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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
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愛の夢


 白髪の巫女の瞳がレンズの厚い老眼鏡を覗き込む。旧校舎の理科室は薄い日差しに暗く、白銅色に燻んだ水道が窓辺で乾いている。

「次じゃ」

 木製の実験台の上には百冊近い卒業アルバムが二つの山となって並んでいた。どちらも今にも崩れそうなほど乱雑で、ただ一方は、下から年代順となっている。そんな不安定な山の上にさらに一冊のアルバムがぽんと投げ落とされる。姫宮詩乃は窓の向こうで揺れるヤナギの木を睨むと、急かすように、その鷹のような眼光を真横の青年に向けた。

「はようせんか」

「は、はい」

 水口誠也は慌てた様子で年代のバラバラな片方の山を漁り始めた。すると、限界まで高く積み上げられていたアルバムがまるで山壁を雪崩れる岩のようにドスドスと木造の床に滑り落ちていく。白髪の老婆の瞳がさらに鋭く細められると、誠也は、恐怖心と気まずさからシュンと肩を落とした。それでもあの恐ろしい荻野新平と行動を共にするよりはマシだろうかと、いや、それならば八田英一と共に病院に向かえば良かったかと、今さら後悔したところで後の祭りである。

「おばあちゃーん!」

 風鈴の音色のような軽やかな少女の声が旧校舎裏のヤナギの青葉を揺らした。顔を上げた水口誠也は、古びた窓枠の外に現れた女生徒に、ドクンと胸の鼓動を高鳴らせる。旧校舎裏の花壇から理科室の窓に白い手を合わせた彼女はまさに彼の夢の人──最愛の姫宮玲華だった。

 その細やかな長い髪は街灯のない夜道に白い線を残す粉雪のようだ。姫宮玲華は昔とまったく変わらぬ姿で ──誠也の感覚で数十年──そこに立っていた。ビスクドールを思わせる整った顔立ち。自然と、ノクターンの緩やかな旋律が頭の中を流れ始める。涼やかな声に明るい夏色を合わせるルビーの唇。それはかつての無限の夜に永遠の愛を誓い合った──誠也の記憶では──証。溢れ始めた涙はウンディーネの光か。一雫も落とすまいと、誠也は静かに瞼を閉じる。そうして彼はおもむろに両手を頬の前に振りかざした。頭を流れる旋律を導くように、ゆっくりと、激しく、繊細に、壮大に、永遠の愛を空間に刻んでいく──フランツ・リスト『愛の夢 第3番』──。

 愛に言葉は要らない。愛に形は要らない。

 ただ、その想いを夜の旋律に、今、貴方の元へ──。

「はようせんか」

 白髪の巫女の鋭いチョップが水口誠也の脳天に下ろされる。木製の窓が開け放たれると、すてんと慌てたように、旧校舎の理科室に姫宮玲華が転がり込んできた。

「おばあちゃーん!」

 わあっと両腕を広げて老婆に飛びつく様は幼い少女である。姫宮詩乃はやれやれと、ほんの少しだけ嬉しそうに、孫娘の頭にシワのよった手を置いた。

「こーれ、立派なレディが公共の場で、はしたない振る舞いはやめにせんか」

「これは抱擁だもん。おばあちゃんなんて、あたしから見たらずっとずっとずーっと子供の子供なんだからね!」

「ほー、そうかそうか。ばあちゃんはまだ子供か」

「子供の子供の子供だよーだ」

 たっぷりの愛情が声と表情に表れていた。水口誠也は卒業アルバムを拾う手を止めると、溢れんばかりの笑みを口元に、「玲華ちゃん、お婆さま、良かったですね」と、二人の肩に手を置いた。「たわけ」とまた巫女のチョップが誠也の脳天に振り下ろされる。

「うえーん、おばあちゃーん」

「おーおー、困った子じゃよ、まったく。……そういえば玲華、お主は今さっきまで荻野新平という男と一緒におったんじゃろ。戸田和夫というバカジジイには合わなんだか」

「ばかじじいって? 変なお爺ちゃんになら会ったけど?」

「それは帽子を被った背の高いお爺ちゃんか」

「うん。禿げた背の高いお爺ちゃん。変なホームレスだよ」

 玲華の頬がぷくりと膨らむ。途端に白髪の巫女の表情が崩れた。

「はっはっは、そうかい、変なホームレスじゃったかい。言い得て妙じゃの」

 姫宮詩乃が高笑いを上げると、水口誠也はキョトンと目を丸めた。玲華も驚いたようで、老婆の白い着物に抱きついたまま、堀の深い彼女の顔をジロジロと見上げてしまう。

「お、おばあちゃんが笑ってる……」

「そりゃあ笑うわい、はっはっは、それで玲華よ、どうしてホームレスのお爺ちゃんと一緒にここを離れなんだ。ここはまだ色々と危険じゃろて」

「えー、だって車が狭かったんだもん。あんなオンボロに六人も乗れないよ!」

「ジジイの上にでも座れば良かろう」

「いーや! だっておばあちゃんが学校にいるって聞いちゃったし、それに千代子ちゃんだっているかもだし、だからあたしはこっちの方がいいの!」

 姫宮玲華はそう言って、甘えん坊な子猫のようにすりすりと頬を擦り寄せた。「本当に困った子じゃよ」と姫宮詩乃は肩を落とし、そうしてまた瞳は鷹の如く、水口誠也と共にアルバムの山に向き直った。



 海沿いの国道を右に逸れると街が現れた。波の音と共にパトカーのサイレンが潮風に飛ばされると、黒のワゴン車は静かに、活気ある街の影をすり抜けていく。目的地が決まっているわけではなく、取り敢えずワゴン車の持ち主である山田春雄の家にでも寄ろうかと、そんな行程だった。広い道ではナラの樹が蒼く茂った葉を薄墨色の空に伸ばしている。夏の日差しは白い。薄い木漏れ日。黒のワゴン車が街路樹の青葉をゆらりと揺らすと、後部座席の三原麗奈がゆっくりと目を覚ました。

「ねぇ」

 月夜の恋しい海辺で一人、青い貝殻にそっと語りかけるような、そんな声だった。焼け爛れた頬には薬指が当てられている。煤と木屑に汚れた白い足。窓の外に向けられた栗色の瞳は暗く、翳っている。

「今何時?」

「昼の二時だよ」

 徳山吾郎の顔は前に向けられたままだ。彼女の頬の傷は見たくないと、彼女の疲れ切った瞳には耐えられないと、彼女の犯した罪を今は考えたくないと、彼女の隣に座っていた徳山吾郎は涙を堪えつつ、唇のみをゆっくりと動かした。

「すぐに病院に向かうからね。だから今は休んで……」

「学校に行きたいの」

「ん?」

「会いたい人がいるの」

 車の進路が変わる。やっと目的地が決まったと、清水狂介は無言で、未完成に終わるだろう三原麗奈の絵画に想いを寄せた。完成させてやりたかったと、狂介は一人、残念そうに肩をすくめた。そんな男の隣で、睦月花子はただジッと過ぎ去っていく街の景色に目を細めている。後部座席で背中を丸めた吉田障子はオロオロと不安げな表情で、それでも彼は決して視線を落とすことなく、予想のつかない未来から目を背けまいと前を向き続けていた。

 学校の正門前には疎らに人が集まっていた。人通りのない裏道の木陰に車を停めた清水狂介は前を見据えたまま静かに腕を組む。後部座席のドアが開けられると、徳山吾郎が隣から優しく麗奈の肩を支え、いつの間にか外に出ていた睦月花子が下から乱暴に麗奈の身体を支えた。

「アンタ、これ以上何かしようってんなら、次はマジで容赦しないからね」

 猛獣の唸り声が湿った夏の歩道を冷たくする。麗奈は返事をせず、ただ縋るような表情で、藤峰高校の校舎を見上げ続けた。そんな彼女の左手を徳山吾郎が握り締める。吉田障子はといえばトボトボと、オロオロと、それでも確かな足取りで三人の後に付いていった。

「ねぇ君。王子様?」

 三原麗奈は前を見つめたまま、冬の夜空のように澄み切った声を真後ろに向けた。

「君も王子ってあだ名だったんだよね」

「あ、え、はい……?」

 吉田障子は肩を震わせた。それでも視線は落とすまいと、彼女のアッシュブラウンに透けるような後ろ髪を見つめ続ける。

「ねぇ王子様、私のお願いを聞いてくれないかな」

「あ、えっと……」

「足田クン……生徒会長を連れてきて」

「あ、あの……?」

「お願い」

 吉田障子は大きく頷くと、勢いよく走り出した。そんな彼の背中に睦月花子は軽い舌打ちをする。置かれた状況を分かってないのかと、苛立ったように眉を顰めた花子は、麗奈の身体を支えたまま校門まで足を急がせた。秋が迫っているのか、街路樹を揺らす夏風はやや涼しい。

 正門を抜けると、学校は意外にも静かだった。嵐が過ぎ去った後のように、グラウンドにも昇降口前にも人の影は見当たらない。白い日差しに校舎の中は暗く、寂しげで、ただ光の反射しない窓が日常の風景を鮮明に透かしている。

 校舎の中から三つの影が現れた。生徒会長の足田太志は少し慌てた様子で、不安げな表情の宮田風花と吉田障子がその後に続いてくる。

「え……」

 足田太志はすぐに顔面を蒼白させた。赤く焼け爛れた幼馴染の頬が目に映ったのだ。あまりのショックに彼は言葉を失ってしまった。

「ねぇ」

 その透き通った声に導かれるように、太志の足が動いた。三原麗奈の元に駆け寄った彼はすぐに彼女の細い肩を両手で包むと、険しい表情で、唇をキツく結び締めた。

「三原さん……」

「足田クン、ごめんね」

「な、何が……?」

「夏の大会出れなくなっちゃった」

 麗奈はそう言って、足田太志の手にそっと白い指を添えた。

「でも大丈夫だよ。代わりに彼が出るから」

 麗奈の視線が彼の背後の吉田障子に向けられる。吉田障子が「え?」と目を丸めると、今にも泣き出しそうな足田太志が言葉を絞り出すよりも早く、麗奈はまるでミュージカルダンスを披露するような軽やかな動きで、よっと足先から背中を、両腕を曇り空に伸ばした。

「だから見に行ってあげてね」

 それは普段の彼女が稀に見せる無邪気な笑みだった。頬の傷など忘れてしまったかのように彼女の表情は柔らかく、動きは滑らかで、声色は明るかった。足田太志は思わず肩を怒らせると、それでも彼女の頬は直視することが出来ず、彼女の栗色の瞳だけを覗き込むようにして、動揺と哀しみに震える息を何とか絞り出した。

「ま、待て……待つんだ、三原さん……! いったい、いったい君の身に何が……! いいや、そんな事よりも、と、とにかく早く病院に……」

「麗奈って呼んでよ」

 不敵な笑みが浮かび上がる。その強気な表情を彼は知らない。不意に栗色の瞳が足田太志の瞳に近づけられると、太志は驚いて視線を逸らしてしまった。

「麗奈って呼んで」

「あ、あの、三原さ……」

「私は麗奈がいい」

「れ、麗奈……さん?」

「にひひ、太志くん」

 ふわりと空気が軽くなる。吉田障子と宮田風花が照れたように顔を見合わせると、睦月花子はため息まじりに腰に手を当てた。黒縁メガネを中指で押し上げた徳山吾郎はといえば、何やら悔しそうである。

「ねぇ、キスして」

 ひやりと空気が凍り付く。徳山吾郎のメガネがずるりとズレ落ちると、吉田障子と宮田風花は顔を見合わせたまま固まってしまった。睦月花子の表情が険しくなっていく。

「キスしてよ」

「ええっ……と、その、三原さん……」

「麗奈でーす」

「れ、麗奈さん……。と、取り敢えず、病院に……」

「君がキスしてくれたら、夏の大会に出られるかも?」

 足田太志の表情が変わる。その視線は幼馴染の頬に、彼は激しい苦悩から瞳を翳らせてしまった。そんな彼の瞳を上目遣いに見つめながら、麗奈はもうっと頬を膨らませる。

「こんな傷、大したことないってば。私の魅力と演技力があれば、この程度の傷なんてメイクの一つだよ」

「ちょっとアンタ、自分の立場分かってんの?」

 見かねた花子が口を挟む。ほんのりと青黒い血管を腕に浮かばせた鬼の表情は思わしくない。

「夏の大会なんて出られるわけないでしょ。アンタはこれから……」

「ねぇ、キスしてよ」

 そんな花子の言葉を遮るように、麗奈は手の甲を前に差し出した。その意味を理解すると、足田太志はほんの僅かに肩の力を抜いた。

「分かったよ。ただし麗奈さん、今すぐ病院に行くと約束できるかい?」

「早く」

 太志はやれやれとため息をついた。そうして彼は照れくさそうに、少し嬉しそうに、麗奈の白い手にそっと唇を添えた。

「王子──」

 女の声だった。

 頬を真っ赤に染めた吉田障子の耳に、突然、女の声が届いた。

 誰の声かは分からない。それはまるで耳元で囁かれたかのようなハッキリとした声で、ただ透明で、ややもすると日常の音ともに何処かへ飛ばされていってしまいそうで、空耳だろうかと、吉田障子はキョロキョロと辺りを見渡した。

「障子──」

 空耳ではない。今度は少し遠くから、女の声が耳に届く。顔を上げた吉田障子はそれほど遠くない正門前の回転扉に向かって、怪訝そうに首を傾げた。ぼんやりと何かが揺らめいて見えたのだ。それは炎天下の陽炎のようで、濃い霧に沈んだ人のようで、彼はじっと目を凝らし、影の正体を掴もうとした。

「障子……!」

「お、お母さん……?」

 声に色が付くと、揺らめく影がそよ風に消え去り、痩せた女の姿が現れた。吉田真智子は悲嘆に暮れているようで、喜びに震えているようで、怒りに我を忘れているようで、安堵に涙を流しているようだった。その表情と仕草は鮮明で、ただやはり、過ぎ去っていく街の背景のように記憶には残らない。吉田障子は思わず目を擦った。そんな彼の背中に、宮田風花がそっと手を当てる。

「吉田くん、良かったね」

「あ、え……?」

「お母さん、美人だね」

 宮田風花はニッコリと微笑むと、嬉しそうに目元の涙を拭った。障子は何だか恥ずかしくなって、ブスッとした表情で視線を真横に逸らしてしまう。そうして彼はギョッと肩を跳ね上がらせた。三原麗奈の瞳が空色に薄れていたのだ。ただそれはほんの一瞬のことで、すぐに普段通りの栗色に瞳を濁らせた彼女は、ふぅと肩を落とした。

「あーあ、疲れた。やっぱり王子様って柄じゃないや」

「麗奈さん……?」

 足田太志はまだ麗奈の手を握り締めたままだ。そんな彼の手に、麗奈は愛おしそうに、そっと左手を重ね合わせる。

「私はお姫様がいい」

 そう言って麗奈は顔を上げると、薄墨色の曇り空に眩い笑みを送った。青々と透き通った空に両手を広げた少女のような、解き放たれた笑みを──。

「ねぇ君」

 麗奈の栗色の瞳が猫っ毛の少年に向けられる。吉田障子はドギマギと肩を丸めた。

「後は任せたぞ。王子様」

 白い日差しに照らされた校舎。蒼く茂ったヤナギの枝。女の影がゆらりと揺れる。

 その日、愛を夢見た一人の少女が、この世から姿を消した。

 

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