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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
159/254

永遠の愛


 どんよりと曇った夏空は夕刻の訪れを告げようとしない。窓の向こうのシダレヤナギが青々と暗い枝を揺らすと、姫宮詩乃はやっと、木造の校舎に迫った夜の気配に老眼鏡を下ろした。

「そうか」

 姫宮詩乃はそう声を落とした。その吐息は深々と重い。卒業アルバムの山は今や綺麗に整頓されており、その影で、姫宮玲華が静かな寝息を立てている。そんな玲華の寝顔にデジタルカメラを向ける水口誠也の表情は真剣そのもので、彼の脳天に鋭いチョップを振り下ろした白髪の老婆は、読み終えた一冊のアルバムをそっと山に重ねた。

「明日じゃ」

「あ、あすじゃ……?」

 水口誠也は両手で頭を押さえた。暗がりの旧校舎はひっそりと迫る夜の影に沈みかけており、縦に積まれたアルバムの山は薄暗闇に溶け込んでいるようで、白髪の老婆の姿もゆらりと揺らいでいる。

「在校生も見ておかねば」

「在校生……?」

「そうじゃ」

「ええっと、そもそも何を調べてるんでしたっけ……?」

 誠也は困惑の面持ちで首を傾げた。「卒業アルバムを見せよ」と姫宮詩乃はそう命じたのみで、世界史の教師である福山茂雄と共にアルバムを旧校舎まで運んだ誠也は結局何をしているのか分からず終いに、白髪の老婆の作業を手伝わされていたのだった。

「少女じゃ。ヤナギの霊と呼ばれる者たちを探しておった」

 ほっそりと白い女生徒の指がピクリと動く。「王子……」と赤い唇を動かした玲華はそれでも瞳を開くことなく、涼しげな木の香りを頬に、むにゃむにゃと夢の中である。

「ああ……。あ、あの、すごく言い難いんですけど、千代子ちゃんの生まれ変わりが誰かはもうとっくに判明してまして……」

「生まれ変わりなどではない。彼女たちは魔女ではない。小川に消えた笹舟を砂浜で見つけるが如き偶然で生まれ変わりが起こることは確かにあり得る。じゃが、それが続くことはあり得ん」

「生まれ変わりじゃない……? まさか、そんな話……。だって、彼女たちは実際に前世の記憶を持ってるようだし、人格も同じで、ヤナギの霊がこの学校に現れる周期的にも、彼女たちが山本千代子の生まれ変わりだと考えるのが妥当でしょ……?」

「何を持って人格が同じだとする。ワシは二人目のヤナギの霊と言われておった英子先輩を知っておるし、四人目のヤナギの霊であろう少女にも会うておる。その性格の差異から二人が同一人物などとは微塵も思えなんだ」

「いや、そりゃ時間が経てば性格も変わりますって……。彼女たちは一様に王子という存在を信じ込んでるし、それに記憶も共有してるようだし、それこそ別人だったらそんなこと絶対にあり得ないでしょ……?」

「知識と経験により思考は変われども、根本の性格は変わるまいて。むしろその王子という存在を信じ続けておるという事実の方が妙に思える」

「それは……ほら、頭がおかしくなってるとか……」

「いいや、英子先輩も四人目の少女も頭の方はしっかりとしておった」

「うーん、僕は普通に生まれ変わりだと思うけどなぁ……」

 誠也は釈然としない様子で、手元のデジタルカメラを弄り始めた。いつの間にか姫宮玲華が木製の実験台に頬杖をついており、彼女は何かを考え込むような表情で、暗い影に埋もれていくヤナギの枝をじっと眺めていた。

「生まれ変わりではないと言うておろう」

「じゃあヤナギの霊っていったい何なんですか……!」

「ヤナギの霊とはあくまでも呼称。彼女たちはヤナギの木と精神が繋がってしもうた者たちじゃ」

「精神が繋がるって……? ええっと、それってつまり……あのヤナギの木には人の心があるって話でしょうか……?」

「そうじゃ」

 誠也は思わず息を止め、そうして咄嗟に、薄暗い校舎裏に揺れるヤナギの木にカメラを向けた。そんな彼にかまわず姫宮詩乃は話を続ける。その鋭い視線は孫娘の玲華に、白髪の老婆は険しい表情で、山積みとなった卒業アルバムに手を伸ばした。

「あのヤナギの木には精神がある。その精神と少女たちの精神が繋がってしもうとる。そこに共通点はないかと、ワシはアルバムを眺めておった」

「はぁ……。それで何か共通点はありましたか……?」

「あった」

 白髪の老婆の瞳が薄くなっていく。薄墨色から空色へ。アルバムから手を下ろした姫宮詩乃は老齢の巨木を見上げるように空色の光を外に向けた。

「死んでおった」

「え……?」

「彼女たちは一度死んでおった。ヤナギの霊とは死んで蘇った者たちじゃった」

 誠也の頬がスッと青ざめる。背中に冷たいものを感じた彼はカメラを下ろすと、暗い旧校舎の廊下を振り返り、ごくりと唾を飲み込んだ。

「し、死んで……。そ、それってつまり、彼女たちは本当に幽霊だったって……」

「お主が何を持って幽霊を定義づけておるのかは知らん。じゃが、もしそれが物語に出てくるようなおどろおどろしい白装束の女だと言うのであれば、それはまったくの見当違いじゃと返しておこう」

「でも、死んでるって……」

「ヤナギの霊はあくまでも人じゃよ。一度死んで生き返っただけの、ただの少女じゃ」

 姫宮詩乃はそう言って、また孫娘の玲華に視線を送った。この話を続けるべきか否か迷っているような、そんな表情だった。

「詳細は省くが、ヤナギの精神は死後の青い海と繋がっておる」

「青い海……?」

「精神の大部分は記憶じゃて、ヤナギの精神も例外にあらず、恐らくは山本千代子という名の戦前の少女の記憶を持っておるんじゃろう」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……! 色々と意味分かんないし……。そ、そもそも、ただの木に人の記憶があるっておかしいでしょ……!」

「私のせいか」

 そう一言、ボソリと、姫宮玲華の声が暗闇に沈む。それはおよそ思春期の少女のものとは思えない渇き擦れた声だった。重苦しい沈黙が木造の校舎を包むと、白髪の巫女はふぅと肩を落とし、背中を丸めた魔女の頭にポンと手を置いた。

「山本千代子という女生徒がいったいどんな人であったかは分からぬ。じゃが思うに、ただ夢見がちなだけの、普通の少女だったのではあるまいか。自分を迎えてくれる白馬の王子を望み、永遠の愛を、永劫の生まれ変わりを本気で信じるような、ごく普通の少女──ここからはワシの想像じゃが、ヤナギの木は山本千代子の記憶を持つが故に、生まれ変わるための肉体を、赤子の体を、無意識に、その本能で求めてしもうた。じゃが、当然ただの木であるヤナギが実世界の赤子に手を伸ばすことなど出来ん。じゃからこそアレは青い海に落ちたばかりの赤子の魂に器を求めた。海に落ちたばかりの赤子にうっすらと伸びる、まだ精神とは言えぬような未熟な糸を手繰り、それを自らの精神で補強し、赤子の肉体と魂を繋ぎ合わせた。そうして、本来であれば目覚めるはずのない彼女たちがこの世に蘇った。老齢なヤナギの大樹と精神の繋がった存在として、所謂、ヤナギの霊と呼ばれる特異な少女として──」

 窓の向こうのシダレヤナギが青い枝を大きく広げた。それはまるで天に腕を伸ばす女性のようで、晴天の空に夢を見る少女のようで、ただ、夕刻の曇り空に青い光はない。水口誠也は足を震わせると、少女の記憶を持つというヤナギの木に魅入られまいと、アルバムの山に顔を隠した。

「ヤナギの霊は周期的に現れるという話じゃった。が、その割に十六年から十八年と開きがあった。それはおそらく、次の器を探し出すまでの時間差じゃろう。器となりえる肉体、死んだばかりの赤子を青い海に見たヤナギの木は本能で精神を繋ぎ合わせ、その赤子を次のヤナギの霊とした。成熟したヤナギの霊を殺しての」

「はい……?」

「そうせねば生まれ変わりとは言えんじゃろ」

 旧校舎は異様な静寂の中にあった。人の気配のみか、僅かな足音すらも聞こえてこない。アルバムの影で首をすくめていた誠也は、その震え声と、カメラのレンズを白髪の老婆に向けるというただそれだけの行為に必死になっていた。

「い、いや、殺したって……? い、意味が……」

「英子先輩は十八の歳で行方不明となった。アルバムで確認したが、村田みどりという少女もまた十六の歳で行方不明となっておる。おそらくは自殺──それが彼女たちの意思によるものだったとするならば、彼女たちはヤナギの木に殺されたと言えるじゃろうて」

「な、なんでですか……? 山本千代子の夢は、その、王子様との永遠の愛なんでしょ……? どれだけ、どれだけ生まれ変わっても……そ、そんな若いうちに死んでしまったら、夢なんて永遠に叶わないじゃないですか……!」

「たとえ人の記憶を持っていようとも、ヤナギの木はあくまでも木であって人ではない。アレはただ山本千代子の記憶に沿って生まれ変わりを繰り返しておるだけなんじゃ。死んで生まれ変わる。そこに願いなどなく、ただ本能で生まれ変わりの真似事をしておる。そして、おそらくは知っておるんじゃろう。山本千代子の記憶から、生まれ変わりがこの世に複数現れるということはあり得んということを──じゃからこそアルバムの中に、英子先輩、村田みどり、大宮真智子以外のヤナギの霊は見られなんだ」

「大宮真智子……?」

「今は吉田という苗字らしい」

 白髪の巫女の瞳が暗く濁った理科室の窓に浮かび上がる。ひどく険しい表情で、堀の深い顔は歪んで見える。ただ美しい空色の光が二つ、薄暗闇にはっきりとした導きを示している。

 カメラ越しにその光を見た水口誠也は僅かに背中を伸ばした。老婆の話に矛盾があると、誠也は唇を震わせつつも、スッと顔を上げてみせた。

「吉田……真智子……。そうだ、そうだよ、吉田真智子だ……! 吉田真智子さんというヤナギの霊がまだ生きてるらしいじゃないですか……! それって今の話と矛盾してるでしょ……?」

「ああ、そうじゃの」

「そうじゃのって……。それってもしかして、今までの話はあくまでも仮定だったって意味ですか……?」

「吉田真智子という少女は確かに自ら命を経とうとしておった。じゃが、何の因果か、ワシがそれを止めてしもうた。吉田真智子というヤナギの霊は、生まれ変わりの枠を外れてなお、この世を彷徨い続けておる」

「それってどういう……?」

「もう遅い。明日じゃ」

 白髪の老婆はそう言って、瞳の色を艶のある漆黒に戻した。玲華は未だに背中を丸めたままだ。そんな孫娘の頭にまたポンと手を置いた姫宮詩乃は、薄暗い旧校舎の廊下に目を細めると、「祓え給え」と小さな呟きを落とした。

 薄く消えかかったヤナギの枝が、ゆらりと、墨色の校舎に青い影を揺らす。

 黒髪の魔女を支えるように白髪の巫女の影が動き始めると、そっと窓の外に視線を送った水口誠也は小刻みに足を震わせつつ、置いていかれまいと転がるようにして、二人の背中を追いかけていった。



 薄く、暗い、光。

 漁村の廃屋に灯りはない。

 夕刻の影が過ぎると、夜闇に呑まれた山の裾で、見えない影に縋る者たちがひっそりと膝を丸めた。

「明日だ」

 抑揚のない声が闇に落ちる。  

 縋る者たちは僅かに視線を上げた。希望を見たいと、陰鬱な男の影に縋りついた。

 ふっと小さな光が揺れる。ライターに火を灯したキザキは、縋る者たちの苦悩に歪んだ顔を一瞥すると、薄汚れた手帳をその灯火の前にかざした。

「ここにお前たちの親兄弟、親族の名前と顔、住所と職場、学校、その他諸々の情報が記してある」

 キザキはそう言って、手帳をポケットに仕舞った。縋る者たちはオロオロと視線を重ねる。だからどうしたと、彼らはお互いに首を傾げ合った。言葉の意味が理解出来なかったのだ。その薄汚れた手帳にいったいどんな希望を見出せというのか。縋る者たちは困惑の表情で、見えない影に向かって眉を顰めた。

「俺の命令通りに動け。さもなくばお前たちの親兄弟を殺す」

 縋る者たちの瞳が見開かれる。影の正体を見た彼らはそのあまりの強大さにゾッと全身の筋肉を強張らせた。

「これは殺しのリストだ。お前たちは家族を人質に取られ、やむをえず俺の命令に従った被害者だ」

「あ、あの……?」

 元“正獰会”の鈴原新太が顔を上げる。そんな彼にキザキは一切の視線を送らず、ただ抑揚のない声で、話を続けた。

「明日、午前九時二十分より、F市役所前で小野寺文久衆議院議員による街頭演説が行われる。そこを俺が襲撃し、奴をこの手で殺す」

 ざわりと低い騒めきが夜闇に沈んだ廃屋を揺らめかせた。だが、陰鬱な男の影は動かない。

「小野寺文久は心道霊法学会の創始者の一人だ。つまり、今回の拉致監禁暴行事件はテロリストである俺の青写真だったということになる。いいか、お前たちはあくまでも被害者だ。俺の命令に従わざるを得ず、お前たちは明日、その街頭演説の聴衆となる」

「殺せますか?」

 小森仁の能面のような顔が暗闇に浮かび上がる。キザキは相変わらず退屈そうな表情で、ほんの僅かにも首を動かさない。ただ彼は、その広い視野の端で、少年の瞳の底に揺れる青い炎をとらえていた。

「聴衆の間に立った俺は然るべき時に空に向かって発砲する。お前たちはあくまでも聴衆としてその場に立ち続けろ。そうすれば少なくとも奴の護衛の銃弾が俺の額を撃ち抜くことはなくなる。その後もお前たちは立ち続け、俺が小野寺文久を殺した後も立ち続け、俺が護衛に取り押さえられた後も立ち続けろ。お前たちは家族を人質に取られた被害者だ。だから、俺の命令通りに立ち続けていればいい」

「僕にも手伝わせてください」

 そう言って、小森仁はゆっくりと立ち上がった。キザキの腫れぼったい瞼が僅かに閉じられる。

「あなた一人の犯行では暴走族を従えた理由に不自然さが残る。学会二世であり暴走族である僕が貴方と共謀して犯行に至ったという方が自然でしょう。だから手伝わせてください」

「ああ、いいだろう」

「ありがとうございます」

「ただし、小野寺文久を殺せるかどうかは保証出来ん」

「はい」

「もし殺せなかった場合、お前は犬死だ」

「構いません」

「分かった。その時は一言、謝ろう」

「はい」

「俺を信じられるか?」

「どうか信じさせてください」

 黒い光が闇に浮かび上がる。拳銃を手にしたキザキはそれを右手に下ろすと、また縋る者たちを見渡した。

「一人、殺さねばなるまい」

 銃口が上がる。騒めきが大きくなる。それでも縋る者たちは膝を丸めたまま、ただただ強大な影を、じっと見上げるのみだった。

「一人でいい。お前たちが被害者だという事実に色を付けたい。さもなくばお前たちが潔白だという証明が難しくなる」

「僕が死にます」

 手を上げたのは鈴原新太だった。足を震わせながら、それでもなんとか立ち上がった彼の表情はとても柔らかく、夜を終わらせる太陽のように明るかった。

「僕を撃ってください」

 鈴原新太は拳を前に構えた。あくまでも影に抵抗する光であると、その精悍な眉が下がることはなかった。

「よし」

 抑揚のない声が落ちる。灯りが消える。

 銃弾が無限の影に呑まれると、白い煙が一筋、月のない夜空に向かって昇っていった。

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