃて。まぁ今でもところどころガールが見え隠れしておるようじゃがのぉ」

 うふふ、わはは、と乱張りの石畳が声に明るくなる。そんな老人と母親の会話に、明彦はムスリと訝しげである。

「では、我はそろそろお暇いたす。真由美ちゃん、しょう子さんによろしく伝えておいてくれ」

「あ、師範! 俺も帰ります!」

 軒先から手を伸ばすようにして、目立ちの整った長身の青年が現れる。田中太郎は鉄平石の玄関前をだらりと撫でる靴紐に構わず、ひどく慌てた様子で家屋から飛び出してきた。そんな彼の真後ろには明彦の妹である田川優里の利発そうな唇が、玄関の奥からは姉である田川聡美が大人しげな眼鏡の奥で瞳を物欲しげにキラキラと瞬かせており、姉妹は彼の虜となっているようだった。

「お主は泊まらせて貰えば良かろう」

「そうよ田中くん、うちに泊まって行きなさいよ」

 舞い上がる羽のように軽い二人の声に、姉妹の表情がぱあっと明るくなる。そんな彼らの視線を掻い潜るようにして庭先に転がり出た田中太郎は、サッと玄関前の明彦と視線を交わすと、お礼もそこそこに田川家を飛び出していった。

「いやはや、元気じゃのぉ」

 パナマハットを被り直した戸田和夫はやれやれと息を吐いた。

 田畑に囲まれた街外れの道には街灯がほとんどない。そんな暗い夜道を少し歩くと、錆びた軽自動車が見えてくる。田中太郎と戸田和夫はまるで歳の離れた父息子のように並び歩いていた。そうして親子のように似た表情でうっと顰めっ面をする。うっすらと光の灯った車内では、運転席の荻野新平に絡みつくようにして、中間ツグミが小麦色の太ももを露わにしていた。戸田和夫は思わず「うほん」と咳払いすると、サッと田中太郎を後ろに下げ、助手席の窓をコンコンと叩いた。

「そろそろ帰るぞ、と連絡しておいたじゃろうが」

 後部座席のドアを開けた戸田和夫はパナマハットのトップを押さえつつ、そう苦言した。荻野新平は何食わぬ顔で車のエンジンをかける。田中太郎はといえば、衣服の乱れを中々直そうとしない中間ツグミを直視出来ず、開け放たれたドアの前でオロオロと、夜の田んぼに揺れる稲穂の影に目で追い続けた。

「おい坊主、早う入らんか。虫が集まってくるぞ」

「は、はい……!」

「お主も顔に似合わず初心な男じゃの」

「ええ? いや、俺は別に初心なんかじゃ……」

 後部座席に腰掛けた田中太郎はそう呟くと、自問するようにスクエアメガネのレンズを拭き始めた。久しぶりに思い出そうとするかつての世界はそれほど鮮明でなく、それはまるで他人事のようで、毎夜のように遊び歩いていた自分が自分とは思えくなっている。その頃に戻りたいとも思えず、そもそも過去を振り返るようなたちではなかった彼はメガネを掛け直すと、無意識にスマホの英単語アプリを開いた。

「用事は済んだのか」

 フロントドアの窓を閉めた荻野新平は後部座席に低い声を伸ばした。田んぼ沿いの夜道を錆びた軽自動車が走り抜けていく。戸田和夫はおもむろにパナマハットを下ろすと、深々と息を吐いた。

「いいや、二言三言話せたのみで、しょう子さんはすぐに目を閉じてしまった。いやはや、もっと早うに顔を出してやるべきじゃったと、この街を離れた数十年を悔やんでも悔やみ切れん」

「それほど悪いのか」

「もうほとんど寝たきりの状態らしい。ただ、朝だけは若い頃のように元気らしく、たまに庭を散歩したりもするんじゃと。明日の朝、また尋ねてみようかと考えとる」

「あまり時間は残されてないぞ」

「そう焦るでない。しょう子さんだけじゃなく、我もいい歳じゃて。お主もそれを人ごとなどとは捉えず……」

「学会が崩壊する」

「何じゃて?」

「知り合いの隊員に聞いた。とっくに警察は動き出している、と。明日の朝にはニュースになっているだろうという話だ」

 淡々とした口調だった。荻野新平はまっすぐ前を向いたまま瞳を動かさない。

 戸田和夫は口元に手を寄せると、過ぎ去っていく木々の影に大きく目を見開いていった。

「いかん」

「今から大宮さんの息子の保護に向かう」

「少年もじゃが、それよりもヤナギじゃ。学会の保護がなくなれば、あんな老齢のヤナギなぞ、何処ぞの誰に切り倒されてもおかしくない。それだけはいかん」

「……そちらの事がそれほど早く進むとは思えんが」

 夜風を切る車の速度が上がる。シートの隙間に田中太郎のスマホが転がり落ちる。慌てて背中を折った彼は、暗闇に浮かび上がった睦月花子からのラインのメッセージに眉を顰めた。



 睦月花子の家は普段通りの和やかな空気に包まれていた。居間から響いてくる笑い声は湿った夜空を忘れさせるほどに清々しく、暗い廊下の隅からガラス戸の明かりを仰ぎ見た吉田障子は、まるで夢の中にいるような心地良さに現実を忘れ、惚けたように立ち止まってしまった。

「何をぼーっと突っ立ってんのよ……! 取り敢えず私の部屋に行きなさいって……!」

 睦月花子がヒソヒソと声を忍ばせる。ただそれは忍ぶには目立ち過ぎる声で、すぐに居間から、花子の母親である睦月美江の快活な声が響いてきた。

「ちょっと花子! 帰ってくるなら帰ってくるって先に連絡しなさいよ! すぐに夕飯用意するから待っててね!」

「後でにするわ!」

「あれ、もしかして誰かと一緒なの?」

「友達よ!」

「彼氏じゃね?」

 姉である静子の茶化すような声が廊下に届く。「あり得ねぇって!」と弟の一郎の笑い声が爆音のように轟くも、「アンタ、後で処刑だからね」という花子の冷たい声に、すぐに鎮火されてしまった。

 二階の一室に明かりが灯った。部屋のドアは開け放たれている。壁に掛かった和服姿の男性のポスターも、勉強机に置かれた将棋盤も、吉田障子の記憶のままだった。ただ、散らかっていたベットは綺麗に整頓されており、掃除が隅々にまで行き届いている。そんな花子の部屋が三原麗奈の体で訪れた時よりもずっと広々と、より簡素に思えてしまい、まだひと月ほどしか時間が経っていないにも関わらず、もう戻らない過去に想いを寄せるような感覚に吉田障子は強烈な寂しさを覚えた。

「飲む?」

 そう首を傾げた花子の右手には銀色に濡れた缶ビールが二つ握られていた。いつの間にか花子の身体からは白い湯気が上がっており、短い髪を湿らせた彼女はすでにパジャマ姿だった。驚き、壁に掛かった時計を見上げた吉田障子は、まだそれほど経っていない時間にホッとため息をついた。意識出来ない時間の進退を彼は何よりも恐れていた。

「風呂は?」

 吉田障子の首が横に動く。ビールを顔の前に傾けた花子は「ぷはぁ」と強く息を吐き出した。

「指す?」

 吉田障子の首がまたフルフルと横に振られる。そんな彼の返事などお構いなしに、将棋盤とビールを艶のあるフローリングに叩き置くと、ゆっくりと駒を並べ始める。吉田障子は渋々といった様子で、将棋盤の前の座布団に膝を折り曲げた。花子の自陣は相も変わらず王様一枚のみである。リベンジマッチだと、吉田障子の心に小さな火が灯った──。

「遅かったじゃない」

 ちょうど吉田障子の飛車が花子の駒台に転がされるのと同時の事だった。部屋の外に背の高い人影が現れると、吉田障子はあっと目を見開いた。六連敗中だということも忘れ、慌てて飲みかけのお茶に手を伸ばした吉田障子は、田中太郎の視線から隠れるようにして背中を丸めてしまう。同性の上級生である彼の存在が恐ろしく思え、そして、何となくだが気まずかった。

「おい部長、どうして吉田くんがここに居んだよ?」

 田中太郎の表情は険しい。そんな彼に構わず、花子は六本目のビールを開けた。白い泡髭が浮かび上がる。田中太郎はイライラと頭を掻くと、盤面に顔を埋めるようにして駒を動かす吉田障子の背中に、低い声を落とした。

「おい吉田くん、状況分かってんのか?」

「分かってるっつの」

 すぐさま花子が助け舟を出す。太郎が何か言い返そうとすると、花子はそれを遮るように、緩くなった缶ビールを彼の胸に放った。

「アンタ、誰にも言ってないでしょうね?」

「言ってねぇよ」

 ぷしゅうと銀色の缶から白い泡が溢れ出す。「チッ」と舌を打ち鳴らし、ソロリと泡に唇を寄せた太郎はすぐに顔を顰めると、花子の手元にそっと缶を返した。

「師範には言うべきだったってガチで後悔してるぜ。マジで大変な事になってっからよ」

「だから知ってるっつの」

「だったら……!」

「学校に警察が来たのよ! だからこの子をうちで保護してんの!」

 グイッと七本目のビールを喉に流し込んだ花子はそれでも平然とした表情で、吉田障子の玉将の真横にカチリと銀を下ろした。

「詰めろよ」

 白い飛沫が宙を舞う。青い血管が額に浮かぶ。

「たく、あのクソモブウサギ、やってくれんじゃない……」

「おい、いったい何があったんだ?」

「アンタは何処まで知ってんのよ?」

「吉田くんが……、そのほら、刑務所の一歩手前にいるってよ……」

 吉田障子の肩がビクリと震える。田中太郎は気まずそうに口を歪めると、開け放たれた窓の向こうの漆黒の空に目を細めた。

「へぇ、そう。ならモブウサギが何をやらかしたかも、とっくに知ってるってわけ」

「あ、ああ……」

「チッ、今思い出しても自分の愚かさに腹が立つわ!」

「何があった……?」

「あの後、新九郎たちと廃工場に居たクソモブウサギを軽くしばいた後、あのクソの最後の願いって事でわざわざ学校まで行ってやったのよ。なんか足田太志に伝えたい事があるとか何とかね……。そしたらアイツ……! あのクソオブザイヤーのクソカスサイコモブウサギ……! あのクソモブ、いつの間にか消えてやがったのよ……!」

 青黒い血管が腕を走ると共に、ほぼ空となっていた缶から泡が滲み出てくる。炭酸が将棋盤を濡らすと、吉田障子はただただ無我夢中といった表情で、茶色い木目にハンカチを当てた。

「何処探しても見つかんないし、吉田障子の実刑判決が下るまでは出て来ないだろうって徳山クソ吾郎は諦めモードだし、しまいには警察が来るし……あんの徳山メガ吾郎のクソメガネ、ちゃんと叩き割っとくんだったわ、クソッタレ!」

「ちょ、声デケェよ……!」

「聞けば三年の倉山ってデブがゲロったらしいけど、あのデブも殺す勢いでこの子にナイフ突っ立ててたのよ? それって同罪でしょーが!」

「おい、落ち着けって……! まだ吉田くんが捕まったわけじゃねぇだろ……!」

「えーそうね! そーなる前にクソモブウサギとっ捕まえて、そんでたっぷりとアイツの肉汁絞り上げてやんないとね! あのクソを自白させる以外に、この子を救う手立てなんてないのよ!」

「いいや、実はそれがあるんだ……」

 田中太郎はそう小さく呟くと、スクエアメガネを床に下ろした。鬼の形相となった花子は「あん?」と声を尖らせる。

「今なんて言った?」

「救う手があるって言ったんだよ」

「モブウサギを自白させる以外の手で?」

「ああ。いや、突拍子もない話なんだが……」

「はん。なーらとっとと言ってみなさいよ!」

 八本目の缶がぷしゅりと白い泡を飛ばす。逃げ場のない玉将がポロリと将棋盤の下に転がり落ちる。

 田中太郎はふぅと息を吐き出すと、吉田障子の横顔に視線を落とし、そうしてまた暗い夜空に目を細めた。


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