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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第一章
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薄れる意識の中で


 教室の壁に掛かった時計の針が止まると、吉田障子はぎゅっと瞼を閉じた。

 動かない時間。授業中の静寂。止まった時計に恐怖は無かった。ただ、何となく、障子はそれを見たくないと思った。

 そっと目を開けた障子の瞳に千夏の後ろ姿が映る。風に靡く彼女の黒い髪。時計を見上げた障子は動き出した時間に安堵すると、まだ学校に来ていない姫宮玲華の机を横目に見た。

 また時計の針が止まる。障子はぎゅっと目を瞑る。静かな校舎。目を開けた障子の瞳に映る千夏の艶やかな髪。

 時間が止まる。目を閉じる。目を開ける。静かな教室に揺れる髪。終わらない授業。進まない時間。

 目を瞑った障子は夢を見た。

 誰もいない広場で揺れるブランコ。赤いボール。

 足元の転がる赤いボールを蹴った障子の体が吹き飛ぶ。散らばった手足を眺めた障子は目を閉じた。目を開くと元通りになる体。細い手足。長い黒髪。黒いセーラー服。

 誰もいない広場で誰かの気配を感じた障子は振り返る。すると、いつか見た短い黒髪の女生徒の笑顔が見えた。黒いセーラー服から伸びる黒い手足。横に開かれた口から覗く白い歯の異様な光。

「──」

 音のない声。頷く障子の首元に揺れる黒髪。声のない女生徒が黒い腕を前に伸ばす。微笑んだ障子はその手に触れようと一歩前に足を踏み出した……。



「吉田!」

 うわっと顔を上げた障子は現代文の教師である鈴木平次の曲がった太い眉を見た。

「俺の話は子守唄か?」

「い、いえ、すいません……」

「ちゃんと家で寝れてるのか?」

「は、はい……」

「なら寝るな。それでも寝たいなら、俺の授業が終わってから寝ろ」

 クラスに響く笑い声。こちらを振り返って笑う千夏の白い歯に障子は頬が真っ赤になる。授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、楽しそうに障子の肩を叩いた千夏は教室の外に出て行った。

 その後ろ姿を見送った障子はのそりと立ち上がると次の授業の準備を始める。

「おい吉田、もう昼だぜ? 何で数学の教科書出してんだよ」

 田川明彦の呆れ声に障子は「えっ」と首を傾げて振り返った。

「もしかして、まだ寝ぼけてんのか?」

「えっと……うん、そうかも」

 明彦の笑い声が明るい。障子は照れたように頭を掻いた。

「吉田、売店行こうぜ?」

「えっ? あ……うん、その僕、弁当持ってきてて……」

「そっか、弁当か。いいなぁ、俺の分も作ってくれって、お前の母ちゃんに頼めないか?」

「ええっと……ええ? う、うん、頼んでみようかな?」

「ぶはは、冗談だよ、母ちゃんの仕事増やしてやるなってば」

「う、うん……そ、そうだよね……?」

「……なぁ吉田、もし何か知りたい事があったらよ、何でも俺に聞いてみてくれよ」

「え?」

「悩み事があったら、何でも相談に乗るぜって言ってんのさ」

「あ、ありがと……」

「おっと、当然勉強の相談は無しだぜ?」

「あ、うん」

「じゃあ俺、そろそろ売店という名の戦場に行ってくるわ」

「あ、行ってらっしゃい」

 スキップしながら教室のドアを抜けていった明彦に、障子はぎこちなく手を振った。昔から友達のいない障子は親しげなクラスメイトの態度に戸惑った。だが、自然と口元は緩む。

 そう言えば、さっきまで何してたんだっけ……?

 壁に掛かった時計を見上げた障子はいつの間にか過ぎ去った時間に首を捻った。玲華のいない机を横目に見つめた障子は教室を後にする。早退の手続きをしようと障子は職員室に向かった。

 廊下の窓の向こうに広がる曇り空。明るい生徒たちの騒めき。滑らかなクリーム色の廊下を踏みしめると、キュッという摩擦音が靴底から障子の肌を振動させる。

 職員室って何処にあるんだっけ……?

 階段を駆け上がる女生徒の髪が茶色い。その明るい髪を不思議そうに眺めた障子は、職員室の場所を思い出そうと立ち止まると、壁に手を当てて唸り声を上げた。

 あれ、何で職員室に行くんだっけ……?

 額に滲む汗。通り過ぎる白い制服に感じる違和感。遠くに聞こえる校舎の騒めき。階段の手前でしゃがみ込んだ障子、嗚咽しそうになるのを堪えた。

 ……と、とにかく、とにかく、とにかく、立ち上がらないと、あの人に会わないと。

 知らない廊下。見覚えのない窓。奇妙な格好をした人たち。

 障子を取り囲む違和感が彼に強い恐怖と激しい寂しさを与えた。膝を抱えたまま廊下の端で動けなくなった障子は耳を塞いで目を瞑った。

「大丈夫、君?」

 背中に感じる温もり。体を震わせながら顔を上げた障子はふちなしのメガネを掛けたショートヘアの女生徒と目が合った。黒いピンでしっかりと止められた前髪。細い顎。小さく閉じられた唇。真面目そうな印象の女生徒だ。

「あ……」

「気分が悪いの? 無理に喋らなくてもいいからね?」

 障子の隣にしゃがみ込んだ女生徒は、甲斐甲斐しく障子の背中を摩りながら、明るい声をかけ続けた。

「あ、あ、の」

「うん? どうしたの?」

「あ、ありがとう、ございます」

「いいの、いいの、気にしないで? 気分は大丈夫? 保健室まで、歩ける?」

 コクリと頷いた障子に女生徒は眩い笑顔を見せる。女生徒の助けを借りて立ち上がった障子はその手に支えられながら保健室に向かった。

「もうすぐだからね、頑張って」

「は、はい、ありがとう、ございます」

「うふふ、どういたしまして。貴方、一年生?」

「は、はい、吉田……えっと、吉田、です」

「そう、吉田くんって言うんだ。私は二年の宮田風花。一応、生徒会の副会長だから、何かあったら私を頼っていいよ?」

「は、はい、ありがとう、ございます」

 一歩ごとにフラつく体。意識が朦朧としているかのように定まらない障子の視点。風花は不安そうに障子の背中を撫で続けるとその体を必死に支えた。

 とにかく、とにかく、とにかく、あの女の人に会わないと……。

 薄れていく意識。抜けていく力。何とか保健室に辿り着いた障子は、肩で息をしながら微笑む風花の腕の中に倒れ込むようにして意識を失った。


 

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